昇　　段


水曜日。
日本棋院に低段のプロ棋士が集まってくる。

「オレ、今日勝てたら三段に昇段なんだ」
対局前に出会った和谷は、ヒカルの目から見ても十分に気合いが入っていた。
今日の和谷の相手は、初段者だから、勝つ確率は高い。
よい意味での気合いの入り方で、緊張もなさそうだから、きっと決めてみせるだろう。
隣で、秋の初めに早々と二段に昇段を決めた伊角が苦笑していた。
この二人は、プロになってからも相変わらず仲がいい。
「初段だからって、甘く見るなよ。ひょっとしたら進藤みたいなヤツかもしれないぞ」
「伊角さん、それはないって。大手合い真っ盛りの春・夏続けて手合いサボるバカなプロ棋士が、進藤以外にいると思う？」
「そうだな。いるわけないよな」
「ひっでー。二人して」
ヒカルはほんの少し大人びた顔を、以前のようにプウとふくらませてみせる。


手合いの開始時間まで、まだ少し時間があった。
三人は大広間に入っていく人の邪魔にならないよう、片隅に寄った。

「いいよなあ、昇段」
チェッ、と舌打ちしながら、ヒカルがぼやいた。
和谷が軽くヒカルの頭をこづいた。
「しょーがねーだろ。あれだけ不戦敗続けたんだ。自業自得だ」
「そーだけどさあ」
いつになったら高段者といっぱい打てるようになるんだよオレ、なんてことを、ヒカルはぶちぶちとつけ加える。
「だいたいさあ、昇段って、大手合で勝てばいいんだろ？何回勝てばいいんだよ」
「そりゃ、負けた回数にもよるだろ。相手の段位にもよるし」
「ううう、早く昇段してー。塔矢なんかもう四段だぜ。冴木さんと一緒だぜ」
「冴木さんはもうすぐ五段だよ！四段なりたてのヤツと一緒にするな」
和谷がまたヒカルをこづいた。
ヒカルは恨めしそうに「うー」と唸った。
「でも進藤だって、いくらなんでも、そろそろ昇段できるんじゃないか？」
なだめるのは伊角だ。
「ほんとっ？」
「あ、いや‥‥そうじゃないのか？」
「そんなの知らないよ。でも、不戦敗を除けば、オレ、大手合いは一度も負けてないんだぜ」



「一度も、負けてない？」



「‥‥‥‥進藤」
伊角がひとつ軽く咳払いをた。
「なに、伊角さん？」
「‥‥去年から、大手合に一度も負けてないってのは本当か」
「うん。森下先生とやった時は負けたけど」
「あれは大手合いじゃないだろう！」
和谷が怒鳴る。
首を縮めながら、怒鳴るタイミングがなんだか森下先生に似てきたよなあ、とヒカルは思う。
「和谷、今は進藤の昇段の話だから」
伊角に軽く腕を引っ張られ、和谷は渋々口をつぐんだ。
「進藤、それだけ勝っているなら、昇段点はクリアしているんじゃないのか」
伊角の言葉に、ヒカルは軽く小首を傾げた。



「昇段点って、なに？」




「‥‥‥‥‥‥‥‥なんだって？」





「だからあ！昇段点って、何？！」




和谷と伊角は、まばたきせずにヒカルを見つめた。
正確には、何も「見て」はいなかった。
視界すべて、「ブラックアウト」状態だったからだ。


『昇段点』を知らない？
何でそんな奴が、プロになって北斗杯の選手になってるんだ？


「‥‥進藤。昇段の仕方って知ってるよな？」
「え？棋院から言われるんじゃないの？」
「‥‥‥‥‥‥‥‥」




和谷は、大きく息を吸い込んだ。
もちろん、吐き出すためだ。

「和谷？」







「この大バカヤロおおおおおぉぉぉーっっっ！！」







ゼィハァ、と、和谷は息をつく。

どうだ、まいったかこのやろう。

ヒカルは両手で耳を塞いでいた。
伊角は傍の机に突っ伏していた。
まわりにいた誰もが、見開いた目をこちらに向けていた。


「‥‥っだよ、いきなり大声出して！」
ヒカルが抗議すると、和谷は掌を手近な机に力いっぱいたたきつけた。
「まったく‥‥バカだバカだと思ってたけど、ホントこんなバカ、見たことねェ！」
「バカって何だよ、バカって！」
「うるせェ！バカだからバカって言ったんだ。昇段てのはなあっ――――」
「ちょっ、落ち着け和谷！」
どうどう、と伊角が割って入った。
「ほら和谷、そろそろ時間だ。その問題は後にしよう。おまえにだって大事な一局だろう、な？」
「‥‥‥‥‥‥‥っ！」
「ほら、進藤も。行こうぜ。話は終わってからだ」
「うん‥‥‥‥？」
納得がいかないといった顔の和谷と、何がなんだか分かっていないヒカルの背を同時に押して、伊角は対局場へと向かった。
「進藤、終わったら絶対待ってろよ。先帰ったらしょーちしねェからな」
「あ、ああ‥‥‥‥？」

伊角は深く深く溜め息をついたのだった。













対局後、ヒカルは二人に事務所へと連れて行かれた。
昇段の仕組みをひととおり聞かされたヒカルはひどくカルチャーショックに陥っていたので、引っ張っていくのは実に容易なことだった。


昇段は、規定の対局数における点数の平均によって決まる。
点数は、相手の段位、黒番か白番か、勝ったか負けたかによって異なる。また、各段位の規定対局数も、段位によって異なる。

そして、なにより。

「昇段は、自己申告制なんだよ。自分で計算して申告するんだ」

「け‥‥計算、すんの？オレが？」
「おまえがしないで誰がするんだよ！いいか、記録係のやり方覚えなくても、昇段点の計算くらいは覚えろ。オレはできるからな。いっとくけど」
「なんで和谷がこんなのできるんだよ？！」
「なんだとォっ！」
「だから、やめろって、二人とも！」



その後、事務所で昨年と今年の大手合いの組み合わせ表を手に入れた３人は、行きつけのファーストフード店へ移動し、同じく借りた電卓を傍らに初戦からの計算を開始した。
改めて見直してみると、ヒカルは不戦敗を含めて実に二十局以上の大手合いをこなしていた。
規定の十六局はゆうにクリアしていることになる。
幸いだったのは、ヒカルがすべての対局について自分が黒番か白番かを覚えていたということだ。
もっともヒカルが言うには、棋譜自体を覚えているからそれも当然らしい。
それが妙にシャクだったので、和谷はあえて無視したが。


「――――で、どうだった？」
ヒカルが伊角の手元をのぞき込む。
「おまえなあ、伊角さんにまかせっきりにしてないで、ちったあ自分でやれよ」
「オレがやったら、計算あわねーもん」
「そりゃそうだ」
「そこで納得されるのもなんか腹立つんだけど」
和谷は平然とした顔でハンバーガーにかぶりついた。
向かいに座る伊角が、苦笑いとともに手元のメモを滑らせてよこした。
「よかったな、進藤。昇段点クリアしてるぞ」
「ほんとっ？やったぜ！」
素直に喜ぶヒカルに、二人はやれやれと顔を見合わせた。
本当はもっと前の対局ですでにクリアしていたしていたんたけどな、とは、あえて言わなかった。


「んじゃ、進藤。棋院に申告に行くついでに、電卓返してこいよな」
「ああ、分かった」
うかれたヒカルは、早速とばかりに席を立った。
「進藤、もう行くのか？」
「ああ。アリガトな、和谷。伊角さん！」

ヒカルが店の外へ出ていくのを見送りながら、和谷がつぶやいた。
「‥‥あいつ、次の昇段、自分で申告できると思う？」
「う〜ん、二段から三段は最低十局だっけ？十連勝すれば計算しなくてすむな。いちおう」
「それはそれで腹立つな」
「でも和谷、その頃になったら進藤に声かけるだろう？」
「‥‥‥‥‥かけねェよ」
「どうかなあ」
そう言う伊角が、クスクスと笑う。
和谷は上目遣いに伊角をにらんでから、ジュースのストローをくわえた。










棋院に入ったところで、ヒカルはアキラとばったり出くわした。
「と、塔矢‥‥」
「進藤？」
アキラが小さく首を傾げると、肩の上で切りそろえた黒髪がさらりと揺れた。
「どうしたんだい、こんな時間に」
「え、ああ、昇段の申告に‥‥」
「昇段？昇段するの？」
「あ、ああ」
「それは、おめでとう」
ふわりと、アキラが微笑んだ。
対局の時とはえらい違いだ、とヒカルは思う。
でも、
「やっと二段か。進藤、いつまで初段やってるんだろうって心配してたんだ。キミ、勉強ニガテそうだから、ひょっとして昇段点に達しているのに計算できなくて気づいてないんじゃないかって」
アキラの辛辣さと勘のよさは相変わらずで、まさか「昇段の仕方すら知りませんでした」などとは、口が裂けても言えない、とヒカルは思った。
「そ‥‥‥‥そんなこと、あるわねーだろ」
さりげなく持っていた電卓を後ろ手に隠しながら、表面上は笑顔を取り繕う。
「じゃ、そーゆうことだから‥‥」
アキラに別れを告げてそそくさとエレベーターへと足を向けたヒカルに、背後からアキラが声をかけた。
「進藤。昇段の申告は、手合課だよ」
「分かった。サンキュ‥‥って？塔矢！」
あわててふりかえると、アキラは背を向けて出ていくところだった。
「‥‥‥‥‥‥バレてる？」
ヒカルは、エレベーターに乗る客に「キミ、のらないの？」と声をかけられるまで、その場に立ちつくしていたのだった。



一方。
「やっぱり進藤、昇段の仕組み、分かってなかったようだな」
アキラは夕暮れの中、駅への道を歩きながらそんなことを考えていた。
普通、大手合の平均点などはそのつど計算しているものだし、そうすれば次の一局で昇段できるかどうかの見当もつくというものだ。
けれどヒカルは、この日の対局を昼過ぎには終わらせていたはずなのに、もう暗くなろうという時間になって申告にやってきた。
対局前に和谷・伊角と一緒にいたこと。その時和谷が大騒ぎしていたこと（その他大勢の中に、アキラもいたのだ）。そしてさっき、ヒカルが事務用の電卓を持っていたこと。
それらを合わせれば、おおよそのことは見えてくる。

今年の大手合は、もう終わりだ。
来年の組み合わせ表をもらったら、進藤ヒカルの十局目に当たる相手をチェックしておこう。

ヒカルが負けるとは露ほどにも思っていないアキラは、まるでデートの約束を手帳に書き込むように、心に刻んだのだった。
2002.10.7



ええと‥‥‥。
昇段の仕組みについては、〈囲碁データベース〉様の〈利用ガイド〉に載せられていたものを参考にさせていただきました。
大手合って年間どのくらいあるのかとか（サイト様によって違うので）、昇段って自己申告しなければずっと初段のままなのかなとか、逆に嘘ついて申告したら昇段できちゃうのかなとか（イヤ、これはきっと調べられるんでしょうけれど）、とにかく一般人には謎が多いです。
『最強初段』のヒカルは、いつ昇段するのでしょうね。いっそ初段のままでタイトル戦リーグ入りとかしてくれたら、それはそれでおもしろいかな‥‥なんて。