未知との遭遇

ある日曜日の、朝。 「ヒカルー、お母さんちょっと買い物に行ってくるわね」 階下から母が呼びかけてきたのを、生返事で答えたのが、30分ほども前のことだろうか。 朝食の後の一局を打ち終えると、ヒカルは「ちょっと休憩〜」と、早々に碁盤の前を立った。 「ねぇ、ヒカル、もう一局打ちましょうよぅ」 「はいはい、あとでね」 あしらうようにひらひらと片手を振って、重い頭を振り振り階段を下りていく。 シンと静かだった。 ただヒカルの足音だけが、無遠慮に床板を鳴らしている。 「ヒカル、本当に、絶対ですよ」 「あー、分かったってば」 やたらと背の高い幽霊を従えていても、今さら気にしない。多少は鬱陶しいが、適当にあしらっておけば害はないし、それなりに役に立つこともある。 台所の入口にかかるのれんをくぐって、テーブルの横をまわり、いつものように冷蔵庫の中を覗き込む。 その時だった。 ブーッ、ブーッ　ブーッ 「うわああっ！」 突然異質な音が鳴り響けば、誰だって驚くだろう。 背後で鳴りだしたその音に、ヒカルは大仰なほど飛び上がった。 弾かれたように振り返り、その正体を知って、ほっと力を抜く。 「なんだ‥‥‥携帯か‥‥」 脅かすなよもう、と口の中で文句を言いつつ、ふと視線をあげる。 そして、あからさまに冷ややかに瞳を細めた。 「‥‥‥何してんだよ、佐為」 戸口から、長い烏帽子と情けない顔が覗いていた。 いつもは涼やかで自信たっぷりな瞳が、びくびくと警戒する小動物のようだ。 「なんだよ、ただのケータイだろ」 話す間にも、テーブルの上の携帯電話は振動音をがなりたて、早く出ろといわんばかりにライトを明滅させている。 それにしても、さっきまで確かに背後にいたのに。 いつの間に部屋の外まで逃げたのやら。 トロそうなのに、逃げ足だけは速いんだなあ、とどこかずれたところで感心する。 と、佐為が必死な形相でヒカルを手招きした。 「ヒカル！危ないですよ！早くこっちへ」 「はあ？」 すっとんきょうに返すと、佐為はさらにばたばたと手を振った。 「ほらヒカルってば！噛みつかれますよ！危ないです、早く早く！」 「あのなあ」 噛みつくケータイ‥‥ＳＦじゃああるまいし。 相手にせず、なおも鳴り続ける携帯を覗き込む。 表示を見れば、父の会社の名前だ。 「ヒカル！危ないですってば！」 そうわめく佐為の方が、よっぽどうるさい。 ヒカルは、わし、と携帯を鷲掴みにした。 「ひ‥‥‥ヒカルっ!?」 驚愕の面持ちで固まる佐為の前を通り過ぎ、父の寝ている部屋へと向かう。 「おとーさーん、電話ー」 背後で佐為が呆然と突っ立っていたことを、ヒカルは知らない。 何を考えていたのかも知らない。特に知ろうともしなかった。 この場面では、どうでもいいことだったからだ。 「ヒカルって、実は勇気があるんですねぇ」 「あ？」 しみじみとつぶやいた秀麗な幽霊が、優美な仕草で容赦ない一点を扇の先で示す。 「それだけの勇気があるなら、私の一手にも怯まず飛び込んでこられるでしょうに」 「意味分かんねぇ」 本当に、何のことやら分からないヒカルは、難しい局面に立たされたのも相まって、ぐるぐると唸る。 さっきまでピーピーギャーギャー騒いでいたくせに。 たかがケータイに。 だからなおさら、腹が立つ。 窓から、清々しい風が入り込む。 ある日曜日の、午後。 佐為が、感心とも悲嘆ともとれる溜息をついた。

2006.6.25