Ｔｅｄｄｙ　Ｂｅａｒ　３



芦原は、よく言えばおおらか、言い方を変えれば、物事を深く考えないタイプの人間だった。
だから、クマのぬいぐるみを抱えて外を歩いても、重くて歩きにくいかな程度にしか考えないし、碁会所の外で出会った緒方が、目があったとたんに背を向けて立ち去ったのも、呼んだんだけど聞こえなかったのかな、くらいにしか思わなかった。
それを「ほほえましい」ととるか、「アブないヤツ」ととるかは、意見の分かれるところかもしれない。

「こんにちわー」
芦原が碁会所に足を踏み入れると、市川が「あらあら」と声を上げ目を丸くした。
「芦原先生、どうしたんですか、そのぬいぐるみ」
「もらったんだ。かわいいだろう？」
人のよい笑顔をふりまきながら、クマの手を持って振ってみせる。
奥にいたアキラが、声に気づいて顔を上げた。
「よう、アキラ。来てたのか」
やあ、と手を挙げたのは、毛むくじゃらの太くて短い白い腕。
「芦原さん‥‥」
笑みを軽くひきつらせて、アキラはぎこちなく会釈した。
芦原はぬいぐるみを無造作にカウンターにのせた。
「そういえば、表で緒方さんに会ったんだけど、来てる？」
「ええ、いらしてるわ。今、奥にいらっしゃるんじゃないかしら」
市川が、さりげなくぬいぐるみを押しやって、前が見える程度の空間を確保する。
「緒方さんなら、お客さんに指導碁打ってるよ。珍しく」
アキラが席を立ってやってきた。
「雨が降るかしら？」
「やだなあ、オレ傘持ってきてないのに」
三人そろって失礼な物言いだとは気づいていないあたりが、立派な大物ぶりである。
「なんだ、やっぱり緒方さんだったんだ。さっき声かけたんだけど、気がつかなかったみたいでさ」
それは、『気づかなかった』んじゃなくて、『気づきたくなかった』のでは────とは、アキラも市川も笑顔の外には出さなかった。
「ところで芦原さん、それ、だれにもらったの？」
「えーとね、奈瀬さんていったかな。女の子。かわいかったよ」
「あら、芦原先生やるぅ」
「あははは。でもそんなんじゃないよ」
「一度家に置いてくればよかったのに。また持って帰るの、大変でしょう」
「それなんだけどさあ」
芦原はカウンターに片腕を乗せて、身をのりだした。
「もらったはいいんだけど、オレん家こんなでかいの入んないだろ。で、ここに置いてくれないかなあと思って」
「ここに？」
「ほら、看板娘ならぬ、看板グマ。たとえばさ、こんなふうに────」
芦原はカウンター脇に椅子を持ってきて、クマを座らせる。
「あら、かわいい」
「いいかも」
「だろう？」
得意げな、芦原の笑顔。
「よかったなあ、おまえ。就職先が見つかって」
芦原はぽんぽん、と、クマの頭をたたいた。

数時間後、店を出ようとした緒方が、カウンター前でぴたりと足を止めた。
うつむき加減に座るクマのぬいぐるみを、至極難しい表情で凝視する緒方を見て。
市川はこっそり、忍び笑いをもらした。





碁会所を訪れたヒカルは、まるで幽霊にでも遭遇したかのような驚きようだった。
「なっ‥‥‥なな‥‥‥‥‥っ！！」
「ちょっと、大丈夫、進藤君？」
市川が不思議そうに声をかけたほどだ。
すぐに奥からアキラが出てきた。
「どうしたんだ、進藤」
ヒカルはアキラを見つけると、クマを必死に指し示した。
「ああ、それ？」
アキラは、ヒカルが何に驚いているのか訝りながらも、いつものように凛と答えた。
「芦原さんが持ってきたんだよ。おととい」
「‥‥芦原先生、買ったの？」
「いや、もらったんだそうだよ。奈瀬さんって人に。進藤、知ってるんじゃない？」
「な、奈瀬ぇえ？」
森下家にあげたはずのものが、どこでどう奈瀬に渡り、芦原に渡ったのか。
ヒカルはクマを睨みつけたが、もちろん答えが返ってくるわけはない。クマはただ、うつむき加減にじっと座っているだけだ。
あんまり恐ろしい形相でぬいぐるみのクマを睨みつけるので、
「進藤？進藤、このクマのぬいぐるみがどうかしたのか」
アキラがヒカルの顔をのぞき込む。
ヒカルはそこでようやく、自分の奇怪な行動が注目を集めていることに気づき、慌てて笑顔を取り繕った。
「ア、アハハ、や、なんでもない。アハハ、で、でっかいクマだよなーって‥‥ハハ」
「‥‥進藤？」
「なんでもない。なんでもない。さー、塔矢、対局しよーぜ！対局！」
「ちょっ‥‥おい、進藤!?」
ヒカルは強引にアキラの背を押して、いつもの席へと向かった。


────そして。
「‥‥ボクの勝ちだね」
「‥‥‥‥‥‥‥‥」
上目遣いに視線を送ってくるヒカルを後目に。
アキラは深く深く溜め息をついたのだった。


アキラがかなり怪しんでいることは分かったが、結局、ヒカルはだんまりを押し通した。
思えばアキラには嘘と隠し事ばかりだ。けれど、それでもこうしてつきあっているのだから、ひょっとしたら彼は案外心が広いのかもしれない。もっとも、思いこんだら一直線で言葉を飾らないところなどは、「このヤロー」と思うこともしばしばなのだが。
そんなアキラに、くだんのぬいぐるみがヒカルのものだったとバレたら、彼はなんと言うだろう。
持って帰るように言われるかもしれない。言いそうだ。「ここは碁会所だ。ぬいぐるみなんて不自然だろう。さっさと持って帰ってくれ」とかなんとか。
それは、困る。
「‥‥‥‥黙っていよう。うん」
今さら言えないことが一つ増えたところで、大したことはない。
血液型Ｏ型に違わず、ヒカルの思考は大雑把‥‥もとい、おおらかだった。
ヒカルは帰り道、夜空に向かって拳をつきだした。




碁会所の主が『それ』と遭遇したのは、その翌日のことだった。
「まあ、塔矢先生。どうなさったんですか」
「なに、ちょっと時間が空いたものでね」
そう言って、行洋はカウンター脇に目をとめた。
「これかね、芦原君が持ってきて進藤君が怯えていたというのは」
「怯えていた、というか、大騒ぎしたというか‥‥。先生、情報が早いですね」
市川がクスクスと笑う。
行洋はしばらくじっとぬいぐるみを見つめていたが、やがてぽつりとつぶやいた。
「‥‥アキラに似ているな。小さい頃の」
「‥‥ああ、言われてみれば、そうかも。こう、つぶらな目とか、やさしげな雰囲気とか？アキラくんから進藤くんをとったら、こんな感じかもしれませんね」
表向きは穏やかなのに、進藤ヒカルがからむととたんにプライドの高い本性が表れることは、アキラをよく知る者なら誰でも知っていることだ。
「進藤君は、これのどこが怖いのだろうか」
「さあ。幼児体験の過程で何かあったんじゃないですか。彼、見るからにわんぱく坊主だったって感じですもの」
「そうか‥‥‥‥」
行洋は着物の袂に両手を入れて、またじっとそれに見入る。
やがて、

「市川君、これをもらっていってもいいかな」

「‥‥‥‥これ‥‥って、このぬいぐるみですか？」
「ああ」
平然と答える行洋を、市川は呆然とみつめる。

芦原なら分かる。彼は天然だ。納得がいく。
しかし、かつての五冠、元名人、そして、神の一手に最も近いと言われた塔矢行洋が、テディベア。

行洋が、そんな市川の表情を見て、フッと口元を弛めた。
「ここにあると、進藤くんはきづらいだろう。それにアキラも大きくなってしまって、私も碁ばかりだからね。こんなものでもあれば、家内も気が紛れるだろう」
「あ‥‥ああ、奥様に、でしたか」
市川はアハハハハ、とごまかすように声を立てて笑った。
「でしたらわたし、お宅までお持ちします。車ですから」
「そうか。ではお願いしよう」
「まかせてください」




「進藤、これから碁会所へ来ないか」
棋院での対局をそれぞれ終えた後、アキラはヒカルに声をかけた。
ヒカルは足を止め、わずかに顔をしかめた。
「なんだよ、わざわざ待ってたのか？」
「そんなに待っていないよ。対局相手を見る限り、キミならきっと中押し勝ちだと思ってたから」
「だからって、だったら先に声かけろよ。オレが先に終わって帰っちまうかもしれないだろ」
「そうか。そうだね」
「‥‥自分より早く終わるはずがないと思ってるところが、塔矢らしいよな」
「そんなことないよ」
「よく言う‥‥」
ヒカルは出口に向かって歩き出した。
アキラが隣に並んだ。
「進藤」
「行くんだろ。こないだのリーグ戦のやつ、並べてくれよ」
「いいよ」
よく晴れた空の下、二人は駅に向かって並んで歩いた。

「そーいや、さあ‥‥」
ヒカルが切り出す。
どこか歯切れの悪い物言いに、アキラは口元をやわらかくほころばせた。
「あのぬいぐるみね、今ウチにあるよ」
「えっっ！？塔矢ん家にっ！？うそっ、なんで‥‥‥って、あ、いや‥‥」
ものすごい勢いで振り返ったくせに、必死に気にしていないふうを装うのがかわいらしくて、アキラは吹き出すのをこらえるのに苦労する。
「なんでそんなに気にするのかな」
「気にしてねーよ」
「そう？」
「そう！‥‥‥‥で？」
「で、って？」
「だからっ‥‥‥‥なんで、おまえん家に、あるのかって」
「気にしてるじゃないか」
「気にしてねー！もーいい！」
プイ、とそっぽを向くヒカルに、ついにクスクスと笑い出す。
ヒカルがばつの悪そうな顔をして、力強く歩を速めた。
謎を隠すのは巧いくせに、感情を隠すのは本当に下手で分かりやすい。
アキラはヒカルを追い、隣に並んだ。
ヒカルが早足で歩くなら早足で歩くし、ヒカルが走るなら、一緒に走るまでのこと。
ヒカルはどうしても視界の隅に入る涼しい顔に諦めて、速く歩くのをやめた。
それでも不機嫌そうなヒカルに、アキラは気にしていないふうな顔をして言った。
「お父さんがね。ああ、運んだのは市川さんだけど」
「お父さん‥‥‥て、塔矢先生？」
「そうだよ。塔矢行洋元名人」
「‥‥‥‥‥‥‥‥」
困惑極まれり、といった表情がヒカルを彩る。

ほんとうに、かわいい。

アキラは、ヒカルの手を取ってひっぱった。
「予定変更。ボクの家に行こう」
「なっ、ちょっ‥‥塔矢！」
「大丈夫。怖くないから」
「なんにも怖がってなんかねーよ！おいっ、聞いてんのか、おいってば、手ぇ放せよ塔矢！」
「うるさいな。その口、塞いであげようか」
艶やかな笑顔で振り返ったアキラに、ヒカルがぴたりと押し黙る。
何で、とは聞けなくて。
「どうする？」
「‥‥‥‥いきゃあいいんだろ」
「歓迎するよ」
道行く人が、手をつないで歩く二人に、遠慮ない視線を投げかけてくるのが、ヒカルにはいたたまれなかったというのに。
結局アキラは、家に着くまで手をはなさなかった。




塔矢家に着くと、アキラはヒカルを父のいる座敷へと連れて行った。
「入りなさい」という声にアキラがふすまを開ける。

そして、ヒカルは固まった。

「おや、進藤君も一緒か」
顔を上げた塔矢父の、碁盤をはさんで相対しているのは、
「な‥‥‥‥なんで‥‥‥‥」
灰色がかった白い毛皮の、巨大なクマのぬいぐるみ。
「母にってもらってきたんだけどね。父のほうが気に入ってるみたい」
アキラが耳打ちする。
「たまにこういう無垢なものと対すると、心が和むのだよ。普段は殺伐とした真剣勝負だからね」
聞こえていたのか、行洋が小さく微笑んだ。
ヒカルは笑みをひきつらせた。

「進藤君、せっかく来たんだ、一局打たないか」
「お父さん。ボクが先です」
「そうか。ではその後に」
「え〜と‥‥‥‥」
ヒカルは腕時計に目を走らせた。
誰もが相手をして欲しがる塔矢元名人からのお誘いは、おいしすぎることこの上ないが、アキラと対局して検討した後では、間違いなく夜遅くなってしまう。
「時間なら気にすることはない。今日は泊まっていきなさい」
「もともとそのつもりです。そうだろう、進藤？」
「そのつもりなのは、オレじゃなくておまえだろう！」
というヒカルの抗議は、アキラの髪一本動かさない。
「ではお父さん、失礼します。進藤、行こう」
「え、あ、うん。失礼します‥‥」
アキラがゆっくりとふすまを閉める。
その隙間から、元名人がパチリと石を置くのが見えた。

うつむき加減のクマの目は、ちょうどその様を見ているようで。

「進藤？」
「ああ‥‥なんでもない」

ヒカルは踵を返した。

自然と緩んだ頬が、無性に快かった。