宵月の星

おぅい、こっちこっち、と手招きした男は、予想通り、気づいたとたんあからさまに笑顔を渋面に取り替えた。
うわあ嫌なもの見ちゃったよ。なんでよりによって。そんなところだろうというのが、手に取るように分かる。まるで子どもだ。
とはいえ、本人に幾分「分かりやすい性格」を演じているきらいがあるのを知っているので、今さら腹を立てたり相手にしたりすることもしない。
「よぅ。おっさん」
ユーリは皮肉混じりないつもの笑みをひらめかせて、片手を軽く挙げた。

帝都ザーフィアス。
夜も日付が変わるまでにはまだ余裕がある時間帯となれば、まだまだ賑やかな場所も多い。
市民街の一角にある酒場も、その一つだった。
入口の扉を開けたとたん、陽気な喧噪が溢れ出す。客層は、一般市民が６割、騎士が３割といったところか。ギルドの人間だろう顔ぶれも多くはないが見かけられた。貴族はさすがに見あたらなかった。それでもごくたまに立ち寄る物好きもいるらしい。いつだって変わらないのは、酒の魔力かそれぞれがそれぞれにテーブルを囲み盛り上がっているところだ。
ユーリは連れの男を半ば強引に引っぱって、雑然とした合間を泳ぐように抜け、レイヴンの座るテーブルへと近づいた。
「ちょっとちょっとー、せーねんー」
「なんだよ、早かったんだな。つーか、俺が遅刻か？」
「そーね。ちっとばかし遅刻ね。っていうか、それはどーでもいいのよ」
ユーリが余裕綽々で椅子に座るのを目で追いながら、レイヴンは不機嫌さを隠さない。
「ずいぶんと珍しい組み合わせじゃないの。ていうか俺様、今日はジュディスちゃんが来るっていうから来たんだけど」
「だから、もう１人『サイフ』を連れてきたんだろ。おっさん一人じゃ、フトコロすっからかんだぜ」
テーブルに頬杖ついてにやりと笑う様は、実に男前この上ない。
が、あいにくレイヴンは、それが美女でなければどうでもよく、それ以前に彼の言葉に軽い頭痛を覚えて額を抑えた。
「人を『サイフ』呼ばわりってどうなの、とか、なんでそこに自分が入ってないの、とか、つっこみどころはいくつもあるんだけどさ」
と、それまでテーブルの前で直立不動だった男が、突然声を張り上げた。（いや、当人はいたってそんなつもりはないのだが、生来のものだから仕方ない）。
「申し訳ありませんっ！すぐに退席いたしま──」
「まあまあ」
くるり、と踵を返そうとした男の襟首を、ユーリががしっとつかんで引き戻す。
「いいからいいから。ほら、座れよ──ルブラン」
空いた手でレイヴンの向かいの椅子を退いたのとほぼ同時に、押しつけるように座らせた。なんとも器用だ。
座らされた男は背筋を伸ばしたまま、恰幅のよい体躯をガチンと固めた。
「暇そうだったから、拾ったんだ。いいだろ、別に知らねぇ顔じゃねぇし」
「‥‥それを青年が言うなら、誰も何も言えないけどね」
シュバーン隊ルブラン小隊長。
様々な「おいた」を重ねてきたユーリを主に追いかけていた、れっきとした『騎士』だ。騎士の隊服ではなく私服であるところを見ると、非番なのだろうが。
ユーリがルブランを誘う、という図も奇妙なら、ルブランがユーリにおとなしくついてきた、というのも、意外すぎてわけが分からない。
「おっさんは、お酒飲むなら女のコと、ってのが主義なのよねー」
「ああ、だから最近飲んでないのか」
「そうそう。‥‥って、言っとくけど!?女のコに不自由してるわけじゃないんだからねっ！」
「はいはい、忙しかったんだよな。女と飲む暇ないくらい」
「そーよ。忙しかったのよ」
くだらない軽口をやりとりしながら、レイヴンは、ちら、とだけ向かいに視線を向けた。
見知った堅物。
知らない相手じゃない。知らないどころじゃない。それだけに。
‥‥‥やりにくい。
「ま、そのうちジュディが来るだろうし。先に始めてようぜ。ほどほどに、な」
ユーリは、レイヴンの前にあったメニューを取り上げてテーブルに広げた。
「おっさん、何飲む？」
「‥‥‥‥‥‥」
明らかに、この状況をおもしろがっている目だ。
この若人は本当に、質が悪い。
レイヴンは深く深く溜息をついてみせた。

「そもそも、『暇そう』って何。意味わかんないんだけど」
「意味って‥‥言葉通りだけど？」
来る途中、ベンチに座っていたのを見かけたのだという。
「私服だったから、最初気づかなかったんだよな」
「そりゃ、騎士だって休みくらいはあるでしょーよ」
「さんざん声かけたのに気がつかなくてさ、やっと気づいたと思ったら、『ユーリ・ローウェル～！』って怒鳴られた。俺、声かけただけだぜ？」
「条件反射ね。どんだけ迷惑かけてきたんだか」
「そんなにしてないと思うけどな」
「ああ、した方よりされた方のが覚えてるんだっけ？」
「そうなのか？」
「おまえさんが言ったんじゃないよ」
騙した方より騙された方のが覚えているもんだよな。
まだ出会って間もない頃、あれはトリム港でのことだったか。
そうだっけ？と、ユーリはクツクツと笑う。
それからユーリは、ちょうど通りかかった女性店員を呼び止めて、手際よく注文を伝えた。
小柄で可愛らしい女のコ。男ばかりのテーブルにあって目の保養だというのに、注文の内容が簡潔だったためにすぐに行かれてしまったのが、レイヴンとしては非常に残念だった。
今度はもうちょっと迷うことにしよう、と、未練たらしくその後ろ姿を目で追う。
「いいなあ、女のコ～」
「だから。後でジュディが来るだろ。それとも、ジュディじゃ不満ってか」
「そんなことはないぞ！ジュディスちゃんがいれば、おっさん大満足！」
「じゃあ、ジュディがいれば、他９９人がむさくるしい男でもいいってことだ」
「いやいや‥‥‥‥‥どういう論法よ、それ」
トリハダ立ったわよ、と腕をまくって見せようとしたら、それまでピクリとも動かなかったルブランが、ばねのように勢いよく立ち上がった。レイヴンがギョッと身を退き、ひっくり返りかけた椅子はすんでのところでユーリがキャッチした。
「ななな、何‥‥‥っ」
「気が利きませんで！すぐに私、女性と交代してきます！」
「どうやって、てかおまえさん、そんな簡単に誘える女の知り合いいるの──」
「部下に若い女性騎士がいるので、問題ありません！」
「い、いやいやいや、それパワハラでセクハラだから！」
「いえ、シュバー‥‥‥‥っ!?」
最後まで言えなかったのは、レイヴンがテーブルにあったパンをまるごとその口につっこんだせいだ。
「も、いいから！いいから黙って座ってて！」
「お、よかったなぁ、ルブラン。隊長のお許しが出ればバッチリだ」
「おっさん、隊長じゃないから！シュバーンじゃないから！」
「俺、おっさんが隊長だとかシュバーンだとか、なんにも言ってないけど」
はた、とユーリの台詞を振り返り、墓穴を掘ったことに気づく。
「おっさんは、おっさんだよな。なー、『レイヴン』」
にやにやと笑う、その楽しげな事。
「あーやだやだ、最近の若人って。もうちょっと年長者を大事にしてほしーわ」
「ああ、『お年寄りを大切に』ってヤツか。ハンクスじーさんがよく言ってたっけな」
「誰が年寄りよ」
「文句が多いのも年寄りの特徴だぜ」
おっさん年寄りじゃないもんっ、と喚くレイヴンをいなすように、ユーリが笑う。
「じゃ、年長者に敬意を表して。グラスをどうぞ。お注ぎしましょう」
ちょうどグラスと酒瓶が運ばれてきたところだった。

仏頂面のおっさんと、ガチガチに固まった堅物のおっさんと、皮肉げな笑みが妙に魅力的な青年、が、乾杯している図というのは、端から見たらどういう集団に見えるのだろう。
グラスを傾けながら、レイヴンはそんなことを思う。
もっとも、気にする者は店内には一人としていないのだろう。それくらい、どのテーブルもそれぞれに盛り上がっている。
さらにレイヴンとしては、ユーリの前にいつのまにやら、生クリームたっぷりのケーキやら三色アイスクリームやらが並んでいるというのも、いただけなかった。何故、酒場にスイーツ。そして何故、酒場に来てスイーツを注文する２２才男子。
つっこみたいが、つっこんだところでユーリは平然と流すだけだろうし、そんな無駄な気力をスイーツなんぞに割きたくはない。
だいたい、いくら美形でもさらさらロングヘアでもスイーツ好きでも、本物の美女に勝るものはないのだ。
次々と飛んでくる精神的打撃にとうとう落ちた頭をテーブルに転がして、レイヴンは泣き言を洩らした。
「うえ～、ジュディスちゃん～、ジュディスちゃんがいい～」
「だから、後から来るって。おい、おっさん、まさかもう酔ってんのか。ジュディ来た時についてけねぇぞ」
「だいじょーぶだもーん」
「って、おっさん、ジュディが“ザル”なの覚えてるよな」
お酒が飲めるお年頃、というわけで、とっくに飲めるレイヴンがユーリとフレンを巻き込んで、ジュディスを酒場へ連れ出したことがあった。
結果、レイブンとユーリの財布が空になって、フレンの財布が半分まで減った時点で、男三人は程度の差こそあれ一様に‘回る世界’の住人となり果てていたのに対し、ジュディスはまるで平然としたものだった。
荒くれも多いダングレストの酒場で、「お酒っておいしいのね」なんて、いつものように綺麗に爽やかに微笑む様は、まるでそこだけ別世界、天界に咲く一輪の花。うっかりレイヴンは請われるままに、高価い銘柄をツケで買ってしまうところだった。
しかしそのくらいは些末事、レイヴンとしては、「あら、残念」と言われたのが、どれだけ堪えたことか。
今度また飲みに行こーね、おっさん今度こそ最後までおごっちゃうよ、と約束して、ようやく実現したのが、今日だった。のに。
レイヴンはがばっ、と身を起こして、拳を握った。
「今日こそは！ジュディスちゃんを酔い潰す！そして俺様が、やさし～く介抱してだな」
「おっさ～ん、下心だだもれだぞー」
「『ごめんなさい、おじさま』『気にしなくていいんだよ、ジュディス。このまま宿まで抱いていってあげるからね』『ありがとう。大好きよ、おじさま』…なぁんてさ～」
「あー、はいはい」
ユーリはケーキを刺したフォークを軽く振って相づちを打った。ものすごく適当なことこの上ないが、妄想まっただ中の中年には馬耳東風だ。
「じゃあ、その辺で酒飲むのやめとくんだな。なんか腹入れといた方がいいんじゃねーの？」
そう言ってアイスクリームの皿を押しやると、そのまま押し戻された。それもものすごく、それこそ最初の「嫌なもの見ちゃった」と同じくらい嫌そうな表情で。
ルブランが、「どうぞ」と差し出した小鉢は、少しためらって、それでもアイスよりははるかにましと思ったのだろう、手の中に引き寄せた。
「そりゃあ、ジュディスちゃんお酒強いけども。おっさんだって、お酒弱くないわよ。少なくとも、青年よりは強い自信あるね」
「よく言うぜ。たいして変わんねぇだろ」
「なによぅ。俺様、青年と飲んでつぶれたことないっしょ？」
「つぶれるまで飲んだことないしなあ。つーか俺ら、一緒に騒いで、リタに水ぶっかけられたことはあったよな。魔術で」
「そうだっけ？」
「そうだよ」
んんん？と、レイヴンは眉間に皺寄せて天井を睨む。
レイヴンの空いたグラスに、ルブランが注ぎ足す。
「で？ジュディスちゃん、いつ来るって？」
「さあ」
「さあ、って何!?」
「ギルドの仕事が長引いてるんだろ。でも、朝別れる時は楽しみにしてたから、来るはずだぜ」
「楽しみにしてた？俺様と会えるのを？」
「いや。酒が飲めるのを」
「ぐ‥‥いや、でもおっさん頑張っちゃうよ。ジュディスちゃんのためなら、いくらだって」
「おーがんばれがんばれ。なあ、シュバーンも実はこんな女好きだったのか？よくこんなの尊敬できたな」
後半の台詞は、ルブランに向けて。
一拍置いて、ルブランは勢いよく立ち上がった。
「貴様っ、シュバーン隊長を愚弄する気か!?このお方は十年前の──ゥゴッ」
奇妙な声を上げてのけぞったのは、眉間に小皿が直撃したからだ。
「黙・っ・て・座・っ・て・て」
口調はレイブンだが、低く押さえ込むような声音は、もう１人のものだ。
「おー、ナイスコントロール」
パチパチとユーリの拍手がしらじらしい。
レイブンは恨めしげにユーリを睨んだ。
「ほんと、いったい何企んでんのよ、この若人は」
「企む？別になんも企んじゃいねーよ？」
「嘘おっしゃい。じゃあ、その目はなんなのよ」
「目がどうかしたか？」
「人からかっておもしろがってる時の目よ。それ」
ユーリは小さく声を立てて笑った。グラスを傾ける。否定も肯定もしなかった。
レイブンはふて腐れたようにグラスをあおった。半ば乱暴にテーブルに戻す。半分まで減ったグラスに、すかさずルブランが無言で注ぎ足した。それすら不満なのか、そっぽを向いたまま、またグラスをあおる。注がれる。先程から、その繰り返し。
「まったく、年長者をからかって楽しむの、いいかげんにやめなさいっての」
「そんなつもりはないんだけどな」
クツクツとユーリが笑う。レイヴンは店内の騒々しさに目を向けたまま。だから、ユーリのそれに、笑みとは違う何かが混じっていたことに気づかなかった。
「まあ、でも、酒の席だし。たまには腹わって話すのもいいんじゃねーの」
「誰と？」
「誰とでも」
肩をすくめてみせる様は、男の目から見ても様になっている。ちょっと悔しい。
と、ふいに、ユーリが立ち上がった。
見上げて、レイヴンが尋ねる。
「どったの、ユーリ」
「ちょっと出てくる。ジュディが来てないか、見てくるよ」
「え‥‥え、ちょっと青年──」
呆然と見送ったレイヴンが「誰と」残されたのかに気づいたのは、ユーリが店を出てたっぷり五つも数えた後のことだった。

「それであなた、二人きりにして放ってきたの？」
「まあな」
「ひどい人ね。少し乱暴じゃないかしら」
「そうか？俺がいない方が、かえって話しやすいんじゃないかと思ったんだけどな」
ユーリがジュディスを伴って戻ってくると、店はさらに無秩序な賑わいに溢れ、歓声があちこちではじけていた。
とろりとしたアルコールの香りが来客を取り巻き誘い込む。
二人は酔客の合間をぬって、目的のテーブルに近づき、そろって苦笑した。
「‥‥だから、とばすなって言ったのに」
ルブランが勢いよく立ち上がった。
「ユーリ！貴様いったい今まで何をしておった!?だいたい貴様がだな‥‥！」
怒鳴りかけ、ジュディスの微笑を前に飲み込んだ。
「ウフフ、可愛らしい寝顔」
そこここに酒瓶が転がる中、レイヴンが真っ赤な顔でテーブルに突っ伏していた。

「あーはいはい。事情は拝聴しましょう」
再び怒鳴りかけたルブランを掌で制して、ユーリは席に座った。ジュディスもその向かいの空席に座った。
ユーリは通りがかった店員をつかまえて、新しいグラスと適当な酒を注文した。
「で？‥‥あ、ルブラン、そのグラス、使ったか？」
平然としたユーリの口調に毒気を抜かれたのか、ルブランは口籠もり、ぎくしゃくと椅子に腰を戻した。
「え、あ、いや、使っとらんぞ」
「飲まなかったのか」
「上司の前で酔うわけにはいかんからな」
「あんた、酒弱いっけ？」
「そんなことはない」
「緊張して喉を通らないってか」
ユーリは目を眇めてみせてから、ルブランの前から空のグラスを取り上げ、酒瓶の残りを自分のとそれに注いで、ジュディスの前に置いた。
「じゃ、とりあえず乾杯な。ジュディ、おつかれさん」
「ありがとう」
ジュディスは婉然と微笑んでグラスを取り、ユーリのそれに軽く合わせた。
ちょうど運ばれてきたグラスにも残りを注いで、ユーリはルブランの前に置いた。
「割り勘なんだから、飲んだ方が得だぜ。非番なんだろ」
「それは、そうだが‥‥」
「んじゃ、かんぱーい。おっさんのお守り、ご苦労さん」
置いたままのグラスに、カチン、と打ちつける。
「あら、じゃあ、私も。はい、乾杯」
ジュディスも反対側から手を伸ばしてグラスを差し出した。
ユーリは半分飲んでから、片手で頬杖をついた。
「で？話はできたのか？」
「話？何のだ」
ルブランがいぶかしげに眉を寄せる。
ユーリは頬杖をついたまま目を丸くし、それから数回瞬きをした。
「ええと‥‥じゃ、いいや。俺がいない間、何話してた？」
「何って‥‥」
「まさかずっとだんまりってことはないよな」
「話したというか‥‥あ、いや、一つ聞かれたな」
「何て」
ルブランは少し戸惑うように視線を彷徨わせ、それから咳払いをして言った。
「『何かあったか』と」
「それで？」
「『何もない』と答えた」
「‥‥‥‥‥それだけかよ」
「特に報告すべき事はないのだから、それ以外答えようがなかろう」
ユーリは心底あきれたというように、まじまじと岩のような真面目顔を見つめた。
ジュディスは手酌で勝手に進めていた。目的があるなら一人でもいっこうに困らない質らしい。
「じゃあ、俺がいない間、何やってたんだよ。ひたすら飲んでたのか。おっさん一人で」
「飲んでいた、というか、シュ‥‥レイヴン殿から、いろいろな話をうかがった」
「どんな話」
「そうだな‥‥ユーリ、おまえに対する愚痴とか、そちらのお嬢さんの話とか」
「俺らが酒の肴なんて、光栄だな」
言葉とは裏腹の呆れたような視線で、ユーリは突っ伏したままの中年を見つめた。たたき起こしてやり直させたいところだが、こうなってはもう無理だと分かっているので、どうしようもない。
「だいたいだな」
突然、ドンッと、ルブランは手にしていたグラスをテーブルに打ちつけた。
「ユーリ・ローウェル。貴様はどれだけこの方に迷惑をかけているんだ。年長者に対する敬意というものがないのか。まったく貴様という奴は──」
良い機会だから説教してやる、と、滔々と話し出した(しかも声が大きい)ルブランに、ユーリはちら、と、ジュディスへ視線を送った。
ジュディスがルブランの前からグラスを取り上げ、その手をとって持たせた。
「はい。どうぞ」
優美な手つきでグラスに酒を注ぐ。
「ね、飲みましょ」
艶やかな笑みを添えれば、完璧だ。
「大きな声で話したら、おじさま起きちゃうわ」
ルブランはぐっと押し黙った。黙って、ぼそぼそと礼を口にして、注がれた酒をあおった。
ジュディスの微笑に、ユーリは肩をすくめて応えた。

ユーリがグラスを揺らしながら、深く溜息をついた。
「ったく‥‥そんなんでよかったのかよ。なんか言いたいこととか、あったんじゃねーの」
「おまえに心配してもらうようなことはない」
「へ～え、さすが騎士様は清廉潔白でいらっしゃる。妬み嫉みはないってか」
「シュバーン隊長に不満などあるわけがないだろう」
「って、こんなんだぜ？」
「それでも、本質は変わらんのだ」
そういうもんかね、とつぶやいて、ユーリは傍らを見やる。
「つーか、おっさん、そんなに酒弱くないはずなんだけどな。いったいどんだけ飲んだんだよ」
ふとユーリは、自分が酒場を出る前の様子を思い出した。
「ルブラン、まさかずっとおっさんに酒注いでたのか」
ルブランは当然とばかりに頷いた。
「上司に酒を注ぐのは部下として当然のことだ」
「‥‥少し加減するとかしなかったのかよ」
「中身の少なくなったグラスを持たせるなどというみっともない状態にさせてしまうわけにはいかん」
「‥‥ま、価値観は人それぞれだけどな」
体裁が先にきてしまうあたり、ルブランはまだかつての上官に夢を見ているのではないかという気がしてならない。
とはいえ、ユーリにはどうでもいいことだ。
クスクスとジュディが微笑った。
「愛されてるわね、おじさま」
「ぉわっ、ジュディおまえいつの間に‥‥‥っ!?」
ユーリがギョッとのけぞった。
ルブランもまじまじと見つめる。
ジュディスがテーブルいっぱいに様々な種類の酒瓶を取りそろえて、満足げに微笑んでいたからだ。
「ジュディ」
ユーリは降参の意を込めて、片手を軽く挙げた。
「‥‥悪ぃ。俺、そろそろ帰らなきゃなんねーんだ」
ここで満足するまで飲まれるのは、単に財布の問題もあるが、後々のレイヴンの反応を想像するだに、かなりめんどうくさい。
「だからジュディ。また今度、仕切直そうぜ」
ジュディスは指先を顎に当てて思考を巡らせてから、いつものようににこりと微笑った。
「そうね。お酒が美味しくても、おじさまが寝ているうちにご馳走になるのは、ちょっと申し訳ないわね」
「ま、今回はしょうがないだろ」
「今度は遅刻しないようにするわ」
「じゃ、首領に仕事は考えて引き受けてもらわないとな」
「そうね」
鈴を振るような声音で、ジュディスが笑う。
ユーリはレイヴンの耳元に唇を寄せて呼びかけた。
「おっさーん。帰るぞー」
レイヴンは身をよじって顔を背けた。
「～～～ジュディスちゃんくるまで、いる～」
「おじさま、私はここよ」
ジュディスが耳元に話しかけると、ふにゃ、と顔をゆがめて泣きだした。
「うええ～、じゅでぃすちゃぁん」
「うわ、めんどくせぇ。てか、ジュディ、笑ってないで、ルブランと一緒にここの勘定払ってきてくれ。割り勘でいいから」
「私一人でも大丈夫よ？」
「ルブランの財布、勝手に開けるわけにいかないだろ」
「だったら──」
「ルブラン一人だと、おっさんの財布開けられなさそうだしな」
名乗り出ようとしたルブランを鼻先で却下して、ユーリは難なくレイヴンの懐から財布を抜き取ると、自分のと合わせてジュディスへと放った。
二人が離れていくのを見送って、ユーリはレイヴンの横に膝をついた。
「ほら、おっさん‥‥げっ、酒くせぇ」
腕を引っ張り上げて、背中に担ぎ上げる。
と、ギュッとしがみついてきて、肩口に顔を埋め、またぐしぐしと泣いた。
肩がしっとり湿り気を帯びるのに、ユーリはげんなりした。なるほど、ここまで飲ませれば酔いつぶれるのか。
「ったく‥‥どこが『弱くない』って？」
やがて戻ってきたジュディスが、ゆったりと小首を傾げた。
「大丈夫？」
「カロル先生よりはでかいけど、このくらいなら、な」
そう大きい方ではないから、ものすごく苦というわけではない。
「んじゃ、行くか」
「じゅりすちゃ～ん」
「あーはいはい」
ユーリはおざなりに背中の体を軽く揺すってやった。

夜道を歩く。
ジュディスは、バウルの待つフィエルティア号へ戻っていった。
「ユーリ、おまえ、シュバーン隊長をどこへ連れていくつもりだ」
本人が起きていたら「シュバーンじゃなくてレイヴン」と言い直しただろうが、ユーリはいちいち訂正するのも面倒だったから、敢えて何も言わなかった。
「どこへって‥‥こんな時間だし、俺の部屋でいいだろ」
「そうか」
石畳に、影が二つ。道を挟んで立ち並ぶ建物の窓の明かりと欠けた月の光、それからルブランが持つカンテラの灯で生まれたそれは、光源魔導器が照らしていた頃のそれよりもずっと頼りなく、不規則に揺らめきついてきた。
「‥‥‥シュバーンの部屋とか、知ってるんだろ？」
「城のか？もちろん知っているぞ」
「でも、言わないんだな」
「この方は、『レイヴン』殿だからな」
「さっき、『シュバーン隊長』って、言ったくせに」
「そうだったか？では、訂正する」
ユーリは答える代わりに、クツクツと喉の奥で笑った。
ルブランは前を向いたままだった。
『シュバーン』として扱われるのを嫌がるのを知っている。だから、言わない。
きっと、あの部屋へ戻りたい、いや、行きたいとは、思わないだろうから。
それはやはり淋しさをもたらしたけれど、不思議とルブランはすっきりしていた。
閑散とした街中を下町に向かって歩きながら、ルブランがぼそりとつぶやいた。
「ユーリ・ローウェル」
「何」
「今日はその‥‥礼を言う」
「礼を言われるようなことはしてないと思うけど？」
「そうか」
それきり。再び静寂が訪れる。ただ、石畳を踏む固い靴音が響くのみだ。
しばらくして、ユーリはずりおちてきた体を、よっ、と背負い直した。
「あのさ‥‥どこまでついてくんの？」
「家まで送り届ける」
「げ」
「げ、とはなんだ。市民と上官を安全に送り届けるのも騎士の務めなのだ」
下町へと続く坂道を下る。
「暗いから、足元気をつけるんだぞ」
「なんだ？やけにやさしいな」
「おまえが転んで、シュバ‥‥レイヴン殿がお怪我をされでもしたら困るだろう」
「ああ‥‥そういうこと」
カツン、カツン、と靴音が、両脇に並ぶ建物の間で反響する。
「ユーリ・ローウェル」
「だから、何」
「隊長を‥‥いや、レイヴン殿を、よろしく頼む」
「は？」
ユーリは思わず足を止めた。
何の冗談かと思った。ユーリを散々追いかけ回していた騎士から、「よろしく頼む」。しかも、秘蔵の隊長様を。
暗くても相手の顔くらいは分かる。まじまじと見た相手は、至極大真面目な、ようするに、普段とまったく同じ顔をしていた。
ユーリは軽く唸って、困惑の滲む笑みを頬に載せた。
「‥‥それ、『了解！』って答えとけばいいわけ？」
「そうだとありがたいな」
「‥‥悪ィ、言われる意味が分かんねぇ」
ルブランは先に立って歩きだした。つられてユーリも歩き出した。
幅広の背中が言った。
「実はな‥‥ちょっとだが、未練があったのだ」
「シュバーンが自分達の上に立ってくれるって？でも今だって騎士団に顔出してるだろ。『レイヴン』としてだけど。それじゃ足りないってか」
「‥‥まあ、あれだ、『子どもの独占欲』みたいなものだな。だが‥‥」
「‥‥？」
ユーリは首を傾げる。
ルブランは歩きながら、背中で手を組んだ。
カンテラの灯が揺れた。
「我々も、もう自分の足で立たんとな」

崩れた神殿での出来事を、ルブランは今でも忘れられない。
一縷の望みを捨てきれなくて、部下と共に探した。無我夢中だった。
見つけだせたのは奇跡だったろう。
なけなしの回復術とありったけのグミで、無理矢理今生へと引きずり戻した。見た目がどうのとか、そんなものはどうでもよかった。
やがて瞼を上げ、ぼんやりと周囲を見回した『かの人』は、やがて小さな微笑とともに、言ったのだ。

──俺、あいつらんとこ、行ってもいいかなあ。

隊長がそんな瞳をするのを、ルブランは初めて見た。
そうして気づいた──彼の瞳が、いつも「何も欲していなかった」ことに。
だから、答えた。

──シュバーン隊長は、不慮の事故でお亡くなりになりました。
──え‥‥‥‥？
──我々への心配は無用です。なに、我々は、騎士の誇りに従って行動するのみ。

──‥‥‥‥‥‥‥そっか。

『彼』は、笑った。
『彼』の『本物の笑顔』を、ルブランは初めて見た。

それからの彼は、ユーリ一行の中で、まるで今までの分を取り戻すかのように、笑って、歩いて、戦っていた。
生き生きとした姿が嬉しかった。
けれど、寂寥感などない、と言えば、むしろ逆だった。
『レイヴン』であって、『シュバーン』ではない。
『シュバーン』は死んだ。そう、断言する彼。あの時、自分も確かにそう言った。
では『シュバーン』と一緒に、『シュバーン隊』も葬られてしまったのだろうか。
自分達は彼の中で、過去のものとして消去されてしまうのだろうか。
フレン隊に加わって作戦活動を行ったとしても、ルブラン達には『シュバーン隊』の自負と誇りがあった。
ルブランには、それは宝物のように大切なものだった。
今、騎士団では隊の再編が検討されている。まだ結論は出ていないが、隊長を失ったシュバーン隊が解体され、新しい隊に配属される可能性は高い。
古いものを捨て、新しいものに代わらなければならない。
『彼』のためにも。自分のためにも。そしてこの国のためにも。
必要なことだ。それは、分かっている。
分かっているのだ。分かっているけれど。
分かっているのに、捨てられない自分がいる。
それが、苦しかった。

けれど。

噴水の前まで来て、ユーリは足を止めた。
「ここまででいいぜ。ルブラン」
ルブランがいぶかしげに振り返った。
「おまえの部屋はすぐそこだろう」
「だからだよ。もういいって。大丈夫、おっさんの面倒はちゃんとみるから」
「‥‥そうか」
そこまで言われれば、無理についていくいわれもない。相手は自分よりも腕の立つ若者なのだ。
「では、失礼する。ユーリ、くれぐれもシュ‥‥レイヴン殿に失礼をはたらくんじゃないぞ」
「信用ないのな」
「当然だ」
クツクツと笑うユーリに背を向け、帰ろうとしたところで、ふと呼び止められた。
「あー‥‥ルブラン」
振り返る。
ユーリが言った。
「おっさん、けっこうわがままでさ、男の酌だと、だたこねてあんまり飲まねーんだぜ」
「おまえ達は違うだろう？」
「‥‥‥そりゃ、まあ、仲間だしな」
「うむ‥‥‥‥それで？」
「いや、それだけ」
じゃあな、というように片頬を釣り上げてみせて、ユーリは背を向け歩き出した。
見送りながら、ルブランは鼻を鳴らした。
「‥‥‥言われんでも知っとるわ」
笑ったのだ。

──なんかあった？
それだけで十分だった。
だから、「何もない」と答えた。
気にかけてくれた。
それは、居場所を、心の拠り所を肯定してくれたということ。
捨てなくてもいいのだと。

彼は、変わらず『彼』だった。
それだけで、十分じゃないか。

「‥‥‥おっさん」
ゆっくり歩きながら、ユーリは空に向かって話しかけた。降るような星空だった。
「起きてんだろ。いいかげん、重いんだけど」
背中から返るものは何もない。
「おっさん」
靴音が響く。
「レイヴン」
遠ざかる噴水の水音。
「シュバーン」
肩に回された両腕に、力がこもる。
「やっぱ、起きてんじゃねーか」
ユーリは笑って、その体を揺すり上げた。
「なあ、なんで寝たふりなんかしたんだよ」
「‥‥‥ホントに寝てたのよ」
「ふうん‥‥じゃ、そういうことにしとくか‥‥って、おっさん、くるしいって」
返事の代わりに、軽く首を絞められた。

レイヴンは『レイヴン』だ。
『シュバーン』は死んだ。もう、いない。
けれど今でもまだ、心の隅には、欠片ほどの『シュバーン』がいる。
捨てられずにいた。捨ててしまったら、傷つく人もいると知っているから。
それを「甘さ」ととるか、「優しさ」ととるかは、本人次第だろうけれど。
『レイヴン』でいられるユーリやジュディスの前では、『シュバーン』の話をしたくなかった。
いや、照れくさかった？
そんなところだろう。

「しょーがねぇなあ」
ユーリは嘆息して、立ち止まった。
ユーリの部屋へと続く階段の下だった。
「おら、おっさん。起きてんなら、自分で歩けよ」
「おっさん、寝てるもん」
ぐう、とかわざとらしく言うのに呆れて、両手を放す。
けれど背中の体はユーリにしがみついて落ちなかった。それどころか、本格的に首が絞まったユーリは、かなり本気で焦った。
「ちょ‥‥苦し‥‥ンの馬鹿力！」
首に巻き付いた腕を力任せに引きはがして、地面へと放り出す。
ペシャ、と尻から落ちたレイヴンは、悲鳴をあげて座り込んだ。
「うええ～、痛い～、年寄りは大事にしてよ～」
「泣くな、この酔っぱらい」
「酔っぱらってて歩けない～、腰も打ったし歩けない～」
「じゃあ、おっさんは外で野宿な」
「ユーリちゃん冷たい～」
無視して階段を上がる。
いつの間にか、階段の上にラピードが座っていた。
「ただいま、ラピード」
「ワフッ」
視線だけで相棒は分かったようで、腰を上げるとユーリの横をすり抜けてゆったりと下りていった。
「ふぇええぇ、わんこ～」
「バウバウ」
やがて、自分のとは違う足音が、違うリズムでゆっくりと追いかけてきた。

2010.3.22

.ルブランは『シュバーン隊長』と『シュバーン隊』に
とても愛着を持っていそうです。
でも、『シュバーン』がいなくなって、キュモールもアレクセイもいなくなって、
フレンが団長格に上がれば、
隊は再編されるんじゃないかと思ったわけです。
そうした時、ルブランはどう思うのかな、というのが発端でした。
また、バクティオンでのルブランが、
「死んだ」と聞かされても自分の目で確かめに行ってたらいいなあ、とか。

タイトルは
月夜の星は見えづらいけど、ちゃんとそこにあるんだよ
っていうのに
大人組は経験たくさんすぎて、ぐるぐる迷う事も多そうね
っていうのを、なぞらえてみました。
…説明しなきゃ分かりにくいのが、なんですね^-^;

あと、酔っぱらうおっさんを書きたかった(*^^*)
さぞ可愛かろうと思うのですが、あんまり可愛さが出なかったよ。あう(T^T)