元気のミナモト |
「おかえりなさい、ヒカル。ごはん用意できてるわよ────」 「いらない。疲れたから、もう寝る」 「え、でもヒカル‥‥‥」 お母さんが戸惑うように呼び止めてきたけれど、敢えて振り返らず階段を昇ってしまう。 「ちょっと、ヒカル、今日は────」 でももう、返事をするのも億劫で、オレはそのまま部屋に入り、戸を閉めてしまった。 そうするとお母さんはたいてい諦める。 今日もしばらくしたら、階段の下からスリッパの足音が遠ざかっていくのが聞こえた。 肩にかけていたリュックを部屋の隅に放り出すと、オレはそのままベッドに倒れ込んだ。 倒れた勢いで、体の内にたまっていた空気が、鼻と口から一気に外へと吐き出された。 「あー‥‥‥‥‥‥疲れた‥‥‥‥‥‥‥」 体が、重い。 もう1ミリも動きたくなかった。 けれど、うつぶせのままというのも、胸は圧迫されるわ鼻と口はふさがれるわでなかなか苦しい。 仕方なく、ごろりと仰向けに体をひっくり返した。 解放された口から、また深くて長い溜息が流れ出した。 これほど疲れた対局は、久しぶりだった。 相手は、緒方精二。 緒方さん。塔矢門下の、三冠のトップ棋士だ。 明らかに格上の相手ではあったけれど、100%絶対に勝てない相手では、もうない。 だから、ものすごく頑張った。 「頑張った」んだと思う。 「頑張った」という意識がないほどに、集中していたから、たぶん。 記憶に鮮明なのは、榧の木肌に刻まれた十九路だけだ。 それから、少しずつ形を成していく、白黒模様。 先の先を、何種類もの可能性を予測し、その中から、考えつく限りの最善の手を求めた。 思えば、碁笥から石を運んだ記憶も、曖昧だ。 記録係がいたはずだけど、どんな人だったか思い出せないし、時計係の声も記憶になかった。 対面にいたはずの緒方さんがどうだったかさえ、覚えていない。 あの清廉とした空気の中で、オレはただ、石の流れだけを追っていた。 終始、思考はクリアだった。 自分でも調子がいいと思えるほど、心が沸き立っていた。 それが終局したとたん、怒濤のような激しい疲労感に替わった。 まるで、いきなり重力が増したんじゃないかと思えるほどの怠さで、自分でも驚きだった。 全然体を動かさなくても、動けなくなるほど疲れることがあるのかと、妙な感心すらしてしまった。 学校へ行っていた頃のテストの時だって、これほど頭を使ったことはなかっただろう。 とにかく怠くて、しばらくは話しかけられてもすぐには反応できなかったほどだった。 検討の段になっても、オレは気が抜けたような状態だったし、緒方さんも渋い顔してさっさと帰りたがっていたから、結局、お互い感想だけ言ってその場はおひらきとなった。 他ならない緒方さんとの対局だから、検討したい気は山々だったんだけれど、そこまでの気力はもうなくて、やむなくそれを受け入れたんだった。 そういえば、塔矢が対局を見に来ていたっけ。 来ていたなら感想の一言も言っていけばいいのに、珍しくアイツは何も言わなかった。 そう、ただ、眉根を寄せたやけに怖い顔で、オレのことを睨んでいた。 何か言いたそうにはしていたんだ。 口を開いては、躊躇するように固まって、でもまた唇を引き結ぶ。 そのくせずっと傍にいて、エレベーターを待っている間もそうだったから、 「‥‥‥‥なんだよ?」 って話をふったのに、 「‥‥‥‥別に」 とか言いやがる。 「別に」なんでもないヤツが、こんなきっつい目つきでガンとばすかっての。 でもこの時のオレは、もうそれ以上言い返すのも億劫だったから、さっさと反論するのを諦めてしまった。 今思えば、一言くらいどうだったか聞きたかったなと思う。 だって、けっこう会心の一局だったんだ。オレとしては。 塔矢はそのあとも、むっつりと押し黙ったまま、並んでついてきた。 電車の中でも、さっさと座った俺の前に黙って立っていた。 でも、駅に着いたらあっさり「じゃあ」と別れて行ってしまった。 なんだったんだろうと、あまりの淡泊さに、思わず拍子抜けしたくらいだ。 結局最後まで、アイツは碁会所にも自宅にも誘ってはこなかった。 なんとなく、物足りなかった。 でも一方で、ヘロヘロだったオレは誘われなかったことに、ほんの僅かだけど、ホッともしていた。 そのくらい、疲れていたんだ。 首だけで支えるのがやっとだってくらい頭は重くてグラグラしていたし、肩からぶら下がった二の腕も外せるものなら外したいと思えるほど重く感じていた。 早く帰って横になりたかった。 塔矢と検討したい気ももちろんあった。それは嘘じゃない。 でも、休みたいというのも、本音だった。 「ま‥‥‥検討はいつでもできるから‥‥‥‥さー‥‥‥‥‥」 自分のベッドに瞳を閉じて仰向けに転がったまま、オレは微かに唇を動かす。 声を出すだけでもどっと疲れるから、後半は吐息に紛れてしまった。 だるい。 体が、重い。 寝転がって投げ出した手や足の指先が、まるで砂のように徐々に崩れていき、霧となって大気に立ちのぼり溶けていくような感じがする。 じんわり、と末端部分に染み入るような痺れが、さざ波のように広がった。 なのに、脳だけは未だに興奮状態にあるらしくて、疲れているのに、眠れない。 仰向けのままでいるというのも疲れた体にはそれなりに負担もあるのか、妙に背中が痛くて、仕方なく寝返りを打った。 窓に背を向け、二の腕を力なく投げ出してみた。 「うー‥‥‥‥‥‥‥‥」 溜息に軽い唸り声が混じる。 なんだか、たぷたぷの脳味噌が、下にした耳の穴からとろとろと流れ出していくような感じがした。 眠れなくてふと僅かに瞼を持ち上げると、ぼんやりとぼやけた視界に碁盤が映った。 大切な、大切な、桂の碁盤。 十九路の上には、二つの碁笥が載っている。 なんだか、頬が緩んでしまった。 この碁盤を見ていると、がちがちに固まっていた心がゆっくりとほどけていくような心地になる。 いつも、そうだ。 余所で打つ時は、ぴんと張りつめたような気持ちになるのに、この碁盤だけは、凪いだ湖面のように穏やかで、クリアな心にしてくれる。 この碁盤から、オレは棋士への道を歩き出した。 佐為と打った碁盤。 佐為とは、もう何百局と打っただろう。 対面にはいつも、佐為の白くて綺麗な顔があった。 その顔は、時に微笑み、時に引き締まり、そして時には喜び、はしゃいでいた。 そんな彼から、オレは本当にたくさんのことを教えてもらった。 佐為がいたから、今のオレがあるんだ。 オレは横向きに寝転がったまま、ただその碁盤を眺めていた。 ピクリとも動かず、ぼんやりとそれだけを見つめていた。 体が、重い。 それでも碁盤を見ていると、心だけはずいぶんと楽になった。 突然、リュックの中から、ブーゥン…と鈍い振動音が聞こえてきた。 マナーモードの振動音も、暗い閉め切った室内だとその音はやけに耳に響くんだと、新発見に感心しつつ、動けない。 そのまま放っておいたら、たいして鳴りもしない内に、音は途絶えてしまった。着信ではなく、メールだったのかもしれない。 シンと静まりかえった中でマグロ状態でいること、数分。 眠りたいけれど、これまでの眠れなさに加えて今度は携帯の着信が気になって、よけい眠れない。 結局無理に眠ることを諦めて、オレは這いずるように体をずらして腕を伸ばし、リュックを引き寄せ、中から件の物を探り出した。 Eメール着信の表示がある。 寝転がったまま『受信ボックス』を開いて、思わず「うわ‥‥」とつぶやいてしまった。 新規受信件数、8件。 どちらかというと連絡は電話か直接会った時に済ませてしまうほうなので、日に入るメールの数は1件あるかないかだ。 それが、8件。 誰だろう、と開いていって、オレは納得した。 ああ、そうか。 今日、誕生日だったんだ────。 メールはどれも、『誕生日おめでとう』とか『Happy Birthday!』の言葉で始まっていた。 1件目は、あかりだ。 その後は、和谷や伊角さん、それから、碁でつながった人達。 頬が緩んだ。 大切な、大切な、仲間達。 かけがえのない出会いの結実。 元を辿れば、佐為が囲碁と一緒にオレにくれた、大切な大切な『宝』。 床の碁盤に目を向ける。 ひっそりと沈黙を守るその前には、もうアイツの姿はない。 それでも。 「‥‥今なら‥‥オレ、オマエといい勝負ができると思うぜ‥‥‥‥‥‥」 寝転がったまま、ささやきかける。 答えはもちろん、ない。 でもなんだかオレには、空気が「微笑った」ような気がした。 ふんわりほころび、ぽかぽか温かくなった心が、そう感じさせたのかもしれない。 メールを順に見ていって、最後の────ついさっき入ったものを見たとたん、オレは思いきり吹き出してしまった。 別に、吹き出すほどおかしな内容だったわけじゃない。 なんでそんなに笑えたのか自分でも不思議なくらい、ごく普通の内容だったんだけど、でもこの時のオレはなんだか無性に笑えて仕方がなくて、携帯を持たない片手で体を抱えてヒーヒー笑った。 疲れすぎていて、脳がイカれてたのかもしれない。 それは、塔矢アキラからだった。 非常に明快かつ簡潔に、たった二言。 律儀なアイツのことだから、きっと俺が帰り着く時間を狙ってメールをよこしたに違いない。 今にして思えば、今日のアイツの仏頂面は、オレの様子を心配していた顔だったんだろうと分かる。 げっそりしていたんだろうオレの顔を見てアイツなりに気を遣い、だから無理に検討しようともしないで、碁会所にも誘ったりもしなかったんだろう。 ヘンなヤツ。 オレはまだおさまらない笑いを抱えたまま、体を起こした。 ベッドに腰掛けると、疲れがじんわりと頭の先から足のほうへ伝い落ちていくような感覚に囚われた。 頭をぐるりと一周。 天井に向かって一息吐き出したら、ずいぶんと楽になったような気がした。 「‥‥‥‥よしっ」 勢いよく立ち上がり、両手を組んで頭上に伸ばした。 体を伸ばしながらうつむくと、足下に碁盤が見えた。 オマエ、とんでもないものをオレにくれたよな。 オレは手にしていた携帯をベッドの上に放り出し、部屋の外へ出た。 階下へと声をかける。 「お母さん、何か食べる物ある────?」 きっとオレの好物がたくさんあるんだろう。そんな匂いがする。 ────ちゃんと食べて、早く寝ろ。それから、誕生日おめでとう。 オレは勢いよく、階段を駆け下りた。 |
2003.9.21 |