Brand-new Days



ピピ ピピ ピピ

ああ、鳴ってるな、と思った。
目覚ましの音。
毎度毎度思うけど、なんだってこう、たたき壊してやりたいくらい神経逆撫でする音なんだろう。たかが電子音なのに。

ピピピピ ピピピピ ピピピピ

目覚ましが鳴っている。だんだん音量上げていくのが、よけいに腹だたしい。
ああもう、今起きようと思っているのに。
「〜〜〜〜〜‥‥っ!」
結局たまりかねて、布団の中から放り出すように腕を伸ばし、たたきつぶす勢いで上から鷲掴みにする。
リ゛ン‥‥ッ、とベルを落としたような音をたてて、目覚ましが沈黙した。
やっと訪れた静寂に、目を閉じたままほっと一息つく。
馴染んだ布団。居心地の良い自分の部屋。
けれど今日は午前中から手合いがあるから、そろそろ起きなきゃいけないのも分かってる。
「う〜‥‥‥‥」
気合いの代わりに喉から出てきたのは、牛のような唸り声。
布団を体に巻きつけたままごろりと転がって、それからやっと起きあがった。
なんとなく頭に手をやって、がしがしとかきまぜる。
欠伸を一つ。遠慮しなくていい欠伸は、けっこう気持ちいい。
しばらくそのままぼうっとして、でも起きなきゃいけないから、せーの、で掌を両頬にたたきつける。
「っ‥‥っ!」
パン、と、鋭い音が耳に飛び込んで、霞んだ脳に突き刺さる。
そこでやっと、瞼が半分持ち上がってくれた。
半分なのは、思いのほか部屋が明るかったから。
まだカーテンがかかっているはずなのに、その布目を通して糸みたいな光が何本も注ぎ込んでいて、だからせいぜいほの明るい程度だったけれど、でもずっと暗闇にいた身にはやっぱりまぶしいのだ。
それもしばらくしたら慣れてきて、もそもそと這い出して、床に足を下ろした。
絨毯の短い毛足が、素足の裏を刺激する。
立ち上がり、思いきり体をのばして、首をぐるりと回した。

今日は手合い。
けれどその後、いつもの仲間達と集まることになっている。
『特別研究会』だそうな。

まだ未成年なんだけどなあ、と、思い返すたびに苦笑が漏れる。
9月20日───進藤ヒカル19回目の誕生日。
だから祝ってやろうと言い出したのは和谷だ。
即答で賛成したのが伊角さんで、たまたまその場にいた門脇さんがのってきて、だからといおうか、気がつけば会場が居酒屋になっていた。
絶対、誕生日がダシで飲み会がメインだと、思いながらもやっぱりわくわくする。
別に隠れてまで飲もうとか、そういう気はないけれど、大勢で羽目はずして盛り上がるのは大歓迎だ。
決まってからは、和谷があちこちに声をかけてくれていた。
あとは、奈瀬と、冴木さんと、本田さんと、それからどういうわけか塔矢アキラも来るらしい。
塔矢門下嫌い、わけても塔矢アキラ嫌いの和谷がよくもまあ譲歩したものだと、そしてどんちゃん騒ぎなどおよそ毛嫌いしそうな塔矢アキラがどういう風の吹き回しで承諾したのかと、他人事のように笑えてしまうのだと言ったら、きっと二人してそれぞれにどやしつけてクダサルに違いない。

カーテンに手をかけ、一気に開く。
とたんに光がどっと室内に流れ込んできた。
でも、思ったより雲が多かった。昨日まではあんなにいい天気だったのに。
それでも連日電子レンジの電磁波のような直射日光に晒されていた(と、碁会所のおじさんが言っていた)世間にしてみたら、一休みということでちょうど良いのかもしれない。
カラリ、と窓を開けると、ひんやりとした風が入りこんできた。
もうすっかり、秋の風だ。
さらりとした空気を体いっぱいに吸い込んで、たまっていたものを思いきり吐き出す。
それは、ココロの洗濯。
次はシャワーを浴びて、歯を磨いて。
でも、その前に。

振り返って、足元を見下ろす。
艶やかに磨かれた、桂の碁盤。
大切な大切な、棋士であるヒカルの相棒。

そして、大切な大切な───。

ひざまずいて、そっと盤面に触れる。
一度、埃だらけで放っていたことがあった。
けれど、一度きりだ。
あれ以来、塵一つ載せたことはない‥‥いや、ミクロの塵とか言われたら、そのくらいは載ったかもしれないけれど。
十九路の一筋に指先をあてる。
ゆっくりと、路に沿ってすべらせる。
それは、端から見たら儀式のように見えるかもしれない。
でも別に、そんなつもりでやっているわけじゃない。
ただ、触れたくなるから、触れる。それだけだ。
そっと触れると、馴染んだ木肌が、指先が敏感すぎるんじゃないかと思うほどに、ぴりりと刺激する。
そうすると、頭の中がクリアになって、視界がひらけるようにはっきりしてくるのだ。

自分の進むべき道が。
自分が今ここにある理由が。

「なぁ‥‥‥今日さ、オレ、誕生日なんだぜ?」
ささやくように話しかける。
答えは返らない。
けれど、あたたかな何かが指先を通じて流れ込む。
そんな気がする。

───ヒカルは、秋に生まれたんですか。それはよい季節に生まれましたね。
───佐為は?
───さて‥‥いつでしたか。
───おまえ、自分の誕生日くらい覚えとけよな。
───だって、平安の代も江戸の代も、年を重ねるのは皆1月1日でしたもの。
───そうなの?
───そうですよ。
───‥‥だからってなあ、自分の誕生日だぜぇ?
───そうは言っても、もう千年も前のことですからねぇ。もうほとんどの記憶はおぼろで‥‥ああ、ではその代わりに、ヒカルの誕生日を覚えていることにしましょう。
───あーのーさー、オレの誕生日を覚えてたって、おまえには関係ないだろう。
───ありますよ。私を現世に呼び戻してくれた、私とこうして碁を打ってくれるヒカルが、この世に現れた日ですもの。私にとっては覚えるに値する大切な日です。

そうして、きれいな顔は、どこか得意げに、子供のように微笑んで、こう言ったのだ。

───ありがとう、ヒカル。私に感謝すべき日を教えてくれて。そして、おめでとう、ヒカル。生まれてから無事、今日まで生きて私の前にいてくれて。

当時ほどではないけれど、思い返すと今でもやっぱり赤面してしまう。
よくもまあ、あんな恥ずかしい台詞を真顔で言えたものだ。あいつは。

それでも、年を重ねるごとに、なんとなく分かってきた。
失って、存在することの重みを知ったからかもしれない。
たくさんの人と出逢って、つながっていられる幸せを得たからかもしれない。

今の自分が、ここにこうしていることが、どれだけ奇跡に近いのかということを。

だから、思い返す。
どんな一瞬も、自分を形作った大切なものなのだと。
忘れてはならない。
逃げてはいけない。
大丈夫。
自分はこの道を歩いている。
今日も、この道を歩いていける。

「おはよう‥‥‥‥」

盤面を撫でながら、おごそかにささやく。
そうすると、いつも何故か笑みがこぼれる。
照れくさい気はするけれど、そんな自分は嫌いじゃない。



「さて‥‥‥‥」
立ち上がって、大きく体をのばす。
ふと、傍らに視線を流した。
19才の自分。
背も伸びたし、体つきだってずいぶん大人になった‥‥はず。和谷達にはまだまだだとからかわれるけれど。でも少なくとも、15の頃のままではない。

そこには何もない。誰もいない。
いつもと変わらない、自分の部屋。

けれどもし、佐為がいたら。

この背は、視線は、肩は、もうあの長身を追い越しただろうか。
「ヒカル、大きくなりましたねぇ」と微笑んでくれるだろうか。

けれど記憶の中の佐為は、下から見上げたものばかりだ。どのくらいの背だったかも、よく思い出せない。
だから肩を並べたところも、ましてや上から見下ろすなんてのも想像できなくて、思い描く佐為に向ける視線は、やっぱり上向いてしまう。

───ヒカル。

「‥‥絶対、追い越してると思うんだけどなあ」
とりあえずそんなことをつぶやいてみる。
それが我ながらおかしくて、知らず苦笑に頬がゆるんだ。

───ヒカル。

あの、しっとりとやわらかな声。
優しい響き。
佐為が呼ぶ。
その響きを、まだ覚えている。
穏やかに、包み込むような響きも。
そして、激情に満ちた響きも、「ヒカル」と不安を訴えた、あの響きも。

耳を塞ぐ気はない。
それはすべて『ヒカル』に向けられたものだから。
彼が、一点の曇りもない視線と共に「ヒカル」と呼んだから。
それらはすべて、『進藤ヒカル』を形作るもの。
自分のものだ。

だから、きっと一生、彼を追い越すことはないだろう。
いつか彼と出会って、面と向かって笑い合うでもないかぎり。

佐為を追う。
どこまでも追う。
追いながら、いつかは追い越しているかもしれないけれど、けれど気づかず追うのだろう。
そうしてこれたことに、そしてこの先もそうしていけるだろう自分は、きっと恵まれているのだろう。

ふともう一度、碁盤を振り返る。
まだ一子も置かれていない盤面には影一つなく、穏やかに満ちた光の中で沈黙している。

うん、わくわくするよな。

「さあ、て‥‥と」
シャワーを浴びて、朝御飯を食べて、歯を磨いて、服を着て身だしなみを整えて。
今日は特別。
でも、いつだって変わらない。
だから、今日も───そしてきっと、明日も。

真新しい気持ちで一日を始めるのだ。




2005.9.20