たまごの誕生日



東の空高く、オリオンの三つ星が輝く頃。
ヒカルが塔矢家を訪れると、入れ違いに市河が帰っていくところだった。
「あら進藤君じゃない。どうしたの？」
「その‥‥‥塔矢に〈たまご〉持ってきた」
誕生日だから‥‥とは言いづらくて、口ごもりながらそう答えると、彼女はヒカルが手に提げたビニール袋に指先をかけて、中を覗き込んだ。
「本当。ずいぶんきれいな〈たまご〉ね。これ、いい〈たまご〉でしょう？」
「‥‥よく分かんないけど、これ売ってたおばちゃんちの地鶏が今日産んだって言ってた」
「そうなの？進藤君って、みかけによらずロマンチストなのね」
意外そうにそう言って、市河はくすくすと笑った。
‥‥誰が「ろまんちすと」だって？？
わけが分からず眉を寄せたヒカルに、市河は笑いながら鞄の中から金色のリボンを取りだして、ビニール袋の口に結んだ。
「でも、このくらいはしてきなさいね。アキラ君のお誕生日なんだから」
「？？？」
ますます、わけが分からない。
安っぽいビニール袋と立派なリボンのちぐはぐさを見比べるヒカルの肩を軽くたたいて、「じゃあね」と市河はほがらかに帰っていった。
そこへ、玄関先で話していたのが聞こえたのだろう、中からアキラが顔を覗かせた。
「どうした、進藤？」
「いや、どうもこうも‥‥‥‥」
ヒカルは肩越しに道路の方を振り返る。

藍の空に、三つ星が輝いている。
どこか遠くの家で、犬が吠えていた。




「────なんで、〈たまご〉買ってくると『ロマンチスト』になるんだろう？」
「そりゃ、相手が誕生日だからだろう。卵は〈誕生〉の象徴だからな」
ヒカルの素朴な疑問に、緒方があっさりと答える。
緒方の顔は微かに赤らんでいて、どこか機嫌がよさそうだった。
きっと今まで、さんざん飲んでいたのだろう。
居間には茹で蛸状態の芦原もいたが、元名人の姿はなかった。
少し前に、元後援会の知人らにひっぱっていかれたとのことだった。
芦原が言った。
「でも進藤君、なんで〈たまご〉なんて買ってきたんだい？」
「塔矢が電話よこして、〈たまご〉買ってこいって言ったんだよ」
「人聞きの悪い。キミが『今欲しいものはないか』って訊いてきたんだろ」
アキラが憮然とした顔で入ってくる。
手にしていた大きな盆をヒカルの前に置いて、自分もその傍に腰を下ろした。
「進藤、キミ、夕飯まだだろう」
「おう。なんか、すげぇご馳走」
「いちおう、誕生日だったからね」
「おめでとう」
「ありがとう」
横で緒方がクツクツと笑っていた。

「確かに、女の子は、『誕生日と同じ○○』って好きだよねぇ」
でもアキラは男の子だもんなあ、と芦原があっけらかんと笑う。
「でも、悪い気はしないだろう？」
「そうだね。とりあえず新鮮ってことだからね」
「‥‥おまえってホント、リアリストなのな」
芦原は「降参」と両手を上げて苦笑する。
アキラはふん、と一つ吐息をついた。
「だって。そもそも卵の産まれた日は〈誕生日〉じゃないでしょう？」
「え、そうなの？」
ヒカルが箸を手にしたままきょとんと顔をあげる。
アキラは当然だろうと言わんばかりの顔で、ヒカルを振り返った。
「〈たまご〉の中身なんて、受精卵からせいぜい何度か分割しただけの胚にすぎないんだ。そんな状態のものを『生まれた』と言えるか？」
「ああ‥‥そうか」
「人間にたとえるなら、〈雛〉が〈赤ん坊〉で、〈たまご〉は母親のお腹になるんだろうね」
「じゃあ、あの〈たまご〉のニワトリの誕生日が塔矢と同じなんじゃなくて、〈たまご〉の誕生日が塔矢と同じってことか」
「‥‥‥なんだって？」
「だからぁ、〈たまご〉のニワトリの雛が生まれる日はおまえの誕生日と違うけど、〈たまご〉が生まれたのは今日だから〈たまご〉の誕生日なんだって」
「進藤。世間一般に通じる日本語で話してくれないか」
「話してるだろ。なんで分かんねぇんだよ」
「分かるか！それで」
緒方がけたけたと大笑いした。

芦原が卓に頬杖をついて言った。
「ようするに進藤君は、〈ニワトリの誕生日〉じゃなくて〈たまごの誕生日〉って言いたいんだろう？」
「うん。ほら、芦原先生は分かってる」
「っ‥‥だからって一般的な解釈だと思うんじゃないっ」
ガツン、と言われて、ヒカルが叱られた小犬のように身をすくめる。
その様子に笑いながら、芦原が言った。
「〈たまごの誕生日〉かあ。アキラの〈たまごの誕生日〉はいつなんだろうなぁ」
「‥‥‥‥塔矢の〈たまごの誕生日〉？」
「‥‥‥‥ボクの？」
ヒカルとアキラは互いに顔を見合わせる。
「〈たまごの誕生日〉って‥‥人間だと‥‥‥‥なんなんだ？」
「何って‥‥‥〈たまご〉の中身は受精卵から始まるわけだから」
突然、緒方が、未成年組がギョッと振り返るほど高らかに笑いだした。
「なになになに、どうしたの、緒方先生?!」
「‥‥だから飲み過ぎだって言ったのに」
まん丸目玉と冷ややかに細められた瞳を前に、緒方は悪戯っぽく片頬をつり上げてみせた。
「受精卵のできた日がいつかってことだろう？簡単じゃないか。誕生日から２６６日前が、だいたいその日だ。まあ、ぴったり予定通りってことはまずないらしいがな」
「‥‥‥それって、つまり────」
「そりゃあ、ナニをした日ってことだろう。青少年」
「‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥っ！」
意味を察して、二人はたちまち緒方以上に真っ赤になる。
再び大笑いする緒方に、ヒカルはじりじりと体をずらし、アキラの傍らにちんまりと収まった。
「‥‥緒方先生、なんかヤラシイ」
「‥‥ずいぶんと詳しいですね、緒方さん」
「なんだ、このくらい常識だぞ？」
「緒方さんのような生活を送るなら、確かに常識でしょうね」
弟弟子の冷ややかな視線にも、緒方はおもしろそうに眼鏡の奥の瞳を細める。
脳天気な芦原の声が割って入った。
「それで？結局アキラの〈たまごの誕生日〉は、いつになるんだい？」
「芦原さん‥‥‥‥」
〈天然〉に〈酒〉が加わると、〈無敵〉になるらしい。
不覚にもたじろいだアキラを尻目に、緒方は軽く唸りながら視線を彷徨わせた。
「アキラ君の誕生日が１２月１４日だろう？その２６６日前‥‥だいたい９ヶ月マイナス７、８日ってところだから‥‥‥アキラ君、いつになる？」
「３月２３日か２４日ですね」
「え、３月７日じゃないのか？」
ヒカルの疑問に、アキラは渋い顔をさらに渋らせ、溜息混じりに卓上に残る水滴で数直線を描いて説明する。
「時間経過を考えるんだよ。９ヶ月前から戻るんだから‥‥ほら」
「ああ、そうか」
ふむふむとつぶやきながら、ヒカルは素直に頷く。
芦原が言った。
「そうかぁ、アキラの〈たまごの誕生日〉は、３月２３日かぁ」
「‥‥そのようだけど、それが何か？」
酒が入っていても、アキラの不穏な気配は感じたらしく、芦原はきょとん、とアキラを見つめる。
なるほど、と含み笑いしながらつぶやいたのは、緒方だった。
「何ですか、緒方さん」
「その日は確か、雪だった」
「‥‥‥そうなんですか？」
「ああ、それも時期外れの大雪で、俺は学校が休みで心底よかったと思ったんだ」
「それで？」
「肌寒いと人恋しいだろう？」
「‥‥‥‥‥‥‥」
固まったアキラの後方で、ヒカルが「緒方先生、ヤラシスギ〜」とつぶやく。
緒方の表情の変化にふと振り返ったアキラは、ヒカルを見て冷ややかに睨んだ。
「進藤‥‥キミの顔も、十分『ヤラシイ』と思うんだけどね」
ヒカルはどこかくすぐったそうに、にやにやと悪戯っぽく笑みを浮かべていた。

「そういう進藤はどうなんだ」
「オレ？」
突然回ってきた鉢に、ヒカルがぱちくりと目を瞬く。
アキラはさっさと頭の中で計算を始めた。
「キミは９月２０日だから‥‥‥‥１２月２８日か」
「でもオレ、生まれるの少し遅かったらしいぜ。生まれないから友達と映画の約束してたら、出かけに陣痛っての？きて、『あんたは昔から人の都合を考えない子だったのよね』って、よく言われた」
「なんだ、その性格は生まれつきなんだ」
「その性格って、どの性格だよ」
ヒカルに睨まれて、アキラはそらぞらしく肩をすくめてみせる。
と、突然、背後で拍手が鳴った。
弾かれるように振り返ると、緒方がしたり顔で手をたたいていた。
「進藤。おまえは〈クリスマスプレゼント〉だ。いや、めでたい」
「‥‥‥ハイ？」
「あ、そうか────」
予定日が早いなら、計算も変わる。
１２月２４日頃なら────まさに、〈クリスマス〉だ。
芦原が無邪気に笑いながら言った。
「立派な〈クリスマスプレゼント〉でよかったねぇ」
「‥‥芦原先生、恥ずかしいからやめてくんない？」
ヒカルがほんのり頬を染めてぶうとふくれる。
アキラは小さく吹き出した。


「もう、塔矢の誕生日なのに、なんでオレまで‥‥」
ぶちぶちとつぶやくヒカルに、「まあまあ」と芦原が宥める。
「いいじゃないか。二人とも、両親が愛し合ったからこそ生まれてきたんだから」
「芦原センセぇ‥‥‥」
トリハダたっちゃうよ、とヒカルは自分の体を抱きしめる。
アキラも思いきり顔を引きつらせる。
「よし‥‥！」
ふいに一声上げて、緒方がのそりと動いた。
「進藤、せっかく来たんだから、いいものを見せてやろう。見たいか？」
「っていうか、なに見せてくれるの？」
「今日はアキラ君の誕生日だからな。アキラ君の赤ん坊だった頃のビデオだ」
「えっ、ウソ、見たい見たい！」
「ちょっと、緒方さん?!」
アキラがあわてて身をのりだした。
「やめてください‥‥というより、何故そんなものを持ってるんですか?!」
「何を言うんだ。小さい頃、よく撮ってやったじゃないか。俺は碁の勉強をするために来ていたというのに、そのたびに当時は高級品だったビデオカメラを師匠手ずから渡されて、撮影を強要されたんだぞ。しかもお礼にと、俺はコピーをもらった」
「だからって、ここで見ることはないでしょうっ」
「じゃあ何か？アレを俺はマンションの部屋で一人で見るのか？それはそれで問題があると思わないか」
「緒方センセー、ヘンタイだ〜、ヘンタイだ〜」
「進藤っ、キミは黙ってろっ！」
アキラは背後を振り返って怒鳴りつける。
緒方が弾んだ声で言った。
「いいじゃないか。かわいかったんだから。それとも、ライバルには見せたくないか？」
「えー、オレ見たい」
「だからキミは黙ってろ！」
緒方はからからと笑いながら、ふらりと立ち上がった。
「進藤。アキラ君を押さえてろ」
「ラジャ」
答えるなり、ヒカルはアキラを背後からがっちりと羽交い締めにした。
「うわっ、放せ‥‥‥っ、進藤！」
「やだよー。オレ、ビデオ見たいもん」
「キミはボクと打つために来たんだろう?!」
「そうだけど、ビデオ見てからだっていいじゃん？」
芦原が頬杖の上から「本当に二人とも仲がいいねぇ」と、にこにこ顔で眺めている。
ハハハハ、と実に楽しげに笑いながら、緒方が部屋を出ていった。
「ちょ────進藤っっ!!!」






冬の王者オリオンは、澄んだ夜空の高いところから、静かに様子を見守っていた。

賑やかに、楽しげに────人の声は微かに、その屋敷から洩れて風にのる。



道の向こうから、屋敷の主人がゆっくりと戻ってきた。
2003.12.14