月夜の晩に　２

ヒカルが塔矢邸を訪れたのは、それから２時間ほども経ってからだった。

「えと‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥コンバンハ」
アキラが玄関の戸を開けると、多少なりとも非常識だという自覚はあるのだろう、やたらへらへらと笑ってそこに立っていた。
背後に、丸みを帯びた月が、白くくっきりと浮かんでいた。
戸口から、ふわりと冷気が入り込んできた。
「‥‥‥‥入ったらどうだ」
そう促すと、ヒカルはどこか及び腰で敷居をまたいだ。
何を今さらおどおどとしているのか。
アキラはふん、と鼻を鳴らして、ひょっとして、と思い当たる。
真正面で腕を組み、仁王立ちしている自分。
アキラにしてみれば、寒いからこその腕組みであって他意は全くないのだが、そこに良心の呵責が加わったことで、ヒカルには「アキラが怒っている」ように見えるのだろう。
もっとも、そうと分かったところでいちいち訂正するのも面倒だったから、敢えて何も言わず何もしない。
ただ、そのまま体を脇へとずらし、道をあけた。
「‥‥…あがっていい？」
「どうぞ」
おじゃまします、と遠慮がちにつぶやいて、ヒカルは靴を脱いだ。
「先生達は？」
「ずっと留守だよ。知っていて来たんじゃないのか」
「あー‥‥実は、そう」
誤魔化すように、またヒカルが笑う。
触れるほど近くに並んだ彼の体から、やけに冷えた空気が漂ってきて、アキラは組んだ腕に少しだけ力を込めた。

ヒーターで温めておいた居間に通すと、ヒカルはほっとしたように頬をゆるめた。
「どうやって来たんだい？」
「歩いて」
「‥‥ここまで？」
「でも、思ったより早かっただろ。少し走ったりしたけど」
上着を脱ぎながら話すヒカルの鼻や頬は、玄関先で見た時よりもずっと赤かった。
「あー‥‥あったけぇ‥‥」
至福と言わんばかりに瞳を細めて、ヒカルは炬燵に潜り込んだ。
アキラは床に無造作に置かれたダウンジャケットを拾い上げ、ハンガーを通して鴨居にかけた。
「よく迷わなかったな」
「そりゃあ‥‥って、おまえのつっこみどころはそっちか」
「初めて来た時に迷ったじゃないか。たかだか駅からの道なのに、しかも地図まで書いてやったのに」
「何年前の話だよ、それ」
茶葉を入れておいた急須にポットから湯を注ぎ、少し回してから湯飲みに注ぐ。
十分に湯気の立つそれを、ヒカルは両手で包み込むように受け取った。
小さな湯飲みを抱え込み、背中を丸めて吐息をつく様は、まるでネコのようだとアキラは思う。
卓の上に広げておいた折り畳みの碁盤の前に、ヒカルはコツン、と額をつけた。
「あー、生き返る～」
「寒いから、ここでいいだろう」
「ああ、うん、いい」
「‥‥‥‥打つんだろう？」
「打つよ」
机に突っ伏したまま、ヒカルが言う。
明るい色の髪の中につむじが見える。
古い時計が時を刻む、その音がやけに耳につく。
「‥‥‥だから。打たないのか？」
「ぇえ？」
「打つなら、早く打て」
そう言って、片手で一掴みにした碁笥を、つむじの前に、どん、と置いてやる。
ヒカルは驚いたように顔を上げると、慌てた様子で湯飲みと碁笥を交換した。

握った結果、先番はヒカル。
「お願いします」
「お願いします」
いつものように、互いに頭を下げる。
そのまますぐに初手が来るかと思いきや、ヒカルがなにやら下の方で悪戦苦闘していた。
「ああっ、くそっ」とかなんとか口の中でつぶやいて、じゃらじゃらと石を鳴らしている。
結局、諦めたというように吐息をついて、手を碁盤の上へと伸ばした。
その、手つきといったら。
「‥‥また、随分と懐かしい持ち方だね」
「うるせェ」
手がかじかんでて、つまめねぇんだよ、と憮然とした顔で、どこか照れくさそうな顔で、ヒカルは言った。

パチン

コトン

パチン

コト

懐かしい、たどたどしい手つき。
けれどその筋は、かつてのものではない。
塔矢アキラに匹敵するほどの域に十分達した、立派な棋士のそれだ。

ヒカルに「打ちたい」と言われて、断る道理がアキラにはなかった。
自分が本気でしのぎを削り会える相手なのだ。
だから、何時であろうとも、どこであろうとも。
「打ちたい」と言われれば、アキラは喜んで打つだろうと自覚していた。
「塔矢、打とうぜ！」
少々強引に、ヒカルはアキラを誘う。
それをいつのまにか、当たり前だと思っていた。

だからこそ、気になったのかもしれない。
時折、ヒカルが言う「打たないか？」の一言。
ひょっとしたら、たいした差はないのかもしれない。
単なる言葉の使い回しが違うだけで、ヒカルにしてみれば同じことなのかもしれない。
けれど、図々しいほど強引なヒカルが、ごくたまに、伺うような表情でアキラに尋ねた。
「打たないか」と。
確かにそれは、手合いの合間であったり、夜遅くであったり、早朝であったり、いつも唐突で。
「‥‥今？」
と思わず聞き返した時間帯だったことも、実はこれが初めてではない。
そうするとヒカルも「ああ、うん、いいんだ、突然悪かったな」と、あっさり引き下がるのだが、それがさらにアキラの心には引っかかるのだった。
そう答える時のヒカルが、なんとも言いようのない、微妙な色を、明るい笑みに滲ませるからかもしれない。

そんなことを考える自分に、アキラは苦笑を漏らす。
以前の自分だったら、そんな他人の機微になど、いっさい関心を持たなかった。
上をめざして駆け上がることがすべてで、周りの者などどうしようとどうなろうと気にはならなかった。

それが、いつのまにか。
他人のほんの些細な所作や表情の違いが気になるようになった。
他人の───進藤ヒカルの、ふと垣間見せる奇妙な違和感に気づくようになった。
そしてきっと、それを当の本人は気づいていないのだろうことも。

石が、流れる。
早碁ではないが、二人で打つとペースは速かった。
それだけの相手なのだ。お互いに。

いつのまにか、ヒカルは長く伸びた人差し指と中指で、いつものように石をつまんでいた。

パチン

パチン

その視線はまっすぐに盤上へと向けられ、雰囲気もいつもと何ら変わらない。

碁石の音と、時計の音が混ざり合う。
ヒーターの風音が、低くたゆたう。

アキラが口を開いたのは、中盤をすぎた頃だった。
「‥‥何かあったのか」
ヒカルは顔を上げ、きょとんとした目を対面のアキラに向けた。
「オレ？」
「他に誰がいる」
「怒るなよ」
「怒ってない」
「あー、はいはい」
ヒカルは、うーん、と軽く唸りながら、視線をさまよわせた。
「何かって‥‥何もないぜ、別に」
「そう」
パチン、と石を打ち込む。
「こんな夜更けに電話をかけてくるくらいだから、怖い夢でも見たのかと思った」
「なんだよ、それ」
ぷう、とヒカルが唇をとがらせる。
「違うのか？」
「あのなあ、小さいガキじゃねぇんだから。だいたいおまえが来いって言ったんだろ」
「キミが打ちたいと言ってきたんじゃないか」
「そう‥‥‥だけどさあ‥‥‥‥」
ヒカルは口ごもりながらも、アキラが唸るような一手を打ち込む。
少し考えて、石を置いてから、アキラは言った。
「だったら、明日でもよかったな」
「何が？」
「これだよ。そうすれば、キミも夜中にこんなところまで歩いてくることはなかったわけだし、ボクだって睡眠時間を確保できた」
「それは‥‥‥‥‥」
ヒカルは頬を引きつらせる。
まるで、笑顔で誤魔化そうとするかのように───その場を、ではなく、もっと別の何かを。
アキラがふん、と溜息をつくと、ヒカルは困ったように眉尻を下げた。
「悪かったよ」
そう、つぶやくように言って、パチン、と石を打つ。
ヒカルが手を引くのを見送って、アキラは言った。
「別に、夜中に電話をしてくるなと言っているわけじゃない」
「だから、寝てるとこ起こして、悪かったってば」
「そうじゃない。別にいつ電話をしようとボクはかまわない、と言っているんだ。さっきのは、ただ、そういう選択肢もあったと言っただけだ」
「‥‥‥‥？」
「そうか、分からないか。なら、いい。キミの頭では少し難しかったな。悪かった」
「おまえなっ───」
身を乗り出したヒカルを無視するように、アキラは一手を打ち込んだ。
その手に、ヒカルがぐうと唸る。
「‥‥‥おまえって、ヤなヤツ」
「お褒めにあずかり」
飄々と答えられて、ヒカルは眉間の皺を深くする。
一気に形成をひっくり返されて、睨むように盤面に視線を走らせるヒカルを、アキラは対面から眺めた。
自分の優位を確信してはいるが、相手はヒカル。
思いもよらない手で、情況を変える。
だからこそ、わくわくと心躍るのだ。
たとえ夜中であっても、打ちたいと思ってしまうほどに。

と、唸る合間に、ヒカルがぽつりと言った。
「でも、やっぱさ‥‥‥うん‥‥今でよかったよ」
ヒカルの視線は、盤上をさまよっている。
だからアキラには、別のところから聞こえたような気がしたのだ。
呆然と相手を見つめていると、ヒカルはまた、ささやくように言葉を紡いだ。
「今がよかったからさ‥‥本当は───」
「‥‥‥何が？」
問い返すと、んん？とヒカルが視線をあげる。
目が合うと、どこか悪戯っぽくヒカルは笑った。
「いやさ‥‥一人でさ、サミシーナーとか、思ったワケだよ」
「‥‥寂しい？」
「そ。カワイーよなあ、オレ」
茶化すようにそう言って、碁笥の中で石を鳴らし、パチン、と打ち込む。
それを見て、アキラは言った。
「‥‥‥‥‥『かわいい』だって？」
「そ。カワイーなあ、オレって」
ニィと笑うヒカルを前に、どこが、と、苦々しくアキラはつぶやく。
今度は、アキラが唸る番だった。

パチン

パチン

石の音が、鳴る。
小さな音が水泡のように、生まれては失せ、また生まれる。

「今がよかった」のだと言った。
「寂しかった」のだと言った。

悪戯っぽく、誤魔化すように笑って、真相を煙に巻く。
そんなこと、もうとうにばれているというのに。

やがて終局してみれば、僅差でアキラに軍配が上がった。
「半目かよ～」
整地し終えてそんなふうにぼやきながら、ヒカルは後ろ手に手をついて顔をのけぞらせた。
時計を見れば、５時をまわっていた。
雨戸を閉めているので外の様子は分からないが、もうしばらくすれば日が昇り、明るくなってくるだろう。
「コーヒーでも入れようか」
「ああ、サンキュ」
アキラは炬燵を出て立ち上がり、ゆっくりと体を伸ばす。
と、ヒカルが言った。

「塔矢。ありがとうな」

唐突に言われて、アキラは立ったままヒカルを見下ろした。
ヒカルが怪訝そうにそれを見上げた。
「‥‥‥‥‥何？」
「あ‥‥いや、別に‥‥」
真意がつかめなくて、返答に窮する。
そんな自分にふと腹が立って、それからそんな気持ちにさせた相手にも腹が立って、アキラは眉根を寄せてヒカルを睨んだ。
「別に、感謝されるようなことはしていないよ」
「そうだろうな。まあ、いいじゃん。オレが言いたかっただけだから。気にすんなって」
「キミね‥‥‥」
「コーヒー。砂糖とミルク入れてな」
「‥‥‥‥‥」
返事をするかわりに、特大の溜息を一つ残して、アキラは踵を返した。

一歩出れば、家の中はどこも冷え冷えとした空気が揺らぐこともなく沈殿していた。
居間の温かさが、まるで別次元の空間のようだ。
アキラは足早に洗面所へと向かい、顔を洗った。
冷たい水が、火照った頬と腫れぼったいような目にはかえって心地よかった。
それから台所へと入り、コーヒーメーカーをセットして、カップを出して、砂糖とミルクを用意して。
こうばしい香りが漂い出す頃、ふと居間の様子を窺うと、ヒカルが炬燵に入ったまま背を丸め、卓上に頬を押しあてていた。
すっかり脱力しきったような様子に、寝ているのだろうかと呼んでみたら、ふにゃ、と崩れた返事が返ってきた。
アキラは溜息混じりに遠くから呼びかけた。
「顔でも洗ってきたらどうだい。すっきりするよ」
「んー‥‥今、いい」
「寝るのか」
「寝てないよー」
「炬燵で寝ると、風邪をひくぞ」
「寝てないってば」
力の抜けた返答に呆れながら、アキラはコーヒーをカップに移し、盆に載せて運ぶ。
すりぬけざまに覗き込んでみれば、ヒカルはとろんとした目つきをしていた。
まるで首だけがごろりと転がっているかのようだと、アキラは思う。
「ほら。起きろ」
鼻先にカップを置いてやると、匂いに刺激されたのだろう、なにやらわけの分からない言葉で唸りながら、ヒカルはのっそりと体を起こした。
「あー‥‥サンキュ」
カップを両手で包み込む表情には、あの何かをごまかそうとするような、どこかせっぱ詰まった雰囲気は、もう見られなかった。
ズズ、と音をたてて、ヒカルがコーヒーをすする。
「ずいぶんとリラックスした格好だな」
「んー‥‥そうか？」
「ここへ来た時とは、随分な違いだ」
「そうかな‥‥あー‥‥まあ、おまえと打てたし。とりあえず、目的は達成したからな」
「顔はひどいけどね」
「やっぱ、徹夜碁はキツイな」
ハハハ、とヒカルは軽やかな声で笑った。

コチコチコチ‥‥と、古時計が時を刻む。

だから、口からこぼれたその言葉は、部屋の中でやけに響いたような気がしたのだ。

「だったら、ボクのところへくるといい」

ヒカルが顔をめぐらせ、不思議そうな顔をした。
「来てるじゃん」
その瞳を、アキラはまっすぐな姿勢で、まっすぐに見つめた。
「そうじゃない。ボクのところへ来てそんなに安心できるなら、ずっとここにいればいい、と言ったんだ」
「何言ってんの。先生達、帰ってくるじゃん」
「そうか、やっぱり両親とは別居がいいか。じゃあ、どこかに家を探そうかな。幸いお金は十分に持っているし───」
「まままま、待て待て待て‥‥っ」
ヒカルが慌てたようにアキラの言葉を遮った。
せわしなく視線をさまよわせているのがおかしくて、アキラは笑い出したいのをなんとか堪える。
「ええぇぇ～と、待て、オレ、おまえが何言ってんのかさっぱり分かんねぇ」
「分からないかな」
「分かんねぇ。それってさ‥‥ええと、一緒に住もうってこと？」
「そうだね。そんなところかな」
「ああ、なんだ‥‥そういうことか‥‥‥」
アハハハ、と、どこか上擦った調子でヒカルは笑った。
「おまえさあ、そうならそうと言えよ。マジ顔でプロポーズみたいなこと言うから、どうリアクションしようか、すっげードキドキしちゃったぜ」
「１００点」
「へ？」
間抜けた顔でぽかんと見つめてくるヒカルに、アキラはにっこり微笑んだ。
「プロポーズだよ」
「何が」
「プロポーズしてるんだよ」
「誰が、誰に」
「ボクが、キミに」
「お‥‥‥‥‥オレ？」
「そう」
「ふろぽおず」
「そう。結婚の申し込み。ボクもやっと18になったからね」
「オレ‥‥‥オトコなんですけど」
「そうだね。でも、いいだろう？キミはボクがいいようだし、ボクもキミならいい。いや、言い方が失礼だな、『キミがいい』んだ」
「‥‥‥‥‥‥‥」
ああ、固まっている。
それを「かわいい」と思えるのだから、自分の決意は間違っていない。
そんな自信を心地よく感じながら、アキラは言葉を紡ぐ。。
ヒカルは、酸欠の金魚のようにパクパクと口を動かしている。

ふいに、アキラはヒカルの手の内からコーヒーの入ったカップを取り上げると、身を乗り出して、ヒカルの明るい髪に軽く口づけた。

「口を閉じてくれたら、もっときちんとできるんだけど」

間近で瞳を覗き込み、微笑んでみせる。

たっぷり５つ数えた頃、突然ヒカルは爆発した。
「とおやあっっ！」
とんできた拳は予想の内だったので、アキラは背をのけぞらせてそれをかわした。
がたん、と炬燵が派手に揺れる。
カップを置いておかなくてよかったと、アキラは両手に１つずつカップを持ったまま笑う。
「ふざけんな、てめェ！塔矢のくせにヒトからかうなんて100年早ェよっ！」
「心外だな。ふざけてもからかってもいないよ」
「だから、それがふざけてるって言ってんだろ！」
「ふざけてないって、言ってるだろう」
「いいや、ふざけてる！」
「ふざけてない」
「ふざけてる」
「ふざけてないって言ってるだろう！」
あまりにしつこいので、思わずどかんと声を荒げてしまった。
とたんにびくりと身を引いたヒカルの様子に、心の中で自分の行いを反省しながら、アキラは溜息をつく。
「まったく‥‥仕方ないな」
アキラは手にしていたカップを部屋の隅に置いて、いまだに畳の上でぐるぐると唸るヒカルに両手を伸ばした。
じりじりと後ずさろうとするヒカルをためらいなく捕らえて、抱きとめる。
その体は思いのほか温かく、人の匂いがした。
「進藤。ぼくのところへおいでよ」
腕の中の体が強張る。
「ボクと一緒にいよう。いつまでも、一緒にいよう」
と、ヒカルが何事かを抗議するようにつぶやいた。
「ん、何？」
振り返って顔をのぞきこむ。
ヒカルはそれはもう鮮やかなほど赤い顔をして、ただ下を向いたまま、怒ったように小さく小さくつぶやいた。

───‥‥‥‥‥‥‥。

「‥‥‥‥そうだね。じゃあ、約束はしないけれど、努力はする。それでいい？」
そう言うと、答えのかわりにシャツの背中を引っ張られた。
アキラは小さく笑うと、抱きとめる腕に力を込めたのだった。

2004.12.19