君と出逢う日に〈彩〉

君と出逢う日に
ヒカル
ずいぶんと長い間、眠っていたかもしれない。ひょっとしたら、瞬きをする一瞬の後だったかもしれない。たゆたうような、浮遊感。そのまま消えていくのだろう、と思った。それが、意識を失う前なのか、それとも後なのか、はっきりとはしないのだけれど。気づいた時、そこは白一色の世界だった。 ────ここは‥‥‥。ぼんやりとした意識が、やがてその形をとらえる。真っ白だと思っていたものは、タイル状の天井だった。天井だ、と分かった。けれど思考はまだ混濁しているのか、なぜ、とか、どうして、といったことは思い浮かばなかった。ただ、天井だ、と思ったのだ。ぼうと目の前にあるものを見つめていると、突如、意識を平手打ちするかのような叫声がたたきつけられた。「‥‥‥‥‥進‥‥藤‥‥っ?!」霧が、一瞬で晴れた。脳内を閃光が照らし出した。その声を、ヒカルは忘れてはいなかった。たたきつけられたその声に、反射的に応じようとして、「‥‥‥‥‥‥?!」愕然と、己の状態に意識が向いた。動かなかった。腕も、足も、指一本、首ですら。動かなかった。持ち主の意志を裏切って、ヒカルの体は動かなかった。戸惑うヒカルの眼前が、ふいに暗くなった。「進藤‥‥‥進藤‥‥‥‥！」苦しげに、泣き出しそうに、唇をかみしめ。それでいて、なんてうれしそうにヒカルの名を呼ぶのだろう。「よかった‥‥‥気づいて‥‥‥‥キミが、生きていて‥‥‥‥っ！」生きていて。そう言われて、水が流れ込むように記憶がよみがえった。そうだ、オレ────。平安時代に、いたのだ。平安の京で、佐為と出逢って、四季を一巡りした。生きた佐為と、たくさん碁を打った。たくさん笑い、たくさん喧嘩をした。艶やかな季節の中、日々は輝くほど幸せだった。ずっといたかった。いてもかまわないと思っていた。けれど、それはかなわなかった。佐為は、どうしているだろう顕忠に勝つことができただろうか。願わくば、ヒカルがいなくなったことで悲しまなければいいのだけれど。「進藤‥‥本当に‥‥‥っ」ふいに、その体を抱きしめられた。強い力で、その腕にかき抱かれた。密着するあたたかな体が、微かに震えていた。大げさだな、と笑いたくても、果たして自分の顔は笑顔になっているのかどうか、自信がない。せめて名を呼ぼうとして。ふと、気づいた。 ────何故‥‥？何故オレは、〈塔矢アキラ〉を知っているんだ‥‥？不安と恐怖がせりあがる。徐々に速さを増して、鼓動が胸を打ちつける。佐為が、もし生き延びたなら。佐為は幽霊にはならない。幽霊にならなければ、ヒカルと佐為が出会うこともない。佐為と出会わないヒカルは、碁を知ることはない。碁を知らないヒカルが、碁打ちになるはずがない。碁を打たないヒカルが、〈塔矢アキラ〉を知っているはずがないのだ。なのに何故、自分は〈塔矢アキラ〉を知っている？「そうだ‥‥先生‥‥先生を呼ばなきゃ‥‥‥‥」アキラが枕元のナースコールに手を伸ばす。目の前にいるのは、確かに〈塔矢アキラ〉だ。いや、ひょっとしたら、この〈塔矢〉は碁打ちではないかもしれない。碁ではないところで出会って、知り合った。そう、きっとそうだ。けれど記憶が、それを否定する。幼い頃、コンクリートとアスファルトの町を、佐為と歩いた。佐為の代わりに碁を打って、アキラと知り合った。アキラを追って、囲碁を覚え、院生となり、プロとなった。碁を通して知り合った者達が、否応なしに脳裏によみがえる。筒井、加賀、和谷、伊角、越智、奈瀬、たくさんのプロ棋士、そして、塔矢名人────。佐為は、死んでしまった。「‥‥‥進藤？」アキラがのぞき込む。「どうした？大丈夫か、進藤?!」大丈夫？大丈夫なものか。佐為は死んでしまった。あれほど言ったのに。佐為は死んでしまった。生きていて欲しかった。ただ、己が身で、生き続けて欲しかった。生き続けてくれるなら、他には何もいらなかったのに────。「‥‥‥‥‥っ」苦しくて、吐き出そうとした思いは、声にならなかった。それがもどかしくて、必死に声を絞り出す。けれど声はおろか、呼吸すら意のままにならない。「進藤‥‥進藤、しっかりしろ！大丈夫か?!」激しく喘ぐヒカルに、アキラが叫ぶ。苦しい。なぜこんなにも、苦しいのだろう。いらないのに。何もかも、いらなかったのに。「‥‥‥‥‥か、‥‥‥‥‥のに‥‥‥‥っ」「え‥‥？」アキラがヒカルの口元に耳を寄せる。ヒカルは、渾身の力で、渦巻く思いを吐きだした。「‥‥‥‥か、‥‥‥ぉまえナンカ、‥‥ぃらな‥‥ったノに‥‥‥‥っ！」オマエナンカ、イラナカッタノニ無理矢理声を絞り出した反動で、激しい咳に襲われた。焼けつくような、痛み。体がバラバラになりそうだ。ちょうどそこへ、医者が駆けつけた。 ────だから、気にする余裕はなかったのだ。そのときアキラが、どんな様子だったのか、など。
2004.2.22