Ｔｅｄｄｙ　Ｂｅａｒ　２


パチッ。
パチッ。
静かな空間に、碁石を打つ固い音が響く。
家具のない畳の部屋、あるのは、碁盤と、二人の対局者、そして────巨大なクマのぬいぐるみ。
「‥‥冴木さん」
パチ。
「‥‥なんだ？和谷」
パチ。
「‥‥なんでオレら、こんなことしてんだろう」
パチ。
「さあ‥‥なんでだろう‥‥ねえ」
パチ。
「‥‥‥‥‥‥‥‥」
どちらからともなく、本日何度目かの溜め息をつく。


師匠の娘から譲られた（＝押しつけられた）クマのぬいぐるみは、確かにかわいいし、高価そうでもあった。
しかしそれがもらって嬉しいものかというと、世間一般の常識では一概にそうだとは言い切れない。
役に立たない。場所をとる。部屋の雰囲気に合わないし、そのうち埃もかぶるだろう。
癒し系ではあったが、あいにく冴木には、ふわふわのボアと綿の塊を抱きしめて喜ぶ趣味はなかった。
だから、和谷を捕まえた。

「和谷、お前逃げただろう。オレのことおいて」
「だ、だって、オレだって捕まりたくねーもん‥‥！」
「ふうん、兄弟子を見捨てるんだ。オレ、おまえの生け贄にされたんだ」
「しょーがねーじゃん！そりゃ‥‥悪かったとは思ってるよ」
「ああ、悪かったとは思ってるんだ」
「思ってるよ！悪かったよ！ごめんってば！」

「じゃあ、オレと賭けをしよう」
「‥‥へっ？」

「一局打とう。オレが勝ったら、あのクマはおまえにやる」
「えぇーっ！いらねーよ、オレ！」
「じゃ、お前が負けたら、あのクマを引き取れ」
「同じじゃねーかよ！」
「その代わり、お前が勝ったら、何でも好きなもの買ってやるよ」
「う‥‥‥‥‥」

ここで気持ちが揺らいでしまったのが不覚だったよなあ、と後になって後悔するのだが、あいにく和谷には、強力な誘惑だった。
一人暮らしの和谷としては、『なくても困らないが、あると生活が潤うもの』の候補は、山ほどあった────テレビやビデオ、冷蔵庫、ＭＤデッキ等々。
考えてみれば、ようは勝てばいいのだ。
確実ではないけれど、絶対に勝てないわけじゃない。
そして冴木は、そんな弟弟子の心理を見逃さなかった。
「オレに、勝つ自信、ないか？」
「えっ、いや、そんなことは‥‥」
「和谷だってずいぶん力をつけているんだ。オレだって余裕ってわけにはいかない。おまえに勝つ可能性は十分にあるだろう」
「うん‥‥」
「じゃあ、決まりだな。碁盤借りるって、先生に言ってくるよ」
「ああ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥あれ‥‥？」

そして、冒頭に戻るのである。

────パチッ。
「あ‥‥！」

「二人とも、終わったか────なんだ、和谷。そんな無茶な攻め方があるか。つぶされるに決まってんだろうが」
入ってきた森下が、二人の盤を覗き込んだ。
「早碁だからって雑になるな。お前は、早碁だと隙がでやすい‥‥って、和谷、どうした」
「‥‥‥‥‥‥‥‥‥いえ。負けました」
泣きそうな顔で笑い出した和谷に、森下は軽く首を傾げる。


冴木は視線をそらせて、和谷の肩を軽くたたいた。




「ふーん、で、和谷ん家にあるんだ。このクマ」
伊角がぬいぐるみの大きな顔を覗き込む。
和谷に誘われて彼のアパートを訪れた伊角は、そういうことか、と思わず笑みをもらした。
今日一日、和谷は元気がなかった。対局こそ勝ってはいたが、気にはなっていたのだ。
しかし、話を聞いてみればかわいらしいもので、
「あーっ、伊角さん笑うか！？オレほんっとに嫌だったんだからな！」
「ああ、ごめんごめん」
和谷が無造作に差し出したマグカップを、くすくす笑いながら受け取った。
和谷はどっかりと床に腰を下ろした。
「もーサイアク！冴木さんが車でもってきたからまだいいけどさ。こんなの抱えてその辺歩けねーっての。それにこいつ、昨日からこっち、どこにいても何やってても目に入るんだよ。ああ、オレ、ストレスでキれそう」
「いっとくが、オレは遠慮するからな」
「賭けしない？」
「しない」
「だろうと思った」
和谷は盛大に溜め息をつく。
「ウチ実家も狭いしさあ。伊角さん、どうしたらいいと思う？」
「う〜ん、けっこうかわいいんだけどな。新品だろうし、高価そうだし」
「そのセリフで、冴木さんがやられたんだけど」
「待て待て！オレは勘弁してくれよ」
「いいアイデアくれればね」
「ハ、ハハ‥‥」
伊角の笑顔が引きつる。

「和谷、奈瀬に訊いてみたらどうだ？」
「奈瀬？」
「奈瀬なら案外喜ぶんじゃないか？女の子はたいていそういうの好きだろう」
「そうか、奈瀬！」
和谷は手にしていたマグカップを勢いよく床に置いた。
「こら、和谷！コーヒーこぼれたぞ！」
「そーかー、奈瀬がいたんだー」
伊角が慌てて雑巾を探しだしても、和谷はガッツポーズをしていた。
「そっかあ！そうだよ、奈瀬、女だったんじゃん！」
「‥‥和谷、それ、間違っても奈瀬の前で言うなよ」
雑巾を手に、伊角は頼りなく笑った。




翌日、和谷と伊角は、棋院で奈瀬と落ち合った。
クマを抱えてやってきた和谷はとたんに衆目の的となり、奈瀬も一発で見つけることができた。
「ちょっと、なにそれ、やだ、大きい、やだ、かわいい！」
奈瀬が甲高い声を出して、クマの頭にとびつく。
和谷は半ば押しつけるように奈瀬に抱えさせると、ようやく表情を弛め、安堵の溜め息をついた。
「奈瀬、助かったよ。やっぱオレが持ってるよりずっと似合うよ。なあ、伊角さん」
「ハハハ‥‥」
和谷の開放感があまりに分かりやすくて、伊角は表情を崩す。
何しろ、駐車場からここまで運ぶのをさんざんごねて、伊角にジャンケンを持ちかけてきたのだ。結局負けたのは和谷自身で、運ばざるを得ない状況に追いつめられたのを見ていただけに、ご苦労様とねぎらいたくなる。
奈瀬はきょとんとその様子を見ると、とたんにころころと笑い出した。
「やっだあ、和谷も伊角さんも似合うわよ。ほら、持ってみて」
強引に押しつけられて、今度は伊角がクマを抱える。
「ほらあ、伊角さんかわいい！」
「奈瀬‥‥‥‥」
伊角ががっくりと頭を落とす。けれど奈瀬はおかまいなしだ。
「進藤とかも似合いそうね。あ、でも進藤、今いないんだっけ」
「そう。この前名古屋から帰って、今度は広島」
「あいつ、ほんっと忙しいわよねー」
あたしもがんばんなきゃ、と奈瀬が続ける。

伊角が抱えていたクマを奈瀬に差し出した。
「ほら、奈瀬」
けれど、奈瀬は受け取らなかった。
「奈瀬？」
「あー、アハハハ、ごめん！」
いきなり手を合わせた奈瀬に、二人は固まった。
「ちょっと待て、奈瀬、まさか‥‥」
「だって、これから遊びに行くんだもん。そんなに大きいの、持っていけないじゃない」
「大きいって、昨日電話でいっといたじゃん、オレ！」
「聞いたけど、こんなに大きいなんて思わなかったんだもの」
「奈瀬ぇ〜！」
泣きそうな顔でくってかかる和谷を奈瀬は、どうどう、と手のひらで押しとどめる。
「和谷、そんなに嫌なの？泣くほど」
「泣いてなんかねーよ！すっげー嫌だけど！」
「男の子がテディベア持ってるのって、かわいくっていいと思うんだけどなあ。あ、かっこいいコ限定だけど」
「オレはぜんっっぜん思わねえ！」
「‥‥あんた、それじゃあカノジョに逃げられるわよ。いたら、の話だけど」
「悪かったなあ！どーせオレぁ、女に縁がねーよ！」
「‥‥二人とも、話が逸れてるぞ」
伊角はクマを抱えたまま、やれやれと溜め息をつく。

「要するに、和谷はそのクマを、処分したいんでしょ？分かったわよ。一応あたしにも責任があるみたいだから、それ、あたしが何とかするわ」
そう言って、奈瀬は伊角からクマを受け取った。
「奈瀬‥‥大丈夫なのか？」
伊角が尋ねる。
奈瀬は、よいしょ、と抱えなおしながら振り返った。
「なにが？」
「だって、これから出かけるんだろう？それ────」
「奈瀬、まさかそれ、ゴミ箱に捨てていくんじゃ────」
「ちょっと、失礼しちゃうわね！」
奈瀬にぴしゃりと一喝されて、和谷は思わず後ずさった。
「こんなに大きいの、ゴミ箱にはいるわけないじゃない。だいたいあんた達だって、ぬいぐるみ捨てるの怖いから、あたしにもらってくれって言ったんじゃないの？あたしだって、嫌よ。たたられるの」
「仰せの通りです！ごめんなさい！すみません！」
あまりの迫力に、和谷は必死に謝りたおす。
けれど、内心ほっとしていた。
確かに邪魔でうっとうしい。でも、邪険にしたくはなかったのだ。できれば、かわいがられてほしかった。
だから、誰かにもらってほしかったのだ。自分にはできないから。
けれど、押しつけた奈瀬は、持って帰れないと言う。
では、どうするのだろう。

「バッカねえ。リサイクルショップで引き取ってもらうのよ」

男二人は、「あ」と口を開いて、顔を見合わせた。
「リサイクルショップ‥‥」
「そうよ。ぬいぐるみじゃたいした額にはならないけど、少なくとも引き取ってはもらえるでしょ」
「でも、この辺にそんな店あったか？」
「そんなの、電話帳見れば分かるわよ」
伊角が目を丸くする。奈瀬ってすごい、と、和谷は小さく拍手した。
そんな二人に向かって、奈瀬は口元だけで微笑んだ。
「そーゆーわけだから、二人とも。調べてきてよね。ここから一番近いリサイクルショップ」
「え、でも、電話帳って‥‥」
「なに寝ぼけたこと言ってんのよ。受付で訊きなさいよ。あるはずだから。ほら、早く！」
肩で背中を押されて、和谷と伊角は慌てて受付へと走った。



クマを抱えてその頭に顔を埋めたまま、昨日の自分の一局をつらつらと検討していると、
「うわぁ、かっわいいクマだねぇ」
突然頭の上から声をかけられて、奈瀬は弾かれたように顔を上げた。
「あ、ごめんねー。びっくりさせて」
「芦原先生‥‥」
芦原は人のよさそうな笑顔でクマをのぞき込み、だらんとたれていたクマの手を取って握手していた。
奈瀬は芦原と接点がない。奈瀬は上段の芦原を知ってはいたが、芦原は奈瀬を知らないだろう。
なのに、この人なつこさ。
奈瀬はしばらく呆然とその様子を見ていたが、はた、と我に返ると、芦原に向けて声をかけた。
「かわいいですか？」
「うん。かわいい。いいなあ、なんか癒し系だよね」

「じゃあ、あげます」

きょとん、と、芦原は奈瀬を見た。
奈瀬はにっこり微笑んだ。
「芦原先生、もらってください」
「え、だって、君のだろう？」
「う〜ん、もらったんですけど、似たようなのをもう一つ持ってるんですよ。さすがにこのサイズだと、あたしの部屋に二つはキツくて‥‥」
嘘は言っていない。ただし、奈瀬の部屋にあるテディベアは手のひらサイズだが。
「もらってくれるって言ってた友達も、この大きさ見て逃げちゃって。もう捨てるしかないのかなーなんて、考えちゃったりもするんですよね」
「えっ、捨てちゃうの？かわいそうだよ、それは」
「そーですよねえ。だから、芦原先生かわいいって言ってくれたし、もらっていただけるとあたし、すごく嬉しいんですけど‥‥」
だめ押しで、上目遣いにじぃーっと芦原を見つめる。
芦原は子どものようにニコニコと笑った。
「いいよ。じゃあ、ぼくがもらうよ。ありがとう。えーっと────」
奈瀬の腕からクマを抱き上げながら、芦原はようやく相手が誰だったかを考えだした。
奈瀬は、空いた両手を後ろに組んで、笑顔で答えた。
「奈瀬です。奈瀬明日美」
「奈瀬さん、ね。どうもありがとう」
芦原はクマの手を取り「バイバイ」と振りながらエレベーターに乗って行ってしまった。
手をふりかえしながら見送っていた奈瀬は、扉が閉まったのを見届けると、固まっていた笑顔を崩して深々と溜め息をついた。


「あれ、奈瀬、クマは？」
５分後、ばたばたと戻ってきた和谷と伊角が見たのは、コーヒーを飲んでいる奈瀬の姿だった。
奈瀬は視線だけ向けて、平然と答えた。
「あげちゃった」
「誰に」
「芦原先生」
「芦原先生？って、あの？塔矢門下の？」
「そう。あの、塔矢門下の、芦原先生」
嘘‥‥とつぶやきながら、伊角と和谷は顔を見合わせた。
「喜んで持って帰ったわよ」
「‥‥‥‥‥‥喜んで？」
眉根を寄せて、ますます考え込む。
「喜んでたんじゃない？クマと握手してたし、あたし、クマに『バイバイ』されちゃったし」
さーて、遊びにいこー、腕を前に出して体を伸ばすと、奈瀬は手にしていた缶を、くずかごの中に放り込んだ。