天使のかいかた





〈たまご〉から、〈天使〉が孵った。





昨日、進藤が持ってきた〈たまご〉だ。

昨日はボクの誕生日で。
そう、〈たまご〉を買ってきてくれと頼んだのはボクだった。
ちょうどウチの分がきれていたし、進藤に変に気を遣われたくもなかったから、そう言った。
〈たまご〉は20個あって。冷蔵庫には入りきらなくて。
「寒いから室温でも大丈夫よ」って、お母さんが籐籠に詰めて台所の端のテーブルに置いたんだ。

「うみたて」だと言っていた。
だから〈たまご〉は、産み落とされてからまだ、24時間強しかたっていない。

24時間で、〈たまご〉は孵るものなのか?

いや、そうじゃなくて。
それ以前に。


‥‥何故、〈ニワトリ〉から〈天使〉が生まれるんだ???



いつもの時間に起きて。
いつものように台所を覗いた。
いつものように母が背を向けて朝食の準備をしていて、いつものように、
「アキラさん、おはよう」
と言った。
籐籠の〈たまご〉の山は、少し低くなっていて。
代わりに三つほど、その横に転がっていた。
「おはよう‥‥お父さんは?」
「先程起きられたわよ。あなた達、今朝も打つの?昨日はずいぶんと遅かったから、あまり寝ていないのでしょう?」
「うん。でもせっかくお父さんがいるんだから‥‥こういう時でないと、なかなか打ってもらえないしね」
「まったく、そんなにいつもいつも打っていて、よく飽きないわね」
「アハハ‥‥そうだね────」

などと、とりとめもない会話を交わしていた、その目の前で。



パキ



薄茶のすべらかな〈たまご〉の殻に、ひびが入った。



パキ


ペキキ


ペキペキ、パキパキパキパキ



亀裂が走る。
〈たまご〉が揺れる。
楕円のシルエットはひとりでに揺れて、揺れはどんどん激しくなって────。


ころん、と一回転した拍子に、殻は二つに割れた。





出てきたのは、10cmほどの、小さな小さな〈人間〉だった。





‥‥いや、正確には〈人間〉じゃあないんだ。
だって、10cmの、しかも〈たまご〉から生まれる人類など、この世にいるはずがない。
じゃあ、アレは何だ?
見た目は〈人間〉と同じなんだ。ただ、「小さい」だけで。
でも〈人間〉じゃあない。

ソレは、割れた殻と殻の間に短い足を投げ出して座り込み、きょとんとしていた。
裸の皮膚は真っ白で、つるつるで弾力がありそうで、ゆで卵みたいだった。
〈たまご〉から生まれたから、ゆで卵みたいなんだろうか。
髪は真っ黒で、絹糸のようにサラサラで、まるで滝のようにその身を流れ下ろし、テーブルに広がっていた。

…なんて観察をしてしまう自分は冷静だ────冷静なんだ、と暗示をかけているボクは、そのくらい、視覚に全神経が集中してしまうほど、全身全機能の9割方が停止していた。

何だ?
アレは何だ?
お母さんは気づかないのだろうか。

そうこうするうちに、ソレはようやく状況に慣れてきたのか、ふいに二本の足で立ち上がった。

‥‥何をしようというんだ?

固まったボクに気づかないのか、それとも無視しているのか。
ソレは、今まで自分を包んでいた〈たまご〉の殻を覗き込んで、その内側に貼りついた薄膜を引っぱり出した。
引っぱり出した膜を、広げ、身に巻きつける。

と、膜が着物になった。
昔々の、平安時代頃の、そう、〈陰陽師〉が着ているようなのに似た、真っ白い着物だった。
驚くボクの前で、ソレは殻に頭をつっこんでなにやらごそごそと動いていたが、出てきた頭には〈烏帽子〉が載っていた。
それから、いきなりヘビのように大口を開けたかと思うと、なんと自分と同じくらいの大きさがある〈たまご〉の殻を、バクリと飲み込んでしまった。

ジャク ジャクジャクジャク‥‥ゴックン。

片方食べたら、背中に小さな翼が片方できた。
もう片方を食べたら、もう一枚翼が生えた。
真っ白い、眩しいくらいに真っ白い、一対の小さな翼。
翼がそろうと、ソレは「伸び」をするように、翼を、プルル、と震わせた。

飛ぶのか?
羽があるということは、やっぱり飛ぶのか?

ふと、ソレが振り返り、ボクを見上げた。

目が合う。

ニコニコニコ、と、ソレは笑った。
うれしそうに、無邪気に顔をほころばせた。
‥‥しまった、これは「刷り込み」というやつじゃないのか。
その証拠に、ソレはボクをはっきりと見上げて、テーブルの上をとてとてと歩いてくる。

「アキラさん、どうかしたの?」

そのとたん、それまで金縛り状態だったボクは、びくりと視線を上げた。
母が、不思議そうに微笑んで、ボクを見ている。
気づいていないのだろうか。
いるのに。
そこに、いるのに。
「あの‥‥‥‥お母さん‥‥‥‥?」
ぎこちなくソレを指さすと、彼女は卓上に目を落として、「あら」と声をあげた。
「おかしいわねぇ。確かここに3つ置いておいたのに」
「え‥‥‥あの‥‥‥‥?」

‥‥‥‥‥‥‥見えていない?

ソレは笑顔を僅かに傾けて、ボクを見上げている。
小さな羽が、ふるる、と震える。
残った、「2個」の〈たまご〉。

‥‥‥‥ちょっと、待て────?

突然よぎった想像に、ボクは残りの2個に飛びついて、卓上からかっさらった。
まさか、この2個の中身も、まさか────。
「アキラさん、まあまあ、どうしたの?!」
驚いている母にかまわず、傍にあった椀の上で〈たまご〉を割る。

とぷん、と、ゼリー状の白身と黄金色の黄身が、朱塗りの椀にすべりこんだ。

「アキラさん、一体どうしたの?この〈たまご〉がどうかしたの?」
「いえ‥‥‥ごめんなさい、なんでもないんだ」
椀の中でぷよ、と浮かぶ2個の黄身に内心ほっとしながら、ボクはちらと視線を落とす。
‥‥‥‥いる、よな‥‥やっぱり‥‥‥‥。
ふいに鍋が噴いて、お母さんは慌てたようにまた背を向けてしまった。
ボクはそっと、ソレに指先を伸ばした。
と、ソレは笑みを輝かせて、両腕を伸ばし、ボクの人差し指をつかんだ。
‥‥‥うわあぁぁ、触ってるよ。
握手のつもりなんだろうか。あ、ちゃんと指も5本あるんだ。
ボクは両手でそうっとソレを、掬い上げた。
母が背を向けたまま言った。
「アキラさん、お父さん待っていらっしゃるんじゃない?一局打つのでしょう?」
「あ、はい────」
「終わったら、朝ごはんにしましょう」
「うん、分かった」
さりげなく返事をしながら、ボクはゆっくりと踵を返した。
両手の中には、確かにいる。
白くて、羽の生えた、〈天使〉みたいな生き物。
ご機嫌なのか、〈天使〉はずっと羽を震わせていて、それがなんともくすぐったかった。



なんだろう。
新種の生物?
それとも、夢?
でも夢にしては、まわりの空気も匂いも気配もやけにリアルだ。
幻‥‥ではないよな?だって確かにここに「いる」のだから。

「‥‥‥‥‥え〜と」
廊下で、ボクは片手に載る〈天使〉に、軽く咳払いをしてから話しかけた。
「ボクはこれから、父と碁を打つんだけど‥‥碁、って言っても分からないか」
ところが〈天使〉は、上質の琥珀のように澄んだ瞳をこぼれ落ちんばかりに見開いて、はしゃぐように手を合わせた。
「‥‥‥碁、分かるの?」
〈天使〉が頷く。
うわ、そんなに振ったら、頭がもげて落ちそうだ。
「じゃあ、見てるかい?」
また、頷いた。
まあ‥‥いいか。
お母さんには見えなかったみたいだけど、お父さんはどうだろう。
と、〈天使〉は大きく翼を震わせたかと思うと、ボクの掌からふわりと飛んだ。
風船が空へと上がっていくように、〈天使〉は宙に浮き、ふわり、とボクの左肩に舞い降りた。
羽根が舞い降りたような、微かなくすぐったさ。
けれど、あとは消えてしまったのかと思うほど、重さも何も感じられなかった。
気配がなければ────ちらと視線を流して、そこに姿がなければ。
ああ、やっぱり幻だったんだ、で済んでしまったんだろう。


父は、気づかなかった。


〈天使〉は、真剣な眼差しで僕たちの対局を見ていた。
本当に、碁、好きなんだ。
さっき〈たまご〉から出てきたばかりで、碁を知っているというのも不思議だけど。
いや、身の丈10cmでしかも翼まで生えた人間(?)‥‥というだけで、十分不思議の域を超えているか。
それにしても、あんまり真剣に見ているから、ボクもいつも以上に頑張ってしまった。
負けず嫌いは自覚してる。
でも、こんなちっぽけな生き物にまでプライドを張ろうとしてしまうのだから、ボクもつくづく仕方がないと自嘲せずにはいられない。
ただその一局は、そのせいかどうかは分からないけど、自分でもうまく打てた一局で。
負けたけれど、「いい一局だった」と言ってもらえた。
父の部屋を出たところで肩口を振り返ると、〈天使〉が微笑っていた。
見ていたら、ボクもなんだか頬が緩んでしまった。
やっと、笑えたような気がした。


家族三人で朝食をとりながら、ふと〈天使〉は何を食べるんだろうと思い当たった。
〈天使〉はボクの茶碗のとなりにちょこんと正座して、ボクらが食べるのをニコニコと見ている。
何か、食べるんだろうか。
ボクはそっと、指先で〈天使〉をつついた。
〈天使〉が振り返る。
父や母に見つからないようにこっそりと箸でご飯を指し示すと、理解したのだろう、〈天使〉は首を横に振った。
何も食べないんだろうか。
「アキラさん、どうなさったの?」
ふいに母に言われて、ボクは視線を向ける。
「え、どうもしないよ?どうして?」
「だってさっきから、百面相していらっしゃるわよ」
「そ、そうかな────」
慌ててボクは顔を引き締める。
そんなに表情を変えていたつもりはないんだけど‥‥うわ、どんな顔をしていたんだ?
「今朝のご飯、何かおかしかったかしら」
「そんなことないよ!その‥‥うん、昨日の一局を思い出してたんだ」
「まあ、また碁?」
本当にアキラさんは碁ばかりなのねぇ、と母が苦笑する。
誰に似たの、なんて、父に話をふっている。
父は黙って、ずず、と味噌汁をすすっていた。
ボクは、笑うしかなかった。


自分の部屋へ戻ってから、ボクは改めて〈天使〉に何を食べるのかと訊いてみた。
すると〈天使〉は

「ゴ!」

と高らかに答えた。

ゴ?
「‥‥ゴマ?」
〈天使〉はプルルッ、と勢いよく首を横に振った。
「ご飯‥‥じゃないんだよね。ゴ‥‥‥って、なんだろう?」
すると〈天使〉は、床に置いていた碁盤に飛んでいき、十九路を小さな手でぺしぺしとたたいた。
「‥‥‥碁を打つの?」
それが、食事???
というより、碁が打てるのか????
〈天使〉は期待たっぷりにボクを見上げている。
「‥‥いいよ。じゃあ、打とうか」
どのくらい打てるのか知らないけれど、それでいいというなら。
少なくとも、ボクにはお安いご用だ。
ボクは碁盤の前に座り、碁笥を一つは自分の傍らへ、もう一つは対面へと置いて蓋を開けてやった。
「キミの方が黒だから、キミが先番でどうぞ」
〈天使〉は碁笥へと飛んでいき、黒石を一つ、よろよろしながら抱えて戻ってきた。
盤の上に立って、あっちへよろよろ、こっちへよたよた。
「‥‥‥ボクが打とう」
腕の中から碁石をつまみ上げてやると、〈天使〉はホッとしたような顔をしてとたとたと走っていき、一点の上で止まった。
右上スミ小目。
ここに打てってことか。
〈天使〉の足下に、黒石を打つ。
それから、対面の碁笥を引き寄せる。
‥‥まずは、お手並み拝見だな。
ボクは二手目を対角線に打ち込んだ。



「‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥」
終わってみて、愕然とする。
そりゃあ、初めに慎重に打ちすぎたというのもあるんだけど。
後半ははっきりいって本気だったんだ。自慢じゃないけど、このボクが。
なのに、圧倒的な強さ。
というより、何だ?
‥‥‥‥この、不思議な近似感は。

〈天使〉は、ふわふわと宙に浮いたまま、満足そうにお腹をさすっていた。
「キミ‥‥何者?」
〈天使〉はただ、くすくすと笑っている。

似ている。
似ているけれど、違う。
ボクが〈彼〉と出会ったのは、もうずいぶんと昔のことだ。
だから、違う。
違うけど、やっぱり似ているんだ。

〈彼〉に────〈sai〉に。

「キミは‥‥‥sai?」
やっぱり、くすくすと笑っている。
どこか、悪戯を企んでいるような、無邪気な子供の笑み。
どうやら、〈答え〉をくれる気はないらしい。

「ねえ、もう一度打とう」
〈天使〉は大きく頷いた。
「今度は本気で打つからね」
ざらざらと石を集める。
なんだか、ワクワクしてきた。

その感覚は、進藤と打つ前のそれと似ていて。

‥‥‥‥進藤は、どうだろう。

ふと、ボクは手を止める。
父にも母にも見えなかった〈天使〉。
でも、ボクには見える。
一緒に碁を打つこともできる。
じゃあ、進藤は?

〈天使〉の打ち筋は、saiのそれと似ていた。
進藤のそれも、saiと似ている。
進藤だったら、この小さな生き物と、どんな碁を打つだろう。

そう思ったらすぐにでも進藤に連絡を取りたくて、電話をかけようと立ち上がると、〈天使〉が慌てたようにボクの前に飛んできて碁盤を指し示した。
「ああ、ゴメン。キミと打たせてあげたい人がいるんだ。進藤っていうんだけど」
〈天使〉は丸くした瞳をまっすぐにボクに向けている。
「彼も碁を打つんだ。ボクと並ぶくらいの棋力の持ち主だよ。かまわないだろう?」
そう言うと、〈天使〉はふわりと飛んでボクの肩に舞い降りた。
どうやら、納得したらしい。
ボクは電話をかけるために、部屋を出た。


進藤の家に電話をすると(携帯に電話をしても、つながらないことのほうが多いんだ)、進藤のお母さんが出た。
「昨日は遅くまでお邪魔してしまったようで、ごめんなさいね」
「いえ、ボクが引き止めたんです。こちらこそ、遅くまで申し訳ありませんでした」
それでヒカル君は、と、長くなりそうな「挨拶」を早々に打ち切ると、ちょっと待っててね、と言われて保留音に切り替わった。
聴いたことのある音楽が、受話器から流れ出す。
それを、10回も聴いた頃だろうか、ようやく相手が電話口に出た。
進藤の声は、どこかぼんやりとしていた。どうやら寝ていたらしい。
「おまえなあ‥‥なんだよこんな早く」
「早くって、もう9時じゃないか」
「昨日何時に寝たと思ってるんだよ」
最後の方に、ふわあぁ、と欠伸が混じる。
「今からキミと打てないかな」
そう言うと、進藤が不満げに唸った。
「おまえ、さっきまでさんざん打ったじゃねぇかよ。4時だぞ、4時!朝の4時!」
「ボクは6時に父と打ったよ」
「碁バカのおまえと一緒にするなっ」
うー、と進藤が唸っている。
「‥‥じゃあ、キミの家へ行くから」
「はあ?!」
「だから。碁会所に来てもらおうと思ってたんだけど、ボクがそっちへいけば、その間くらいは寝られるだろう?」
「‥‥おまえらしい思いやりだよな」
そうだよ、キミのために譲歩したんじゃないか。
なのに何故、そこで溜息をつく。
進藤が、まあいいか、とつぶやくのが聞こえた。
「んじゃ、まあ、いいよ。ゆっくり来いよな。オレ、もう一眠りするから」
「分かった」
カチャ、と受話器を置いて、肩口を振り返る。
「じゃあ、行こうか」
〈天使〉が電話を指さして、何か言っている。
言っているみたいだけど、よく聞き取れない。
でもなんとなく分かった。
「いいんだよ。もう9時過ぎなんだから。それに遅くまで寝ていたら、生活のリズムが崩れるだろう?」
〈天使〉が、呆れたように苦笑する。
ボクは庭先に母を見つけて、顔を出した。
「お母さん、ちょっと進藤の家へ行ってくるから」
「そう?」
気をつけてね、と、母は洗濯物を干しながらつけ加えた。



進藤の家の呼び鈴を鳴らすと、意外なことに、出てきたのは進藤本人だった。
「‥‥起きてたんだ」
と言うと、進藤は不機嫌そうに眉を寄せた。
「おまえのことだから、ゆっくりって言ったってすぐ出てくると思ったんだよ」
「ゆっくり来たじゃないか」
「どこが?」
「ゆっくり歩いた」
「‥‥なるほどな」
進藤が溜息をつく。
だから、なんなんだ、いったい。
「‥‥まあ、どのみち、寝こけた頭でおまえとは打てねぇからな」
いいけどさ、と口の中でつぶやきながら、ドアを背で押して入口を開ける。
その前を通って、ボクは家の中に足を踏み入れた。
「おじゃまします」
「おう」
「お家の人は?」
「買い物」
靴を脱いで上がると、進藤がボクの横をすり抜けて、「先に部屋行ってろよ」と、キッチンの方へ行ってしまった。
「晴れのち雨」状態のサンダル。
「‥‥‥‥‥‥‥」
ボクはサンダルを玄関の端にきっちりそろえて、階段を上がった。

進藤の部屋は、意外にもきれいに片づいていた。
床に置かれた、足つきの碁盤。
その一方に、ボクは腰を下ろす。
〈天使〉が浮かれたように、部屋の中を飛び回っていた。
‥‥そりゃあ、ボクの部屋には何もないからな。
その喜びかたが、ちょっとくやしい。
やがて、進藤が茶器の載った盆を片手に入ってきた。
〈天使〉が彼の顔の真ん前で、手を振っている。
「塔矢。お茶でいいんだろ」
進藤は、すい、と通り過ぎ、ボクの前に腰を下ろした。
‥‥ああ、やっぱり、見えないのか。
「‥‥‥‥‥何?」
「え、いや‥‥‥‥なんでもない」
〈天使〉は、どこかさみしそうに微笑んで、ボクの肩に戻ってきた。

「じゃ、さっそく打つか」
進藤が碁笥を片方押しやってくる。
「オレが白か‥‥オレがニギるぞ」
「いいよ」
進藤は碁笥に手を入れて、無造作に盤の上に置く。
ボクも石を一つだけ、その前に置いた。
数えた白石は、十七個。
「おまえが黒だな」
「うん。ところで‥‥ちょっと、待っててもらえるかな」
立ち上がろうとしたボクを、進藤が不思議そうに見上げた。
「なに、トイレ?」
「違うよ」
じゃあなんだよ、とつぶやく進藤を無視して、ボクは部屋を出た。
肩に〈天使〉を載せたまま。

廊下へ出て、ボクは〈天使〉を掌へと載せて話しかけた。
「進藤と打ってみないか?」
〈天使〉がこぼれ落ちそうなほど瞳を見開いた。
どう?と重ねて問うと、バネのように激しく頭を縦に振った。
‥‥や、だから、頭が落ちるって。

「お待たせ」
「おまえって、シてくるの早いなぁ」
「だから、トイレじゃないって言っただろう」
対面に座り、まだなにか言いたそうな進藤に、さっさと頭を下げる。
「お願いします」
「お願いします」
始まってしまえばもう、進藤の気は棋士のそれへととってかわるのだ。



ボクは石を置く。
それはでも、ボクの碁ではない。
ボクは、〈天使〉の足下に、石を置く。
〈天使〉の意志のままに、石を置く。

進藤と、この小さな〈天使〉の対局を。
ボクは一番近いところから見ている。

中盤を過ぎる頃から、進藤の顔つきが徐々に険しくなっていった。
確かに、形勢はやや黒有利だ。
けれど、苦しげに寄せる眉根も、こめかみの脂汗も、それが理由ではないとはなんとなく分かった。

ある一手を打った時。
「‥‥‥‥‥‥‥とおや‥‥‥‥っ」
悲鳴のように、進藤は叫んだ。
泣き出しそうな、苦しそうな表情に、ボクは驚いて息を飲んだ。
進藤は混乱したように視線を泳がせ、口を開いては、閉じる。
噛みしめた唇は口紅をひいたように真っ赤に色づいていた。
あんまりひどいので、ボクは内心狼狽えながらも、静かに問いかけた。
「‥‥‥どうしたんだ、進藤?」
「この碁‥‥」
「碁が、どうかしたのか?」
「この碁‥‥おまえが打ってるんだよな‥‥‥‥」
「‥‥‥進藤?」
「‥‥いや、そうだよな‥‥そんなはずはないんだ‥‥‥‥‥‥」
進藤はそう言って、微かに呻きながら盤上を凝視する。
「‥‥やめようか」
そう言うと、進藤は激しく首を横に振った。
「いや‥‥!いや‥‥‥最後まで打たせてくれ‥‥‥頼むから」
進藤はぐっと拳を握り、それから碁笥に勢いよく手を入れて、摘みだした石をぴしりと打ち据えた。
ボクは〈天使〉を見つめる。
〈天使〉は小さく微笑んで、その隣を指し示した。
どこか哀しげにも見える、淡い、綺麗な微笑。
それは、絶妙の一手だった。

「‥‥‥‥負けました」
宣言したのは、進藤の方。

美しい一局だった。
でもこれは、ボクの碁じゃない。
ボクの碁とは、明らかに違う。
だからたぶん、進藤も気づいている。
気づいているから、顔をあげられないんだ。
塔矢アキラの碁じゃない。
でも、打ったのは、ボク。
何故、という思いとともに、混乱している。

まるで、昔のボクだ。
進藤とsaiを重ねては混乱していた、ボク。
あの時。
進藤の傍にも〈天使〉がいたんだろうか────。

「塔矢」
進藤がボクを睨む。
「おまえ‥‥なんであんなふうに打ったわけ?」
「あんなふうに、って‥‥?」
「なんの真似だよ。あの打ち方‥‥まるで」
「saに似ていた?」
「塔矢!」
進藤が怒鳴った。
ぎりぎりとボクを、進藤は睨みつける。
‥‥怒っている?
「怒っているのか?」
「当たり前だろう!ふざけやがって────」
「怒らせるつもりはなかった。ただ、キミも打ちたいんじゃないかと思ったから────saiと」
「だからって、おまえが真似したってうれしいわけないだろう?!」
「打ったのはボクじゃない。それを先に言わなかったことは謝る」
「なに言ってんだよ、おまえが打ったんじゃねぇか!」
「いや、打ったのは〈これ〉だ」
「はあ?!」
なに言って‥‥とつっかかってくる進藤の眼前に、ボクは宙に浮いていた〈天使〉を鷲掴みにしてつきだした。
「見えないかもしれないけど。昨日、キミが買ってきたたまごの中から出てきた」
「‥‥‥‥‥」
「父にも母にも見えなかったから、きっとキミにも見えないだろうが。ここに『いる』んだ。長い黒髪で白い狩衣に烏帽子の────」
「‥‥待て!塔矢、それって‥‥それってさ」
進藤はごくりと唾を飲んで、おそるおそる言った。
「男?女みたいに綺麗な顔した‥‥」
「あ、ああ‥‥そうかもしれない」
「背が高い?!」
「いや。10cmくらいかな」
「10cm‥‥‥‥」
がくり、と進藤はうなだれる。
「で、白い翼が生えてるんだが‥‥」
進藤は肩を震わせていたかと思うと、がば、と体を起こして、思いきり怒鳴った。
「出てけ!」
「進藤────」
「帰れ!頼むから!」
悲鳴のように。
「‥‥分かった。帰るよ」
静かにそう言って、ボクはそっと部屋を出た。
なぜか、〈天使〉も泣き出しそうな顔をして、いつまでも進藤の部屋のほうを見ていた。

家に帰ってきてもまだ、〈天使〉はしょぼくれていた。
「一局打つかい?」
と訊いても、力なく首を振る。

なぜ、進藤はあんなに怒るのだろう。
ボクは本当のことを言っただけなのに。
そりゃあ信じられない話かもしれないけど、でも、本当のことなのに。
信じなかったのは、キミの方じゃないか。

ボクは、机の上でぺたりと座り込む〈天使〉を覗き込んだ。
「そんなに落ち込むなよ」
〈天使〉が顔をあげる。
‥‥あ、涙。
「キミのせいじゃない。進藤は、その‥‥そう、眠かったみたいだし、その上負けたから、機嫌か悪かったんだよ。勝負なんだから、ああやって怒る進藤が間違ってるんだ。キミは、間違っていない。だから、気にするなよ」
あ、ちょっと笑った。
「‥‥‥‥打つかい?」
〈天使〉はふわりと、淡く微笑んだ。


その日、ボクは一日中、〈天使〉と碁を打った。
打ちながら、やっぱりsaiに────進藤に似ていると思った。

進藤とsai。

saiは十中八九進藤の知り合いだと、緒方さんは言った。
でもボクは、違うと思っていた。
だってボクは、saiの重なる進藤ヒカルも知っているから。
でも、進藤はsaiじゃない。進藤自身もそう言っていた。それはきっと、嘘じゃない。
だから結局のところ、ぼくには何も分からない。
分かるのは、進藤とsaiが、ボクの人生を大きく変えたってことくらいだ。
そういえば、ボクが〈天使〉のことを言った時、進藤は妙に反応していたな。
なんだっけ‥‥‥そうだ。
長い黒髪、白い狩衣、烏帽子‥‥‥の、女性のように綺麗な顔の、男性、たぶん、背の高い。
それはたぶん、進藤がよく知っている人────もしかしたら、sai。
‥‥saiって、神社の神主さんとかだったのかな?

────そんなわけ、ないか。

突拍子もない想像に、小さく吹き出したボクを、〈天使〉が不思議そうに見上げてきた。
「ゴメン‥‥ちょっと、考えてたことが自分でもおかしくて、つい、ね」
〈天使〉がふるる、と翼を震わせる。
黙ってじっとボクを見つめている、その瞳に、ふと、ボクはなんだか無性に話したくなった。
進藤のこと。ボクのこと。
saiのこと。
「‥‥ねえ、聞いてくれるかい?」
対局の途中に関係ない話をするなんて、自分でも信じられなかった。
いつもの自分なら、絶対にしない。
でも、なぜか許されるんじゃないかという気がした。
許してくれるんじゃないか、と思った。
〈天使〉はにこりと微笑んで、石の並ぶ盤の空いた隙間にちょこんと正座した。
そこはちょうど、彼の地の内で、思わず笑ってしまった。
ちゃっかりしているなあ。
さて‥‥‥何から話そう?
ボクは頭をめぐらせた。

「saiっていうのはね、ネット上で最強と騒がれた棋士なんだ。何年か前に、ほんの少しだけ現れて、ある時を境に消えてしまったんだけどね」
思いつくままに、ボクはぽつりぽつりと話した。
「ボクはsaiと対局した。進藤とも、何度も対局している。二人の碁はとても似ているよ。でも、進藤の碁は、saiじゃない。似ているけど、やっぱり違う。
ただ‥‥うん、そう、初めて対局した時の進藤は、本当にsaiそのものだったんだ。
もっとも、今となってはそれも曖昧なんだけどね。ボクはまだ未熟な子供だったから、彼に対抗できるほどうまくは打ち回せなかったし、相手の強さを脅威に感じていただけなのかもしれないし」
〈天使〉は真摯な眼差しで、僕の話を聞いている。
「saiは、ボクらにとっては幻の棋聖だ。でも、進藤にとっては、それだけじゃないんだろう。たぶん、もっと深く関わっている。彼の碁‥‥いや、人生そのものに。そんな気がする。
そのsaiと、キミの碁は本当によく似ているんだ。だから、進藤とキミを対局させてみたかった」
〈天使〉は微笑んだまま、何故、と言うように頭を傾けた。
促されるように、ボクは答えた。
「そうだな‥‥好奇心もあったかもしれない。でも、進藤は打ちたいんじゃないかと思ったんだ‥‥‥saiと。
進藤とsaiの間には、何かがあるんだ。誰も知らない、二人にしか分からない何かが。
だから、saiがいるなら打ちたいだろうと思った。それだけだよ。進藤は、怒ったけどね」
苦笑すると、〈天使〉は不服そうな顔をして何事かを言い立てた。
やっぱり、何を言っているか分からない。
ただ、ボクのせいじゃないと慰めようとしているんだろうとは思った。
「分かってるよ。キミのせいでも、ボクのせいでもない。進藤には進藤の思いがあったんだろう」
それでもたぶん、ボクらは〈きっかけ〉だったのだ。
進藤が話そうとしない秘密。
ボクらにひた隠しにし、抱え込んでいるもの。
実感はないが、その〈蓋〉を開ける〈鍵〉を、ボクらはちらつかせていたのかもしれない。
無意識だったのにね、とボクは苦い笑みを口元に浮かべる。
ふと〈天使〉を見ると、また不思議そうに小首を傾げていた。
「なに?」
何か言っているけど、分からない。
「だから‥‥キミとsaiが似ているから。進藤も打ちたいんじゃないかと‥‥‥」
そう言ったボクを〈天使〉は示して、また小首を傾げる。

進藤が打ちたいんじゃないかと思ったから、〈天使〉を連れていった。
‥‥じゃあ何故、「進藤が打ちたいだろう」からって、打たせてやろうと思ったのか。

だって、いつまでも抱えているから。
それほど大切なものなら。
さぞ会いたいだろうと思ったんだ。
会えたら、うれしいだろう、と。

「‥‥‥喜ぶだろう、と思ったんだ」

喜んでくれたらいいのに。
そうして笑ってくれたら、ボクもうれしい。

笑ってほしかったんだ、ボクは。

でも、進藤は怒った。
怒った、というより、傷ついたんだと思う。
ボクが思う以上に大切だったから。
大切だから、他人のボクに触れられて、紛い物でこじ開けようとされて、だから怒った。

「そんなつもりはなかったんだけどな‥‥」

ボクは小さく笑ってつぶやく。
ほろ苦い思いが、心の端に転がる。
ボクは厚意のつもりだったけど、進藤にはそうじゃなかった。
分かっているのに、素直に納得しようとしない自分もいて、心がずしりと重たくなる。

謝ればいいのに。
でも、謝れない。
だって、ボクだけじゃない、進藤だって。
そうじゃないだろう、ボク「も」だろう?

「どうしようもないな‥‥ボクは」

自己嫌悪に自嘲し、深く溜息をつく。



と、〈天使〉がふわり、と飛び立った。
小さな翼が、大きく羽ばたく。
〈天使〉はボクの目線と同じ高さまで浮かんで、にこりと微笑んだ。
無垢で、一点の曇りもない笑顔が、ボクの淀んだ心を浄化するかのようだった。
「え、なに────」
何かを言ったような気がした。
けれど問い直す間もなく。
〈天使〉は一つ大きく羽ばたくと、すーっ、と、ボクの胸の中へと入ってしまった。
「え?え、なに‥‥‥‥‥?」
ボクは慌てて、自分の胸元を覗いた。
穴もキズも何もなく、痛みもくすぐったさもない。
確かに、たった今、ここに〈天使〉が吸い込まれたはずなのに。
‥‥‥なんだったんだ、いったい。
わけが分からないまま、呆然と胸元を見つめていると、やがて〈天使〉がすーっ、と出てきた。
何の感触もないのに、視覚は「出てきた」と訴えるから、なんだか変な気分になる。
〈天使〉は、小さな腕に、なにやら光るものを抱えていた。
「‥‥それは、なんだい?」
〈天使〉はくすくすと、どこか悪戯っぽく笑って、それからくるりと背を向けた。
「えっ、ちょっと、どこへ行くんだ‥‥‥‥っ?!」
ボクは弾かれたように立ち上がって後を追った。
といっても、空飛ぶものを追い切れるはずもなく。
〈天使〉は薄く開いていた窓の隙間から外へ出て、青空へと昇っていった。
「どこへ行くんだ‥‥‥帰ってこいってば────!」
小さな〈天使〉は、またたくまに見えなくなってしまう。
ただ一度だけ、振り返ったような気がした。
「‥‥‥‥‥‥っ!」
ボクは名前を呼ぼうとして、その時ようやく、〈天使〉の名前を知らなかったことに気づいた。
「本当にダメだな、ボクは‥‥‥‥‥」
青空が、心に沁みるほど切なく、澄んで、ボクの目に映った。



それきり、〈天使〉は戻ってこなかった。
ほんの半日一緒にいただけの、不思議な生き物。
いなくなって悲しいかというとよく分からないけれど、でも、自分の中のどこかがぽっかりと空いてしまったような感覚が居座っている。
まだ勝負のついていない盤面。
ぼんやりと眺めながら、この先をつらつらと予想する。
この続きはどうなるんだろう。
ボクだったら、こう打つけれど、〈天使〉は?
────進藤は?

ふと、進藤と打ちたくなった。
無性に、進藤と打ちたいと思った。
けれどなぜか、ボクはその場から立つことができなかった。

簡単なことじゃないか、立って、進藤に電話をすればいいんだ。
だって進藤は「いる」んだから。
確かに、ボクと同じ世界、同じ時間の中に「いる」んだから。
進藤は、〈天使〉じゃない。

そうと分かっているのに。
なぜ、ボクは立てないんだろう。

「アキラさん」
母が顔を覗かせた。
「アキラさん、電話よ。進藤君から」
「進藤‥‥‥?」
ボクは弾かれたように立ち上がっていた。

「‥‥‥‥進藤?」
受話器を耳に当てて、その向こうにいるはずの彼に呼びかける。
聞こえてきたのは、すこしぶっきらぼうな────困惑したような彼の声だった。
『塔矢‥‥あのさ、今からもう一度、打てねぇかな』
それは、誰と?
『おまえんちの碁会所でいいから‥‥その、どうかな』
「誰と?」
『誰?』
「ボクと?それとも‥‥‥saiと?」
『‥‥‥‥‥‥‥‥』
進藤が絶句する。
しばらく黙って待っていたけど、進藤はいつまでたっても答えようとしなかった。
たぶん、答えられないんだろう。
そう、たぶんまだ、混乱しているんだ。
まあ、ここで「saiと」と答えられても、もう打たせてあげることはできないんだけど。
ボクは一つ溜息をついて言った。
「キミとさっき打った相手なら、もういないよ」
『いないって‥‥‥』
「飛んでいってしまったんだ。それきり、戻ってこない」
『そうか‥‥‥‥』
進藤の溜息が、受話器を通して微かに聞こえる。
そのまま静かに待っていると、やがて進藤はささやくように言った。
『‥‥とにかく、会えねぇかな。その‥‥‥さっきは、怒鳴って悪かったから』
「進藤‥‥‥」
『おまえなら、saiを見つけたんだとしたら、オレんとこに持ってくるよな‥‥オレらに一番関わってたんだもんな、おまえ』
「進藤‥‥その────」
『なあ、会えねぇ?これから』
「行くよ。‥‥‥ボクも、ちょうどキミに会いたいと思ってた」
『そっか‥‥‥』
うん、と、ボクは返す。
電話の向こうの進藤が、ちょっとだけ笑ったような気がした。

碁会所のいつもの席で待っていると、10分ほどの差で進藤が現れた。
「よう」
不機嫌そうな顔────それが照れているせいなのだと、ボクには分かる。
「どうぞ」
対面を示すと、がたがたと椅子をひいて、進藤が腰を下ろした。
「打とうか」
「ああ」
ボクらはどちらからともなく碁笥を手にとった。

ボクは、ボクの意志のままに、石を打つ。
進藤と新しい一局を創りあげていく。

終局すると、進藤がホッとしたように吐息をついた。
その様子に、ボクも心の隙間が小さくなっていくような気がした。

「進藤は、saiと打ちたいと思うか?」
その問いに、進藤はんー、と軽く唸った。
「そりゃあ、打ちたいよ‥‥オレの今の力を試したいし」
「それだけ?」
進藤はまた唸る。今度は、ちょっと長めに。
それから、頬のあたりを指先で掻いた。
「たぶん、オレ、妬いてたんだと思う。おまえが、アイツの碁を知っていて、しかもオレには見えないにの見えるとか言うから、なんでおまえなのか、なんでオレじゃないのかって」
「本当にいたんだよ」
「うん、塔矢って嘘つけるほど器用じゃないもんな。信じてやるよ。感謝しろよ」
「何故キミに感謝しなければならないんだ」
「10cmの人間が碁を打ちました、しかも塔矢アキラより強いんです、なんて、誰が信じるんだよ。おまえがオレだったら‥‥」
ふと、進藤は言葉を切って、何かを企むように瞳を輝かせた。
「塔矢は、目に見えないものを信じられるのか?そう‥‥たとえば、いきなり強いヤツが現れてさ、『実は打ったのは自分じゃなくてユーレイだったんです』とか言われたらさ」
「なんだそれは」
「信じる?絶対おまえ、怒るだろ。『ふざけるなっ』とかってさ」
キヒヒヒ、と進藤は馬鹿にしたように笑う。
それがカチンときて、ボクは顔をしかめながら反論した。
「どうかな‥‥信じるかもしれないよ。時と場合によってはね」
「ウソ?!」
「‥‥なんだい、その顔」
そういう、珍獣に出会ったような驚き方をするんじゃない。

市河さんが持ってきてくれたコーヒーを手に、進藤が言った。
「ソイツ、オレが買ってった〈たまご〉から出てきたって言ってたよな」
「ああ」
なんだ、それ知ってたら自分のにしたのになあ、と進藤が言う。
「あ、なあ、ほかの〈たまご〉は?」
「普通に〈ニワトリ〉の〈たまご〉だったよ」
「よかったな、人間型の生き物、フライパンで焼いちまったらコワイもんなー」
「そうならないように、別の器で割って、ちゃんと確認したさ」
「全部?!」
「いや‥‥とりあえず、一緒にあった2個だけ‥‥」
でも、試したんだ、やっぱ塔矢らしー、などと言って、進藤はけたけたと笑った。

もう一局打つことになって、盤上の石を片づけている時、進藤がぽつりと言った。
「夢をさ、見たんだ」
「‥‥‥‥‥夢?」
「ああ。おまえが帰った後、オレベッドに潜り込んでそのまま寝ちゃったんだけどさ」
進藤の手がふと止まったのを見て、ボクは石から顔をあげた。
進藤は、石に目を落としたまま、やわらかな微笑を口元に浮かべていた。
「どんな夢だったんだ?」
そう促すと、進藤は視線をボクへと向けて、小さく笑った。
「そうだな‥‥オレが立っていたら、小さい、ビー玉くらいの光がふー、って飛んできてさ、オレの胸の中に吸い込まれるんだよ」
それって‥‥‥。
「なんか、やさしくて、あったかくて、すごく安心するっての?いらついてたのが、氷が溶けるみたいになくなって、そしたら‥‥そしたらさ」
進藤はへへへ、と照れたように笑った。
「塔矢は嫌がらせをしに来たんじゃなくて、オレのためにああいうことをしたんだろうなー、とか思えてきたんだ」
「当たり前だろう‥‥?」
「そうだな。方向性はともかく、気持ちだけはな」
「‥‥それについては、ボクも悪かった。キミの気持ちまで考えていなかった」
「いいよ、もう。っていうか、塔矢が謝るの、すげー恐ぇんだけど」
「なんだって?人がせっかく────」
「ほら、だから恐ぇんだってば!」
「キミが怒らせるからじゃないかっ!」

ボクの中から光るものを掬っていった〈天使〉。
光が胸に吸い込まれたという進藤。
きっと〈天使〉は、ボクが言えなかった気持ちを、進藤に届けてくれたんだろう。

進藤に吸い込まれた後、〈天使〉はどこへ行ったのだろう。
またどこかへ行ってしまった?
それとも、進藤の中にまだいるんだろうか。
進藤をずいぶんと気にしていたから、そのまま居座っているのかもしれないな。
複雑な気分だけれど、それならそれで、いいのかもしれない。

「ほら。打つぞ」
「あ‥‥お、おうっ、望むところだ!」

だって、進藤はボクの────。

「‥‥‥‥‥塔矢、何笑ってんだよ」
「笑ってないよ」
「‥‥‥だから、それが恐ぇんだよ‥‥‥‥」

「お願いします」
「お願いします」

進藤の気が、棋士のそれへととってかわる。

ボクも、すっと心を切り替えた。



2003.12.21