雪の日に

『───明日は、関東でも雪になるところが多いでしょう』 昨日、天気予報でそんなことを言っていたのを「そんなはずないだろう」と、あんまり信じていなかったんだけど。 「‥‥‥‥‥なあ、雪っぽくねぇ？」 「ああ‥‥そうだな。今日は雪が降ると言っていたから」 電車のホームから見る外の景色は、さっきまで雨が細く線を描いていたのに。 いつのまにか、塊が混じり。 静かに耳をすませると、パツパツ‥‥という雨音に、シャク、と、どこかかき氷にスプーンを差した時のような音さえ聞こえてきた。 閑散としたホーム。 目の前に、東京湾が広がる。 すぐ隣には、あいかわらずおかっぱ頭の、でもそれがやけに似合ってる、それがくやしいほどにはまってる、碁界の王子様。 雨だったはずの塊は、やがて綿をのばしたような形に変わり、気がつけば大きな牡丹雪となって、視界いっぱいに降り注いでいた。 「すげー‥‥天気予報、あたったな」 「そうだな」 白灰色にけぶる空と海の間を、真っ白い雪が不規則に舞い乱れる。 羽のように、そう、まるで〈天使の羽〉のように、大きくて、平べったいそれは、まるではしゃぐように、宙(そら)を行ったり来たりしている。 ふと傍らに目だけを向けると、『王子様』はなにやら難しい顔で、まっすぐに前を見つめていた。 「なんか、フキゲン？」 「別に。ただ、早く電車が来ればいいと思ってるだけだよ」 「‥‥あと、３分」 「分かってる」 不機嫌、というより、不本意なんだろう。 兄弟子の忘れ物をわざわざ届けに来たという、まるで子どものお使いのような些末事に、自分の時間を割かなきゃならなかったから。 しっかし緒方センセイも、なんであんなもの忘れるかね。 「寒くなってきたな」 前を見つめたまま、ヤツが言う。 その口元から、白い霞がふわりと宙にたちのぼった。 当たり前のように肩を並べてはいるけれど、初めからそうだったわけじゃない。 むしろ、こうして並べられたことは、奇跡なのかもしれない。 もちろん、奇跡なんかじゃなく、ものすごくとてつもなくこれ以上にないほど努力した。その成果なんだけど。 でも、まったく正反対の子供で、それこそ接点すらなかった二人が、出会って、興味を持って、共に同じ道を歩きたいと望むまでになった。 その選択は、それこそ奇跡の確率だったんじゃないだろうか。 いや、その前に。 〈アイツ〉と出会った。 それは間違いなく、奇跡。 そこから、すべては始まった。 今の奇跡を現実にしたのは、まぎれもなく〈アイツ〉だ。 大きな綿雪が降りしきる。 風はない。 吐息が白くけぶり、宙を流れる。 ふと、わざと大きく、息を吐き出してみた。 白い呼気はふわりと宙に広がり、上へと漂い、やがてうっすらと消えていった。 なんだかおもしろくなって、またやってみた。 ハア‥‥、と微かな音をたてるだけで、いくらでも、自分は煙を吐くことができる。 ゴジラみたいだなあ、と思う。といっても、ゴジラが煙を吐くのかどうかなんて知らないけど。 そんな子供じみたことを思いながら何度か繰り返していたら、隣から、呆れたようにヤツが言った。 「‥‥‥‥‥楽しそうだな」 ひょい、と隣へと視線を流すと、溜息でもつきたそうな顔がこちらを見ている。 それが、なんだかかわいく見えたのが不思議だ。 「‥‥‥楽しいですよ」 ちょっとおどけたようにそう返して、なんとなく、また宙に向かって呼気を吐き出した。 白い煙が空へ空へと昇る。 「‥‥楽しい、というより、うれしそうだ」 「‥‥そう？じゃ、そうなのかも」 それが白灰色の視界に溶けてなくなってしまうまで、ただじっと見送っていた。 『───まもなく、○番線に‥‥‥行きの電車が到着します。白線の‥‥‥』 「お、電車来たぞ」 「雪は好き？」 かみあわなかった問答に、ハイ？と隣を振り返る。 ヤツは軽く肩をすくめて、どこかぶっきらぼうに言った。 「いや‥‥‥子供みたいだと思って」 「子供だもん。まだ未成年だしー」 「別に、けなしたわけじゃないよ」 ぶっきらぼう、というより、困惑してるのかな。 別にこっちだって気にしてないのにさー、と思いながら、んー、と軽く唸って返した。 「塔矢は雪、嫌い？」 「好きとか嫌いとかじゃなく‥‥寒いし歩きにくくなるし、あとが大変だろう？それを考えるとね」 「なんか、じじむさいぞ、オマエ」 「ジジ‥‥って───！」 「ああ、ほら、電車来たぞ」 ちょうどいいタイミングで電車が滑り込んでくる。 風圧で飛ばされた雪片が、ホームの中まで舞い込んできた。 静かだった世界が、一転、めまぐるしく動き始める。 「帰ったら、一局打とう」 ヤツが言う。 「そうだな」 もちろん、即答する。 即答できる。 当たり前だ。 「打とう」───ヤツから、他ならない塔矢アキラから、そう望まれることをめざしてきて、今、ここにいるのだから。 奇跡のような現実。 〈アイツ〉から引き継ぎ、今も続いている奇跡───だからこそ。 それは愛おしいほど大切な、オレの〈宝〉だ。 降りてきた客と入れ違いに、電車に乗り込む。 扉口で、ふと外を振り返った。 白灰色の空と海。 はしゃぐように、雪が舞う。 ───ヒカル、見て見て！雪ですよ、大きな雪！ 「‥‥何を笑っているんだ？」 「え？や、別に‥‥」 そう答えて、クスリと忍び笑いが漏れてしまう。 「あー、ちょっと‥‥思い出し笑いかな」 「ふうん‥‥‥」 ブシュゥン、と音をたてて、ドアが閉まる。 水滴に曇る窓からは、もう何も見ることはできない。 カタン、と軽く揺れ、電車は静かに走り出した。

2004.12.30