| 月夜の晩に |
パチン 室内に、乾いた音が鳴る。 桂の碁盤に向かい、その日見た名人戦の棋譜を並べていた。 パチン パチン 記憶に鮮明な石の並びを、味わうようにゆっくりと、淀みなく再現していく。 指になじんだ、白黒の碁石。 十九路を刻んだ盤面が、その一つひとつを受け止める。 パチン パチン 狭い室内に小さな音が、生まれては、すぐに失せる。 最後の一手を置いて、ヒカルは深く息を吐き出した。 組んだ膝に腕をのせて、盤面を眺めやる。 白黒模様は、様々な思惑をもってヒカルを誘う。 それを読みとろうとするかのように、ヒカルはただじっと、盤面を見つめた。 シン、と。 物音一つしない、静まりかえった室内。 ただ、煌々と蛍光灯が照らす。 ここはツケるのではなく、右辺を先に攻めるべきだったんじゃないか。 ここも、自分ならここでコスむだろう。 「なあ、どう思う？‥‥‥‥」 思わず口からこぼれた自分の声に、ヒカルははたと顔をあげた。 不意に流れ込む、現実。 目線より少し下に、自分のベッドがある。 首をめぐらせれば、壊れた冷蔵庫、テレビ、机…。 カーテンに閉ざされた窓。 ふと、ベッドサイドの目覚まし時計が目に入った。 「２時か‥‥‥‥」 吐息と共に、つぶやいた。 いつのまにか、随分と熱中してしまっていたらしい。 数回瞬きをして、ヒカルはぐるりと首をまわした。 ぱきぱき、と関節が鳴る。 視線を戻すと、先程まで入り込んでいた十九路の世界があって、思わず苦笑してしまった。 どうあっても、自分はここへ戻ってしまうらしい。 大切な。 大切な、桂の碁盤。 足つきとしては、一番安いものだろう。 それでもヒカルにとっては、どんな高価なものよりも愛おしいものだ。 ───ヒカル、ここは小ケイマではなく、大ケイマ。 ヒカルを呼ぶ、玲瓏とした声音。 そう言って優美に指し示す、扇の先。 けれど今、それはおぼろげに脳裏に浮かぶだけで、視界に映ることはない。 ヒカルはふと、ベッドの上を見上げた。 そこにはもちろん、何もない。ただ、カーテンのかかった窓があるだけだ。 ───月を見ていました。 ───冴え冴えと美しい、きれいな月が出ていますよ。 そう言ったのは、月のように美しい人。 幼いヒカルは、ただ自分だけを見てほしくて。 そうするといつも、優しい瞳はヒカルを振り返った。 どきりとするほど優しい瞳が、まっすぐに向けられた。 それを、ヒカルは当たり前なのだと思っていた。 それがどれほど贅沢なことなのか、今なら分かる。 どんなに望んでも どんなに願っても ベッドの上には、何もない───誰もいないのだから。 ふいに、何かが押し寄せてくるような感覚に体が強張った。 もちろん、そんなものなどないと、分かっている。 そう、ここはいつもの自分の部屋だ。 そこにはただいつもと同じものがあるだけで、ヒカル以外の誰がいるわけでもない。 ヒカルしかいない。 そう───『誰もいない』のだ。 いたはずのものが、『いない』。 向けられる声が、眼差しが、気配が、『ない』。 そんなことはもうとうに分かっているのに、もう何年も経っているのに。 ───月は、変わりませんね。 彼も、こんな気持ちで月を見上げていたのだろうか。 変わらない月を見上げて、変わってしまった、もう戻らない時に思いを馳せていたのだろうか。 誰も、いない。 何かが押し寄せる。 圧し寄せる。 空気が、水のように、真綿のように、周囲を取り巻き、じわじわと取り囲む。 じわじわと、何かに追い立てられているような感覚に、一つ身震いをする。 ヒカルは部屋の片隅に放ってあったリュックに手を伸ばして引きずり寄せ、中を探って携帯を取り出した。 ピ、ピ、と軽薄な電子音を鳴らして、アドレス帳を開き、いつもの番号を表示させる。 それでも、一瞬は躊躇したのだ。 夜中の２時。 寝ていて気づかないかもしれない。 いや、物音がすれば目を覚ます彼のことだ、起こされて怒るかもしれない。 でも、それでもいい、と思った。 そこに「いる」のだと。 『独り』ではないのだと。 ただ、そう感じたかったから。 通話ボタンを押して、小さな機械を耳に押しあてる。 小さな電子音が無秩序なメロディを組み立てる。 空気はひんやりとしているのに、掌が僅かにしっとりとしているのが分かる。 指先がおぼつかないような気がするのは、ただ寒さのせいだけなのだろうか。 コールが続く。 ７回、８回‥‥。 やはりつながらないかと、落胆と僅かな安堵に携帯を持つ手を握りしめた時。 ふつり、と電子音が途絶えた。 電話はつながったのだろう。 けれど、向こうからは何も聞こえてはこなかった。 ヒカルはコクリと唾を飲み込んだ。 何か言わなければ、と思った。 けれど、はりついた喉に引っかかってか、声は少しも出てこない。 シン、と、空気が沈黙する。 やがて、受話器の向こうから、深々とした溜息と、少し掠れた低い声が、ヒカルの耳の奥に流れ込んだ。 「‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥どうした」 「‥‥‥‥‥‥‥‥」 「進藤だろう？‥‥‥‥どうした」 寝ていたのだろう、いつもよりどこかぼんやりとした、それでいて耳障りのよいその声音に、ヒカルは小さく笑った。 なんだか、笑いたい気分になったのだ。 「‥‥‥何を笑っている？」 「ああ‥‥ごめん。寝てた？」 「当たり前だろう」 何時だと思っているんだ、と、不機嫌極まりない声が返ってくる。 それがうれしくて、ヒカルはまた笑った。 「悪ぃ‥‥うん、ちょっとさ。悪かったな」 「それで？」 「え？」 「何か用があるから、電話してきたんだろう」 「用‥‥って、ほどのものはないんだけど‥‥」 「ないのに電話してきたのか。用もなく、寝ていた人間をたたき起こしたというのかキミは」 「えーと‥‥‥‥」 たたき起こしてはいないよなあ、と心の中でつっこんでみる。 けれど確かに、どうでもいい電話で起こされたとあっては、腹も立つだろう。 とりあえず何か言っておこう、と、焦る頭で考えついたのが、 「あー‥‥おまえと打ちたいなー、と思ってさ」 「‥‥‥‥‥‥今か？」 「や、いい。ごめん、別に今じゃなくたっていいんだ、明日、そう、明日でも‥‥ごめんな、こんな夜中に」 アハハ、と笑いながらごまかすように言い募る。 と、盛大な溜息が聞こえてきた。 まったくだ、とかなんとか、ぶつぶつと口の中でつぶやいているのも聞こえる。 やっぱり夜中の２時はまずかったよなあ、と、ヒカルがさっさと電話を切ろうと思いたったところへ、思いがけない言葉が耳に飛び込んできた。 「‥‥分かった」 「‥‥‥‥え？」 「打ちたいんだろう？」 へ、と間抜けた声を漏らしたヒカルに、アキラは言った。 「いいよ。おいで」 「でも‥‥」 「待ってる」 それきり、プツン、と通話が途切れた。 切られたのだ、と分かるまでに、ずいぶんとかかったような気がする。 「‥‥今から？」 ようやくヒカルは耳から携帯を離し、呆然と手の中のそれを見つめた。 確かに自分が言ったことではあるが、夜中の２時、交通機関は止まっている。 さて、どうやって行ったものか。 けれど、「行かない」気は、不思議と全くなかった。 行こうと思えば、深夜タクシーでも、自転車でも、歩いてだって行けなくはない。 少なくとも、この空気から逃れられるのであれば。 手の内の携帯を二つ折りに閉じて、ヒカルは立ち上がった。 白黒模様に飾られた桂の碁盤を少しの間だけ見下ろし、それから壁にかけてあったダウンジャケットを羽織った。 財布だけをポケットに入れ、電気を消す。 一瞬にして暗くなった部屋の中で、カーテン越しの月光が、それぞれの物の輪郭を、ぼう、と浮かび上がらせた。 |
| 2004.12.14 |