〈永夏＆秀英〉




「また並べてるの？」

秀英が問いかける。
永夏は黙って、盤面に石を並べていた。

一つ、また一つ。
まるで、石の流れに隠された暗号を読み解こうとするように。

ヒカルが帰ってから、永夏はずっとこの調子だった。
並べては、崩し。
また並べて、崩す。
もう、三時間にもなる。


最後の一手を置くと、永夏は腕を組み片方の拳を口元にあてて、盤上に広がる白黒模様を見下ろした。
それも、先程までと同じだった。
そうやってしばらく考え込み、また崩して、初めから並べ直すのだ。
秀英は軽く吐息をついた。

永夏が進藤ヒカルに負けるとは思ってもみなかった。
ヒカルは〈本因坊秀策〉が打ったと言ったけれど、そんな都合のいい話があるはずがない。
現に、目の前で打っていたのは、まぎれもなく進藤ヒカルだった。
だからこそ、意外だった。
北斗杯では半目差まで肉薄していたが、それでもまだ〈高永夏〉を越えることはないと思っていたのだ。

誰よりも間近で見てきたから、分かる。

高永夏は、強い。

強くなるための努力を惜しまない。
揺らぐことのない信念と、確固たる自信で突き進んでいる。
止まることを知らず、彼は強くなり続けている。

『未完』の〈強さ〉────それこそが、高永夏の〈強さ〉だ。

では、進藤は？

「永夏」
声をかけても、動かない。
秀英は溜息をついて、その場を離れようとした。

「秀英」

突然呼ばれて、秀英は弾かれたように振り返った。
永夏の姿勢はちっとも変わってはいない。
なんだか、久しぶりに声を聞いたような気分だった。

秀英は踵を返し、永夏のすぐ傍らへと歩み寄った。
「何？永夏」
永夏は盤上に視線を据えたまま言った。
「秀英。おまえ、〈幽霊〉って信じるか？」
「幽霊？」
秀英は呆れたように眉尻を下げた。
「少なくとも、ボクには幽霊なんて見えなかったよ。永夏はあれが、〈幽霊〉の仕業だと思ったの？」
「〈幽霊〉かどうかはともかく」
永夏は僅かに肩をすくめて、目で秀英を盤上へと促した。
「‥‥これは、進藤ヒカルじゃない。ような気がする」
「だから、秀策の幽霊だって？そりゃ確かに、秀策の手によく似てるけど」
秀英は盤面を見下ろして軽く唸った。
「ボクもこの間の北斗杯の後、進藤と打ったけれど、進藤の碁は秀策がすごく影響しているよ。もちろん、この強さはなかったけど。でも、この３ヶ月で進藤が秀策の研究を深めたんだとしたら、この碁もありえるんじゃないかな」
「アイツの３ヶ月に、オレの３ヶ月が足りないって？」
「そういうんじゃないよ！」
ちら、と視線を向けられて、秀英は慌てて言いつのる。
「でも、そうじゃなきゃ、説明がつかないじゃないか」
「そうか‥‥‥‥」
永夏は深く息を吐きだして、椅子の背もたれに長身を預けた。
「でも、やっぱりこれは、進藤ではないような気がする」
「どんなところが？」
「まあ‥‥‥これは対局したオレだから感じるのかな。〈気〉が、違うんだよな」
永夏は石の並びを眺めやりながら、どこかつぶやくようにそんなことを言った。

秀英は、目を丸くして永夏を覗き込んだ。
「〈気〉って、永夏、そういうの分かるの?!」
「秀英だって分かるだろう？対局していて、相手の気迫とかを感じることってないか？」
「ああ‥‥‥うん」
「同じだよ。さっきヤツと対局した時、なんとなく‥‥そう、塔矢元名人のような‥‥いや、もっとそれ以上に、老練な人間と打っているような感じがしたんだ」
「『老練』？進藤が？」
「だから、おかしいって言ってるんだろ」
「ああ‥‥そうだったね」
永夏は体を起こし、形のよい長い指で、盤上の一角を指し示した。
「このあたりは、まさに秀策なんだ。でも、こっちは現代の手筋だ」
「うん」
「これだけなら、確かに進藤に似ているさ。だが、これらの生かし方が、見事すぎるんだ」
「ああ、それはボクも思った。でもこのあたりの永夏の打ち回しは、相手の上をいっていると思うけど」
「それをひっくり返すやりかたが、秀策らしいだろ」
永夏の指先に、秀英は頷く。
「とにかく、こちらの意表をつくなんてレベルじゃない。とてもじゃないが、進藤にはムリだ。だからこれは、進藤じゃない」
「う〜ん‥‥‥‥‥」
秀英は唸るしかなかった。

一つ溜息をついて、永夏は石を崩し掻き集めだした。
大きくて指の長い、けれどよく見れば爪のすり減った碁打ちの手が、集めた石を碁笥に流し込んでいく。
その様子を見つめながら、秀英は言った。
「でも、打っていたのは進藤だったよね」
「そうだな。でも、進藤じゃない」
「だから、〈幽霊〉？」
「オレたちにはなくても、進藤には霊感があるのかもしれないぜ」
「そうかなぁ‥‥‥？」
秀英は思いきり頭をひねる。

目に見えなければ、気配もしなかった。
本当に、〈幽霊〉はいたんだろうか。
だったらまだ、進藤ヒカルがはったりで自分達を攪乱し、動揺した永夏から勝ちを拾ったというほうが信じられる気がする。

永夏がすべての石を戻し終えたところで、秀英は向かいの席に腰を下ろした。
「永夏。一局打ってくれない？」
永夏は一瞬きょとんとして、それから艶やかな笑みを浮かべた。
「ああ、いいぜ」
間に挟んだ碁盤越しに碁笥を渡され、秀英は手を伸ばしてそれを受け取った。

「ねえ、永夏」
「なんだ？」
「さっきの対局だけど‥‥〈幽霊〉じゃなくて、本当に進藤が打っていたとしたらどうする？」
永夏はムッしたように視線を強めた。
「絶対に、ありえない。あれは進藤じゃない」
「でも、現に打っていたのは進藤だし」
「いいや、絶対にない」
「そこまで言いきる？」
「当然。たった３ヶ月がんばったところで、進藤がこのオレに勝てるはずはないからな」
「う〜ん‥‥‥‥‥」
秀英は思わず苦笑した。

あの日。
半目の差で勝ったけれど、しばらく悔しそうだった永夏。
翌日から、それまで以上に勉強していたのを、秀英は知っている。

自信家で、プライドが高くて────勉強家で、努力家で。
「勝てるはずがない」と言い切れるのは、それだけの努力を彼が積んできたからだ。

誰よりも強く。『一番』であるように。

そんな子どものように純粋な理由で、彼は動いている。


「永夏ってホント、コドモだよね」
「‥‥何か言ったか？」
「ううん、なんでもない」

純粋だからこそ、彼の自信は誰の目にも輝いて見えるのかもしれない。


「もう一度、打ちたい？」
〈幽霊〉とも。
「ああ‥‥そうだな」
〈進藤ヒカル〉とも。

ヒカルに逃げられたのをまだ残念そうに言う永夏に、秀英の口元がほころぶ。

「‥‥‥‥何だ？」
「永夏って、カワイイなあ、と思って」
「かわいいのは秀英のほうだろう」
「‥‥真顔で言われても、あんまりうれしくない」

握った結果、碁笥はそのまま。

二人向かいあって、頭を下げる。






「お願いします」

「お願いします」






夕闇迫る窓の外には、赤みがかった満月が静かに浮かんでいた。
2003.8.13


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