| 晩秋 （一） |
佐為がいた。 佐為がいた。 今、目の前に佐為がいる！ 佐為は、壁を背に端座していた。 ほの暗い灯りが、白い面をぼんやりと浮かび上がらせていた。 口元に軽く開いた扇を当て、涼やかな瞳を驚きに見開いていた。 ヒカルは、もう一度、今度ははっきりと意志を持って、叫んだ。 「佐為！」 ――――あれから、五回、〈五月五日〉を迎えた。 全身で泣いた。 全力で探した。 そして己の碁の中に、佐為を見つけた――――そう、信じた。 碁を打ち続けた。 ただひたすらに、打ち続けた。 上を目指した――――否、「神の一手」を目指した。 「神の一手」がなんたるかなど、ヒカルは知らない。 けれど、彼の者の意志を繋ぐこと――――それが、ヒカルにできる全てだったから。 けれど。 「佐為‥‥‥‥」 逢いたかった。 「佐為‥‥‥‥！」 話をしたかった。 「佐為！」 夢でも想像でもない、直に、向かい合って！ 「あの‥‥‥‥泣かないで、くださ、い‥‥‥‥」 「え‥‥‥‥」 佐為の赤い唇が、吐息のような声を紡いだ。 「あの‥‥‥泣かないでください。ちゃんと、話は伺いますから‥‥‥」 それに、とつけ加える。 「お慰めしようにも、私にはあなたの涙を拭いて差し上げることはできませんから‥‥」 ヒカルは慌てて右腕をあげて目元をぬぐった。 そして初めて、自分が泣いていることを知った。 ヒカルはもう一度、グイと顔をぬぐった。 そして敢然と顔を上げ、佐為を見据えた。 佐為は気圧されたかのように、壁に背を押しつけた。 頭の芯が、異様なほど熱かった。 まともな言葉を発することができないほどに。 ひとつ深呼吸をして、そしてヒカルは言った。 「‥‥‥そんなこと知ってるさ。おまえ、幽霊なんだから」 佐為は目を見開いたまま黙っていた。 「なんでもいい‥‥‥いい、逢えたから。逢いたかった。ホントはずっと、逢いたかったんだ、オレ‥‥‥っ！」 また、言葉が出なくなってしまった。 喉につかえて、息はできるのに、苦しくて、ヒカルはまた俯く。 「あの‥‥‥‥」 佐為が言った。 「私は、幽霊ではありませんよ‥‥？」 「‥‥‥‥‥なんだって？」 「ですから、私は幽霊ではありません。ちゃんと生きています」 ヒカルは弾かれたかのように立ち上がった。 佐為がヒッ、と声になるかならないかの叫び声をあげた。 ヒカルは、ほぼ部屋の反対側にいる佐為の元へと詰め寄ると、小さく縮こまった佐為に向かって、力いっぱい拳を振り下ろした。 拳は、何の感触も残さずに、佐為の体を通り抜けた。 「‥‥やっぱ、ユーレイじゃねーか」 袖で顔を覆いカタカタと震える佐為を見下ろして、ヒカルは軽く溜め息をついた。 ほんの少し、期待したのだ。 佐為に『触れる』のではないか、と。 「‥‥おい。いつまでビクビクしてんだよ。痛くなかっただろ？」 あまりの怯えようを心外と感じつつ、少し語調を和らげる。 ――――と、佐為は袖の陰から、泣き出しそうな声で言った。 「あのっ‥‥お願いですから、祟らないでください」 「は？」 タタル？ 「あなたがどういう訳でこちらへ現れたのかは存じませぬが、なんでもいたしますから、どうか私を祟らないでください」 なにを言っているのだろう？ ヒカルは佐為の前に膝をつき、体をのりだした。 「ちょっと待て。祟るって何だよ。オレが祟る？『おまえが』の間違いだろ？」 「私が？陰陽師でも僧でもない私が、どうして〈霊〉のあなたを祟れましょう？〈霊〉はあなたです。私ではないのです」 「‥‥‥‥オレが？ユーレイ？」 佐為はおどおどと視線をヒカルに向けた。 「昼過ぎに御所より帰りましたところ、こちらにあなたがいらしたんです。うずくまって、眠っていらした。起こそうと思い、触れようとしたところ、私の手はあなたをすり抜けてしまいました。恐ろしくて、人を呼びに走りました。けれど、私には見えるのに、牛飼い童も、下働きの者達も、何も見えないと言うのです。それで、すぐに知り合いの陰陽師を呼びました。けれど、その方にも見えませんでした。ただ、何となく気配はある、悪意ある気ではない故、しばらく様子を見てはどうかと。ですから‥‥‥‥！」 まるで、それまで抱えていた不安を一気に吐き出すように、佐為は語った。 一瞬、騙そうとしているのではないかとも思ったが、その目を見て、嘘をついているのではないと分かった。 もとより、馬鹿がつくほど正直な男だ。それを、ヒカルは知っている。 「‥‥‥‥おまえ、佐為、だよな？藤原佐為」 佐為は口元を覆っていたはずの扇を忘れるほど、真摯な瞳でヒカルをとらえた。 「確かに、私は藤原佐為です！あなたはなぜ、私の名を知っているのですか？」 「あなたは、私を知っているのですか？」 「あなたは、何者なのですか？！」 ――――周囲のあらゆるものが、急激にヒカルの意識になだれ込んだ。 板張りの床。 カーテンのような衝立。 やけに飾り立てた簾。 電化製品は見あたらない。ベッドもない。 あるのは、小さな机と――――碁石ののった、螺鈿の碁盤。 ――――佐為の、生きていた時代‥‥‥‥か。 ヒカルはぺたり、と床に座り込んだ。 |
| 2002.9.25 |