| 縁は異なもの |
物事の始まりには、まず『きっかけ』が存在する。 そこから『脈絡』が生まれ、その結果、人は「物事が起こった」と受け止める──たいていの人間は、そう無意識に認識している。だからこそ、一足飛びに事態に直面すると、前段階を飛ばしてしまった代償として「驚く」のだ。ただしその程度は、時・場面・相手・内容によってもずいぶんと異なる。ものによっては、特大の雷光と雷鳴をいっぺんに浴びるか、ゲームだったら「残りＨＰ１」の大ダメージをくらったかのような衝撃もあるだろう。 けれどこの時ヒカルが受けたのは、もしかしたらそれ以上だったかもしれない。 「進藤‥‥キミ、小学生の時、どうしてウチの碁会所に来ようと思ったんだい？」 でなければ、ちょうど口に含んだコーヒーを、目の前の塔矢アキラ大先生に思いきり吹きつけるなんてそんな空恐ろしいこと、できようはずがないのだから。 「‥‥まったく」 顔を洗って戻ってきたアキラから、不穏な空気がふつふつと伝わってくる。 「ボクはただ、初めて碁会所に来た時のきっかけを聞いただけなんだけどね」 「‥‥‥‥だって、イキナリだったからさあ」 ヒカルはあからさまに目を逸らせて口ごもった。真正面から真っ直ぐに見据えてくる視線など、恐ろしすぎてまともに見られたものではなかった。 「‥‥まあ、いいけどね。そんなに驚くということは、キミが隠し持っているものの一部分なんだろうと察しはつくし」 「あー‥‥‥‥」 「だから、もういい」 アキラは溜息まじりにそう言うと、おもむろに碁笥の蓋を開け、石を並べ始めた。 パチン パチン ゆっくりと、丁寧に、十九路の交点に置いていく。 この沈黙がまた‥‥怖い。 パチン パチン パチン 「‥‥おっ‥‥おまえこそ」 パチン パチ 十手も置いた頃、根負けしたのはヒカルの方だった。 「おまえこそ‥‥何で今頃、そんなこと聞くんだよ」 「何でって‥‥特に深い意味はないよ」 「意味もなく十何年も前のこと、いきなり言うのかよ」 アキラは、石を並べる手を止めない。 止めずに、淡々と言葉を紡いだ。 それが癪であり、同時にありがたかった。 「そうだね‥‥キミが言うように、物事が意味なく起こることはまずありえない。だとしたら、キミが碁会所へ来るようになった『きっかけ』は？あの時のキミは、『誰かと打ったことがない』と言った。そんなキミが、碁会所という存在をどうして知ったんだろう、とか、そんな場所へなぜ行こうと思ったのか、とか‥‥まあ考えれば、いくらでも出てくるんだよね」 盤上に伸ばされた長い指先、俯く顔、さらりと肩から滑り落ちる真っ直ぐな黒髪──いつのまにかそれらに視線を取られたまま、ヒカルは続く言葉を待つ。 「普通に考えれば、誰かに勧められたのかと思うけどね。あの頃のキミは、下調べをして行動するようなタイプには見えなかったし、かといってあそこは、小学生が一人で衝動的に飛び込むほど入りやすい雰囲気の場所でもない」 「‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥」 何もかもを読まれている。これだから、頭のいいヤツは。 「だ、誰かに勧められた‥‥‥‥んだ、って言ったら？」 パチン──小気味良い音が、盤上で跳ねた。 「感謝する」 「へ？」 ぽかん、としたヒカルの目の前で、アキラは手を止め、顔を上げた。 「その人に感謝するよ」 「な‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥なんで」 「キミと会えたから」 「‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥はい？」 思わず固まったのは、真っ直ぐで迷いのない眼差しが、意外なほど優しかったからだ。 「その人がキミに碁会所へ行くよう促してくれなかったら、ボクはキミと出会っていなかっただろうから。ボクの人生だって、そうだな、プロにはなっていたと思うけど、たぶんいろんな面で違っていたよ。きっとね」 「ち‥‥違わなかったかもよ、おまえ、あン時から、強かったし」 「ボクを負かしたキミに言われてもね」 ぐっと詰まったヒカルに、ふとアキラが小さく微笑んだ。 「違っていたよ。断言できる」 「なんで」 「キミを負かしてやろうと思うと、ワクワクするから。今でもそうだよ。全然冷めない」 「お‥‥オレじゃない強いヤツに出会ってたかもしれないじゃん」 「自惚れるなよ。キミより強い人なんて、いくらでもいる。──でもね」 パチン── 「強いからワクワクするんじゃない──『進藤ヒカル』だから、いいんだ」 眼差しと同じ、真っ直ぐな言葉が、揺れる心に体当たりする。 「キミと出会えたからこそ、今の『塔矢アキラ』があるんだ。だから、キミを動かした人に感謝したいと思ったんだよ。キミを前にして、そう思った。だから聞いた。それがさっきの問いの『きっかけ』。それ以上の意味はないから、答えを強要する気はないよ。まあ、キミに囲碁を教えてくれた人かな‥‥と、勝手に想像はしているけどね」 パチン、と、耳馴染む音が心地よかった──口元が思わず緩んでしまうほどに。 「‥‥‥‥ホント、頭のいいヤツはこれだから」 「え、何か言ったかい」 「言葉がいちいちクサイっつったの」 「思ったことをそのまま言っただけじゃないか」 「そん‥‥おまえ、よくそんな恥ずかしいことばっか、考えられるな」 「恥ずかしい？何が？」 「おまえだからシャレになんねぇんだよっ」 八つ当たりのように怒鳴るのを、ただ不思議そうに小首を傾げただけで受け流して、アキラはまた石を置いた。 さっきから何を並べているのだろう。 覗き込んでみても、覚えがない。 「‥‥‥‥それ、何の棋譜？」 するとアキラは、心底呆れたといわんばかりの顔をヒカルに向けた。 「キミと初めて打ってボクが初めて同い年の相手に負けた、記念すべき一局。忘れたのか」 忘れたも何も、覚えていない。あの頃はまだ、そんな力はなかった。 通り過ぎ、『彼』とともに消えてしまったはずの時間。 けれどあの時間は、今もアキラの中にちゃんと残っている。 「‥‥‥‥続けてよ。塔矢」 「キミねえ」 溜息をつきつつも、アキラは石をつまんだ指先を盤上に伸ばした。 「‥‥これの分と、さっきのコーヒーの分。あとでまとめて返してもらうからな。進藤」 「うわ、怖」 軽口に答える代わりに、アキラが石を打ち込んだ。 パチン── 澄んだ音色が、十九路へと誘う。 ヒカルは盤上へと身を乗り出した。 |
| 2007.8.15(※2008.11.15加筆修正) |