〈ヒカル&佐為〉 |
お蔵の中で、碁を打った。 夜だった。 明かり取りの小窓から、丸い月が覗いていた。 「虎次郎、現れませんでしたね」 耳馴染む声で、佐為が言った。 んー、と気の抜けた声を返したヒカルの視線は、碁盤の上にあった。 「オレは、オマエが現れただけでビックリだったぜ」 「私も驚きました」 「なんでもやってみるもんだよなあ」 つぶやきながら、ヒカルは石を打つ。 パチン、と澄んだ音色が、薄暗い蔵の中で、どこか厳かに鳴り渡った。 二日前。 いつものように祖父の家を訪れたついでに、お蔵を覗いた。 スポットライトのように日の差し込む小窓の下、普段と変わらず、その碁盤はそこにあった。 この時、祖父が提灯を持って「ご先祖をお迎えに行く」と言っていたのを思いだしたのはほんの偶然で、じゃあ試しに佐為が宿っていたこの碁盤の前で提灯に灯を入れたらどうなるかな、と思ったのも、単なる思いつきだった。 「まさか、ホントに出てくるなんてなあ」 「ええ、本当に────」 佐為の細く長い指が指し示した一点に石を置いて、ヒカルは軽く吐息をついた。 その碁盤は、今は2人の傍らにある。 使っているのは、ヒカルが家から持ち込んだ、あの桂の碁盤だ。 胡座に組んだ足の間に並んだ、二つの碁笥。 その片方から慣れた手つきで一つつまみ出し、ヒカルは黙って石を打った。 「何故、虎次郎は現れなかったのでしょうね」 ヒカルは上目遣いに視線を上げた。 「そんなに会いたかった?」 「会えるものなら、会いたいですよ。もちろん」 「‥‥じゃ、残念だったな。会えなくて」 そう言って、ヒカルは盤上に視線を戻す。 その頭上で、やがて佐為がクスクスと笑った。 「ヒカル」 「何?オマエの番だぞ」 「ヒカル、拗ねてます?」 「別に。いいから早く打てって」 「そうですね。では」 笑いながら佐為が指し示したのは、ヒカルにとってはかなり嬉しくない場所で。 思わず顔に出したヒカルを、佐為はにこにこと眺めるのだった。 軽く唸りながら考え込むヒカルに、佐為はささやくように言った。 「せっかくヒカルに会えたから、虎次郎と、三人で会いたかったんです。どちらも、私の大切な方ですから」 外でチリリリ‥‥、と軽やかな音が鳴り渡り、小窓から涼やかな風が吹き込んだ。 耳に涼やかなあの音は、母屋の軒先に吊してあった、ガラスの風鈴だ。 「ヒカル?」 「‥‥オレも、虎次郎に会ってみたかったよ」 ヒカルは下を向いたまま自分の髪を無造作にかきまぜた。 「なにしろ、オマエのワガママぶりを話して分かる唯一のヤツだろうからな」 「ひどいっ、ヒカル!」 佐為の抗議に、ヒカルの口元が緩む。 「‥‥‥‥‥‥よしっ」 ヒカルは石を摘み出し、迷わず打ち込んだ。 「でも、何故でしょうね。私はこうして現世に戻ることができたというのに」 「まだ言ってる」 「だって」 納得いかないというような佐為の口調にも、ヒカルは俯いたまま答えた。 「オマエと違って、もう成仏してんだろ。ひょっとしたら、もう生まれかわってるかもな」 「虎次郎が?」 佐為は二、三度まばたきを繰り返した。 ヒカルは下を向いたまま、ぽそりと言った。 「オマエも、いっそ生まれかわれば?」 「ヒカル‥‥‥‥?」 ヒカルの視線はあくまでも盤上に固定されていた。 けれど、そこに意識がないことは、赤らんだ耳の先を見れば明白だった。 「生まれかわれば、自分の手で好きなだけ打てるぜ。そうだな、もし‥‥‥そう、もし。生まれかわって、それがカワイイ女のコだったら、オレがもらってやるよ。オマエみたいなワガママで碁バカなヤツ、オレ以外に相手できるヤツなんて絶対いねェからな」 「ええええぇーと‥‥ひ、ヒカル‥‥‥‥‥‥??」 月光が、やわらかく降り注ぐ。 チリン、チリリ、と、遠くで風鈴か鳴っていた。 「佐為。オマエの番」 早くしろよな、と、どこかぶっきらぼうにヒカルが言う。 佐為は慌てて一点を指し示す。 その場所へ石を打ち込んだヒカルは、石の並びをじっと上から見つめていた。 その様を、しばらく向かいから見つめていた佐為の口元に、やがて笑みが浮かんだ。 「‥‥それでは、私は十七も年上の殿御に嫁ぐのですか」 「‥‥別に、イヤならいいけど」 「いいえ。とんでもない。ヒカル、言ったからにはきちんと責任とってくださいね」 そう言ってクスクスと笑う佐為を、ヒカルは上目遣いに睨む。 「‥‥おまえ、楽しんでるだろう?」 「もちろん。ヒカルといられるなら、こんなに楽しいことはありませんよ」 答える代わりに、ヒカルは乱暴な手つきで石を打ち込んだ。 「女性ではなく、男性だったらどうしましょう?ああ、そうなったら、強くなったヒカルに弟子入りするのもいいですねぇ」 「オマエがあ?ジョーダンじゃねェよ、師匠より強い弟子がいるかっての」 「おや。いつか、私に追いついてみせるんでしょう?」 「‥‥そんなことも言ったかな」 秀策の墓の前で、高永夏らに宣言した。 「ヒカルなら、できますよ」 「オレだって、そのつもりではいるけどね」 盤上を見る限り、どうしても足りない分だけ、自信もなくなる。 しかも相手は、さらにヒカルを追いつめる一手を示しながら、脳天気に笑うのだ。 「ヒカルが生まれかわるのと一緒に生を受けるのもいいですね。そうしたら、一緒に『神の一手』を目指せますよ」 「あのなぁ‥‥オレ、まだ当分死ぬ気ねェぞ。それまで待ってるのかよ」 「千年に比べれば、ほんのまばたきの間のようなものです」 「‥‥壮大な人生計画だな」 ヒカルは呆れて苦笑した。 「うん‥‥でも、そうしたらきっと、アイツも乱入してくるぞ」 「アイツ?塔矢アキラ?」 「ああ。塔矢だったらやりかねないな。絶対やりそう」 きっと生まれかわってもあの勢いで、自分のテリトリーに引きずり込もうとするのだ────あの、古風にして斬新、冷静にして激情家なヒカルのライバルは。 その様子を想像して、ヒカルは思わず吹き出してしまった。 ずっと。 ずっと一緒に。 ずっと彼らと一緒にいられたら、どんなに楽しいだろう。 「‥‥‥‥負けました」 深々と頭を下げたのは、丁寧だからというわけじゃない。 自分のふがいなさが重かったからだ。 「本当にヒカルは、強くなりましたね」 佐為はそう言ったけれど、まだ足りない。 秀策には────佐為には、まだまだ足りないのだ。 「高永夏はどうだった?」 「強かったですよ。あのような者達と、もうヒカルは対等に戦っているのですね。出会った頃を思うと、ヒカルの成長ぶりには驚かすにはいられません」 「でも、半目足らなかった」 「半目の差など、いつだって覆せますよ。これから何度でも打つ機会はあるでしょう?ヒカルにはそれだけの時間があるのですから」 その言葉がヒカルの中で、あの時のアキラの言葉と重なった。 ────これで終わりじゃない。終わりなどない。 そう気づいたとたん、笑い出したい気分がふつふつと体の奥から溢れ出てきた。 「‥‥ヒカル?」 「アイツさあ、アイツって高永夏だけど。アイツ、秀策のことバカにしたんだ」 「秀策を?」 「ホントは通訳のミスで誤解だったんだけど。でもそれ分かっててわざと言うんだ。ヤなヤツだろ」 「そうですか?そうは見えませんでしたけれどねぇ」 佐為はそう言って小首を傾げる。 「だってヒカル、あの者は〈秀策〉の碁をよく学んでいますよ。秀策だけでなく、おそらく道策や丈和ら先人の碁も。あの強さは天賦の才もあるのでしょうが、あの者自身が随分と精進を重ねてきた故の事と思いますよ」 「1回打っただけで分かるんだ?」 「他ならぬ〈秀策〉の碁ですからね。それに、秀策の墓前に碁石を供えたのは、たぶんあの者達です。そのようなことをする者達が、それほど秀策を侮っているとは思えませんよ」 「なんで分かるんだよ」 「だってあの碁石、まだ綺麗でしたよ。それにあの日は風もありましたから、もっと前に置かれたのであれば風で飛ばされていたでしょうし」 「‥‥‥佐為って、碁以外はとぼけてそうなのに、意外と細かいトコ見てるんだな」 「意外と、はよけいです」 ぷう、とふくれた佐為に、ヒカルは声をたてて笑った。 笑いながら、盤上の石を掻き集めた。 「うん‥‥オレも、アイツらキライじゃないよ。ちょっと根性曲がってるけど」 「ヒカルが真っ直ぐすぎるから、ちょうど良いのではないですか」 「‥‥『まっすぐ』?」 「ええ。真っ直ぐすぎて、周りが見えなくなるくらいにね」 「う、うるさいな」 集めた碁石を黒と白に分けて碁笥に戻す。 十九路の線がはっきりと現れ、盤面が月明かりを受けてほのかに輝いていた。 「佐為。もう一局打とうぜ」 「はい」 一局でも多く。 佐為との対局を一局でも多く。 もうすぐ、佐為は消えてしまうだろう。 迎え火で訪れた精霊は、2日後には送り火で帰っていく。 本当はずっといてほしい。 けれど、それがかなわないことを、ヒカルは知っているから。 だから、一局でも多く。 佐為と打つこの時間を、この身に焼きつけておきたい。 「お願いします」 「お願いします」 チリリ、と風鈴の音が鳴り渡る。 チリリ チリ チリン、チリリ 月が静かに、その様子を見守っていた。 |
2003.8.13 |