天まで　あがれ
	見覚えのある後ろ姿に、アキラは軽く溜息をついてから声をかけた。 「‥‥こんなところにいたのか」 「‥‥‥塔矢？」 背中が、意外そうにアキラの名を呼ぶ。 振り返るのにあわせて現れた金色の前髪が、青空にやけに映えて、アキラは僅かに瞳を眇めた。 ヒカルは、アキラを見つけて目を丸くしたものの、やがてにか、と無邪気な笑みをみせた。 「おまえってホント、神出鬼没だなぁ。よくここが分かったな」 「携帯に電話しても出なかったから、自宅にかけさせてもらった。そうしたらキミのお母さんが、葉瀬小に行ったって言うから‥‥」 「ああ、そうか」 軽く笑い声をたてて、ヒカルはまた空へと顔を戻した。 手には、青い棒状の糸巻き。 青空へと伸びた糸のはるか先には、ぽつんと一つ、黄色い凧が浮かんでいた。 元旦の小学校の校庭は、閑散としてはいたものの、親子連れがそれぞれに、はねつきや凧揚げなどの正月の遊びを楽しんでいた。 年かさの子供達は、少し離れたところでサッカーに興じていた。 楽しげな歓声が、広い空にこだまする。 その中にあって、一人佇み、ただ静かに空を見上げていたヒカルの姿は、静謐としていながら、やけに際立ってアキラの目には映った。 アキラはヒカルに歩み寄り、その隣に並んだ。 ヒカルの視線の先を追うと、視界いっぱいに眩いほどの青が広がった。 「‥‥進藤、キミ、凧揚げうまいんだね」 「おまえは？」 「え？」 「凧。揚げたことあるのかって」 ヒカルが視線だけを流してよこす。 アキラは軽く肩をすくめてみせた。 「小さい頃、やったよ。でも自分でちゃんと揚げられたって記憶はないな。緒方さんがうまいんだ。だから、緒方さんが揚げてくれたのを持たせてもらったりしてた」 「緒方先生が、凧揚げ?!」 「うん。うまかったよ。でも、キミほどじゃなかったかな」 そう言って、アキラはまた空を見上げる。 もう豆粒ほどにしか見えない、ヒカルの凧。 隣でヒカルが「あの緒方先生が、凧揚げ‥‥」と、まだ納得いかない様子で、ぶつぶつとつぶやいている。 「キミはいつも、お正月には凧揚げをするのか？」 「ええ？そんなことないぜ。今日はたまたま」 「たまたま？」 「そう。気が向いたから。‥‥天気もいいしさ」 ヒカルは空へと視線を馳せながら、そんなことを言う。 眩しそうに瞳を細めたその表情は、どきりとするほど優しい微笑だった。 ふと、ヒカルがささやくように言った。 「‥‥天の神様に、届くかな、とか、思ってさ」 「‥‥『天の神様』？」 「昔‥‥千年も前はさ、人は、天の神様に願いを届けるために、凧を飛ばしたんだって」 「‥‥そうなんだ」 「らしいぜ？」 空の向こうは宇宙なんだから、神様なんていないのにな、と、ヒカルは小さく笑う。 どこまでも。 どこまでも。 高く高く揚がる凧。 「キミは‥‥‥‥」 「え？」 「キミは、何を願いたいんだ？」 「誰に？」 「だから‥‥天の神様に」 ヒカルが答えないので、「いたとしたら、の話だよ」とつけ加える。 う〜ん、と軽く唸ったヒカルは、やがて口元を小さくほころばせた。 「そうだなぁ」 どこか楽しげに、空を見上げたまま。 「願い‥‥ってのは、ないなぁ」 「でも、届けたいんだろ。『天の神様』に」 「ああ‥‥や、それはもののたとえなんだけど」 ヒカルが苦笑する。 「ホントに、気が向いただけなんだって。大掃除してたら、昔揚げた凧が出てきたんだよ。あ、あの凧なんだけど」 懐かしいじゃん、小学生の時やったきりだったし、そんなことを、ヒカルは無邪気な笑みとともに話す。 「でも‥‥まあ、そうだな」 「？」 「新年の挨拶くらいは、したいかな」 アキラはヒカルを振り返る。 空を見上げるその横顔は、愛おしい者を見つめるようで。 「‥‥天の神様に？」 「そう。天の神様に」 アキラは空を見上げた。 どこまでも青い、眩しい空。 まるでそのまま消え入りそうに、ぽつんと浮かぶ小さな影。 「‥‥‥そうか」 「うん‥‥‥‥」 初春の日射しは、すべてを包み込むように、眩しく降り注いでいた。 「ところで、塔矢。なんかオレに用事だったんじゃないのか？」 ヒカルに言われて、アキラは当初の目的をきりだした。 「ああ‥‥うん、よかったら、初詣に行かないかと思って」 「初詣？」 「ああ」 正月なんだから、と言うと、おまえって相変わらず律儀だよなぁ、と、ヒカルは含んだように笑った。 「‥‥別に、無理にとは言わないけど」 「や、いや、行くよ。行く行く」 ヒカルはまだクツクツ笑いながら、凧の糸をたぐり始めた。 「でもさ、今日って元旦じゃん。おまえん家って大丈夫なのか？」 「何が？」 「お客さんとか。元名人の家なんだから、たくさん来るんじゃねぇの？」 「ああ。だから、抜けてきたんだ。午前中いっぱいつきあったから、もういいって言われたし」 「ふうん」 ヒカルは手際よく糸を巻いていく。 凧は空からゆっくりと近づいてきた。 天から、地上へ。 「どこへ行く？」 「そうだな‥‥キミさえよければ、ボクの家の近くの神社はどうだろう」 「初詣すんだら、一局打とうって？」 「そうだね。父もいるし、緒方さんもいるし。一柳先生もまだいらっしゃるかもしれないよ。倉田さんと森下先生が、夕方頃来るって言ってたかな」 「‥‥すっげぇ、おいしいメンバーだな」 「だろう？」 やがて凧は浮力を失い、ヒカルの数歩先で、ぱさりとその身を地上に横たえた。 ヒカルがゆっくりと近寄って、そっと持ち上げる。 「んじゃ、行こうぜ」 笑みを見せて、ヒカルは歩き出した。 その隣に、アキラも並ぶ。 いつの間にか同じ高さに並んだ、二人の肩。 やさしく、風が渡る。 空は変わらず、どこまでも青く、二人の頭上に広がっていた。
	2004.1.3
（５年前）