さくらによせて
薄紅の〈雪〉の中に、進藤がいた。
ちょうど通りかかった公園の、少し高くなったところに、進藤が足を投げ出して座っていた。
満開の桜は盛りを過ぎ、風にのせて小さな花弁を空へと放っていた。
身じろぎもせず、ただその様を仰ぐ進藤は、幻想的なその風景に、思いのほかしっくりとはまっていた。
だから、足を止めた。
止まってしまったのだ────不覚にも、見とれてしまったから。
けれど、それも僅かな時間だった。
「あれ‥‥塔矢じゃん」
呼んだわけじゃない。
物音だってたてなかったのに。
「‥‥何、してるんだい」
「何って‥‥花見だよ」
いつもの生き生きとした、彼らしい瞳で。
進藤はいつものように、悪戯っぽく笑っていた。
「‥‥花見？」
「おう。おまえも来る？」
そう言うから、公園の中へと行き先を変更した。
別に、行きたかったわけじゃない。ただ、断る理由が、とりたててなかったのだ。
進藤は、石垣の上にいた。
「そっちの脇に、階段があるだろ。そっから上がれるぜ」
指し示された先を見れば、石を組んでできた細い階段があった。
言われたとおりに石段を登る。
木漏れ日が淡く視界に揺れていた。
薄紅の雲が、厚く頭上を覆う。
それだけで、空気がやわらかいような気がするから、不思議だ。
木々の陰をまわると、進藤が石垣の縁に腰掛けて、やっぱり空を見上げていた。
それでも、近づいていくと、進藤は気づいて振り返った。
「塔矢、今日、仕事は？対局はなかったよな？」
「取材がね。でも、もう終わった」
「そっか」
進藤は座ったまま、こちらを見上げてくる。
特に拒まれているようでもなかったから、隣に腰を下ろした。
そうしたら、ずいぶんと驚いた顔をされた。
「‥‥何？」
「いやあ、塔矢も、地べたに座るんだ、と思って」
「‥‥キミだって座ってるじゃないか」
「そうなんだけど‥‥でもさあ」
「何」
「この辺、けっこう犬のフンがさあ」
「え゛っ?!」
ギョッとして、思わず尻を浮かす。
と、進藤は一瞬瞳を瞠り、ついで、さもおかしいと言わんばかりにクツクツと笑い出した。
「‥‥‥‥進藤」
「塔矢って、ホント‥‥‥」
「進藤！」
「ウソはついてねぇぜ。フン落ちてたりするのは本当。だいたいさあ」
フンが落ちてるの知ってて、すぐ傍に座るわけないじゃん。
そんなことを進藤は、あっけらかんと言った。
「まったく‥‥‥！」
フン、と鼻で溜息をつく。
腹立ちまぎれに片脚をドンと投げ出したら、進藤は「うわっ」とおどけたように驚いてみせた。
桜が降る。
はらり
はらり
ほんのり色づいた花弁が降る。
その様を、進藤は黙って見つめていた。
けれどよく見れば、その視線は花弁を追っているわけではなく、かといって花雲を見ているわけでもない。
花が降る。
その光景を────目に映るものの向こうにある何かを、見ているようにも見えた。
「この桜もさあ」
ふと、こぼれた進藤のつぶやきに、はたと、自分がぼんやりしていたことに気づいた。
進藤は、変わらず桜を見上げていた。
別に、誰かに聞かせようというようではなかったけれど、でもその穏やかな声音は、やけに耳の奥に重く残った。
「今はこうして散ってるけど‥‥いつかは、なくなるんだよな」
「‥‥そうだね」
どう答えていいか分からなくて、曖昧に相づちを打った。
だって、進藤がそういうことを言うのが、とても意外だったから。
すると、進藤は「あれ？」というような顔をして、それから振り向いた。
「あー‥‥‥別に、深いイミはないんだけど」
「そう？キミにしてはずいぶんと珍しいことを言うんだと思った」
「オレにしては、はよけいだろ」
進藤の微笑みが苦くくずれる。
「だってさ‥‥ほら、いつかは散っちゃうじゃん？いつか終わるだろ。もうすぐなくなるんだなあ、と、思ったのさ」
「ずっと、桜吹雪が続けばいい？」
「ええ？でも、それはそれで鬱陶しくないか？」
「‥‥‥‥キミは、続けばいいと思うの？それとも、さっさと散ってほしいのか？」
「両極端だなあ。白黒はっきりさせろってか」
塔矢らしいなあ、と、進藤は楽しげに笑った。
進藤が、何を考えているのか、さっぱり分からなかった。
分からなくて、いらいらした。
それは、近づきたいのに近づけない、そう、彼を追いかけ、追いかけさせていたあの頃の気持ちに似ていたかもしれない。
それを、察したのだろうか。
進藤は小さく笑って、後ろ手に手をついて顎をあおのかせ、空を仰いだ。
「キレイだよな。でも、いつか終わるだろう？終わりなんてなければいいと思うさ。オレだって。
でも、思って、焦ってるうちに、終わっちゃうんだ。
絶対に、終わるんだ。だから‥‥‥‥‥」
「‥‥‥‥‥‥」
じっと、次に続く言葉を待つ。
進藤は話しながら、何度も「んー」と唸っていた。
彼にも、自分の心がよく分かっていないのかもしれない。
それでも、つたない言葉で一生懸命紡いだ。
「だから‥‥うん、この瞬間を、ずっと見ていたいと思うんだよ。見てなきゃって、思うんだ」
「そうか‥‥‥」
そんな進藤に、切ないまでの優しさを感じるのは、気のせいだろうか。
けれど進藤は、訝しげな顔を向けてきた。
「‥‥おまえ、分かったの？今の話で」
「分かったこともあるし、分からないこともある」
「何だよ、それ」
「分かったのは、キミは子供っぽいだけじゃないんだなっていうこと。
分からないのは、キミが何を考えているのかってことかな」
「ようするに、分かってねぇんじゃん」
「でも、ボクはキミじゃないからね。それなのに、キミの思いをすべて分かった気になるのは、失礼だろう？」
「‥‥‥‥‥‥‥ま、いいか」
にぱっ、と。
進藤は笑って、それから「あーっ」と声を長く吐き出した。
「キレーだぞー、チクショー」
そう言って、後ろにばたりと倒れた。
いつもの、曇りのない笑みの上で、薄紅の木漏れ日が、まだらを描いた。
地面に投げ出された、長い両腕。
「進藤、犬のフン────」
「ぅえ゛っ?!」
それは、こちらが逆に驚いたほどの勢いで。
進藤はいっぱいに縮めたバネが弾けるかのように、地面から体を起こした。
ギョッとしたように自分がいた場所を見下ろしている。
「‥‥‥が、落ちてるかもしれないから、気をつけてって言おうとしたんだけど」
「‥‥‥‥‥‥お」
「そう、キミが言ったんじゃないか。ボクに」
「‥‥ぉまえ、なあっ！」
進藤が怒鳴った。
けれどそれすらもおかしくて、気がつけば思い切り笑い出していた。
いや、ひょっとしたら、進藤が怒鳴る前に笑い出していたかもしれない。
「塔矢！」
進藤が伸ばした腕は、すんでのところでかわした。
「このヤロっ、逃げるな！」
「キミが手を出すからじゃないか」
「うるさい！塔矢のくせに生意気だぞ！」
「そうだな、キミがボクに勝てるといったら、体力系だものね」
「うわー、おまえ、生意気！」
そんな会話を、進藤から逃れながら交わす。
端から見たら、子供か、子犬のじゃれあいに見えたかもしれない。
「進藤」
名を呼ぶと、彼はぴたりと動きを止めた。
その隙を見逃さず、言葉を続ける。
「時間、あるんだろう？一局、打たないか」
進藤は一瞬きょとんとして、それからニヤリと笑った。
「おう！」
それは、予想の内。
踵を返すと、まもなく軽快な足音がして、傍らをしなやかな体と風が追い抜いた。
「なあ、どこで打つ？」
桜舞う薄紅の世界に、彼の笑顔が輝く。
まさに名の如く、光のように────。
「うちの碁会所でいいだろう？」
「ああ。じゃ、また北島さんともバトルだな」
「キミねえ‥‥‥‥」
彼に近づき、並んで、歩き出す。
いつの間にか並んだ。
今、立つ場所も。
背も
碁も────いや、これは、どうだろう？
「今日は負ける気がしないんだよなー」
「じゃ、その意気もここまでかな」
「なんだとー！」
薄紅の世界の外には、青空が広がっていた。
細枝の先には、緑の若葉。
万緑の季節がめぐってくるのも、まもなくのことだろう。