青空と白いシャツ
	「あー‥‥進藤大センセイ？」 パチン 「んー‥‥何〜」 パチン 「なんっで俺ら、こんなトコでこんなコトしてるんでしょうかねぇ？」 パチン パチン 「いいじゃん。別に」 ほんの少し離れたところを、自転車が連れ立って通り過ぎていく。 「いいじゃん、って‥‥おまえな」 「だって天気いいし」 「天気良かったら野っ原でもどこでもＯＫかしかもご丁寧に『足つき碁盤』までわざわざ持ち出して？おまえが何考えてんだか分かんねぇよ俺は」 パチン 『足つき碁盤』の向こう側で、進藤ヒカル──見た目はただの、ちょっと女子受けしそうな一青年のくせして、実は知る人ぞ知る高段囲碁棋士──が、「ボクは人畜無害です」とでもいいたげな表情を傾ける。 パチン 「だってさあ、外で打ったら気持ちいいだろうな、って、思ったんだよ」 「‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥もういい」 風が、通り過ぎる。 カキーン、と小気味良い音が、土手下から高々と上がった光の点とともに、頭上の青空へと吸い込まれた。 和谷の携帯にヒカルから連絡が入ったのは、ちょうど12時頃だった。 「なあ、今、ヒマ？」 「あのな進藤、いきなり『ヒマ？』って訊くか。失礼だろ」 「え、じゃあ、えっと‥‥和谷、ヒマじゃない？」 「‥‥‥‥‥‥‥用件は」 「あのさ、一局打たないか」 そういうことなら、と、和谷は軽い気持ちで了承した。 もともとアパートで棋譜の整理をしていただけだし、午後になったら碁会所へでも行こうかと思っていたところだった。 「じゃあ、２時頃、棋院まで来てくれる？」 「ああ、分かった」 通話を切って、じゃあ昼飯を食って身支度する時間は十分あるな、と──その時はまだ、そんな呑気なことしか考えていなかったのだが。 だってまさか、いくらなんでも最終戦中の人間が、そんなとぼけた電話をしてくるなんて、思わないじゃないか。 ２時より５分ほど遅れて棋院に到着した和谷が、正面玄関に並ぶ対局表示の中にヒカルの名を見つけた時にどれほど愕然としたかなど、目の前のコイツにはきっと、想像もつかないに違いない。 パチン パチン パチン パチン 尻の下一面の緑を騒がせて、風が走る。 川の方へと向いたヒカルの色薄い前髪が跳ね上がり、日に透けてキラキラと輝いた。 盤上へと視線を戻した和谷は、軽く目を眇めた。 十九路が日差しを照り返すせいで眩しく、目に痛い。 白と黒の石が、まるで息づいているかのように、思い思いに光を放っていた。 少し考えて、そこに新たな石を加えた。 すると、音に反応するように、それまでぼんやりと遠くを見つめているようだったヒカルが、ぴくりと瞳を瞬いて振り返った。 そして盤を見下ろし、碁笥から石をつまみ上げて、迷わず一点を指した。 パチン その時、口元を『笑み』が掠めたのを、和谷は見逃さなかった。 それがどんな種類のものなのかは、分からない。 けれど少なくとも、満足はしているのだろう。そう、思う。 ヒカルは眺め渡すように盤上を一瞥し、また川の方へと向いてしまった。 片足は投げ出して、もう片方は膝を立てて、のんびりと瞳を眇める。 だからといって、ヒカルが適当に打っているかというと、そうではない。 それは、いつのまにか追い立てられ追い込まれている和谷自身が、嫌になるくらい分かっていた。 天衣無縫に、盤上で、跳んで、跳ねる、ヒカルの碁。 気を抜くと、どうにもならないくらいに振り回される。 それでも、ヒカルと打つのは、実は好きだった。 時に一緒になってはしゃぐような、時に研ぎ澄まされた空気の中に身を置くような。 対話するように、打てば返すようなやりとりは、対局の間中、常に先を期待させた。 新しい発見、垣間見えそうな未来が見えるような、ワクワクする心地。 たとえ一時振り回されようが、そのままではいない自信も、自分にはあった。 そう、いつもなら。 考えに考えて、一手を打つ。 パチン パチン ‥‥ああ、やっぱりだ。 盤上を睨み唸る合間に、ちら、と視線を上げる。 ヒカルは、穏やかな、どこか楽しげな微笑をたたえて、川の向こうを見つめている。 パチン パチン 和谷はとうとう、塊のような溜息を吐き出した。 返す手は、最初から手拍子だった。 早碁をしているわけではなかった。 なのにヒカルの一手は、本当に相手の手を見たのだろうかというくらい、速かった。 しかもこの打ち方で、どれもが絶妙なのだから、不思議を通り越して、気味が悪い。 「進藤、おまえ打つの、速くないか」 「そうかな‥‥あー‥‥そうかも」 「なんでそんなに速く打つんだよ。早碁じゃねぇだろ」 「別に、速く打ってるつもりはないんだけど」 ハハハ、と、戸惑いをにじませて、ヒカルが笑った。 「朝、起きた時にさ、外すっげぇ晴れてて、空が青いなあ、って思ったんだよな」 「‥‥話が見えねぇ」 「うーん、オレも関係あるかどうか分かんないけど、まあ朝から気分良かったんだよ。調子がいいの、そのせいかなって」 「‥‥まさか、最終戦もその調子で打ってたのか」 「どうかな‥‥ああでも、持ち時間はずいぶん余ってたかも。中押しだったから、なんとも言えないけど」 「‥‥‥‥‥で、勝ったのか」 「うん」 「‥‥‥‥‥‥」 十中八九、予想は外れていないだろうと、確信する。 大真面目な場でこんな打ち方をされたのでは、相手は多かれ少なかれ、さぞかしペースを狂わされるだろう。あの狡猾な桑原老や慣れている森下師匠ならともかく。 しかも隙が出るどころか、どの手も見事に外していないのだから。 冴木さんも気の毒に‥‥表示に書かれていた相手である兄弟子に、心の中で合掌する。 「和谷と２時に約束しただろ？だから、午後からは確かに、打ち方速かったかもな。あ、電話した時には２時頃終わりそうかなってところだったんだよ。でも、待たしたら悪いかな、と思ってさ」 「おい、まさかおまえ、冴木さんに俺と打つこと、言ったのか」 「言ったよ。じゃないと検討抜けられないもん」 あっけらかんととんでもないことを、ヒカルが言う。 「‥‥あれ、和谷、どうしたんだ？」 ──ごめん、冴木さん。俺のせいじゃないから。 和谷は片手で額を押さえ、がくりと肩を落とした。 「だってさあ、本当に調子がいいんだよ」 あいかわらずぽんぽんと手を返しながら、それでも自分の手番の合間に、言い訳がましくヒカルは言った。 「何て言うの？こう、そこだけしかない！って感じ？なんかやけに目立って見えて、で、考えてみると、やっぱそこしかないかな、って」 「考えているのか、いちおう」 「考えたり、考えなかったり？ていうか、予想ついてる時あるじゃん？ここに打ってくるだろうな、みたいなさ」 「うわ、むかつく」 「何が」 「おまえの予想通りのトコ打ってた自分が」 「そうじゃない時もあったよ。あるはずのトコになくて、あれっ、って探したりさ」 悪戯っぽく笑う、そんな顔は、出会った頃からまるで変わっていない。 「‥‥なあ」 「ん？」 「なんで俺だったんだ？」 「何が」 きょとん、とヒカルが瞳を瞬く。 和谷は胡座にかいた膝に頬杖をついて、一手を打った。 「おまえ、たいていこういう時って、塔矢に声かけるじゃん」 「韓国行ってていないよ。アイツ」 ヒカルが返事と一手を同時に返す。 ほー、と、心持ちやさぐれた気分で呟きながら、和谷は盤面を見つめた。 そんなことはない、という言葉を、自分はどこかで期待していたらしい。 ヒカルの返事は、「おまえは代わりだ」と言外に言っているようなものだ。そのことを、きっと当の本人は意識していないだろうが。 無意識だからこそ、おもしろくないのだ。 「和谷が塔矢の話ふるのって、珍しいな」 「オレだってしたかねぇよ。ついでに言うなら、塔矢門下とつるんでるおまえの方が、俺からしたらありえねぇし」 ヒカルがごまかすように、アハハ、と声を立てて笑った。 「和谷は塔矢、キライだもんなあ」 「キライなのは、塔矢門下。塔矢アキラ個人を嫌いってわけじゃねぇよ」 「‥‥へえ」 「すかしてるし態度でかいし偉そうだし何様だしおかっぱだけど。‥‥‥‥まあ、あの実力は、本物だからな」 「認めるんだ」 「‥‥そこまでガキじゃねぇよ」 くふん、とおかしそうに、ヒカルが笑みを広げる。 ヒカルは片手を後ろ手についてのけぞり、右手を空に高々と伸ばした。 広げた指の間から漏れる陽光に、瞳を細める。 微笑んでいるようだった。 「何やってるんだ」 「んー‥‥空がこぼれるなあ、って」 気の抜けた返事は、それでもやけにうれしそうで。 「空、ねぇ‥‥‥」 なんとなくつられるように、空を仰いでみた。 鮮やかな青空が、視界いっぱいに広がった。 少しだけ──本当に、少しだけだろうが──ヒカルの言葉の意味が理解できたような気がした。 傍らを、賑やかに小学生の一群が走っていく。 少し離れたところでは、家族連れだろうグループがバーベキューを囲んで盛り上がってる。 通り過ぎた自転車のフレームが、キラリと光を反射した。 和谷の携帯が軽やかに鳴ったのは、対局も佳境に入った頃だった。 伊角からだった。 「はい‥‥今？土手の上。え？さあ、進藤ん家の近くだと思うけど、俺も拉致られてきたからさ」 拉致ってないじゃん、と、ヒカルが心外そうな表情で振り返った。 「ちゃんとオウカガイはたてただろ。和谷、うんって言ったじゃん」 「問答無用で予想外の場所に連れてきたのはおまえだろ」 言い返すと、電話の向こうで「和谷？」と呼びかけられた。たぶんこの会話も聞こえていただろう。 「あ、ごめん‥‥うん、いるよ。‥‥ああ、うん、ヘイキ。一局打ったら戻るから。え？そう、打ってんの。そう、『土手』で」 土手、のトコロを強調してやると、そんなにヘンかなあ、と、ヒカルが大真面目につぶやいた。 「‥‥うん、分かった。じゃ」 ピ、と小さな音とともに通話を終えると、和谷は「さて」と、胡座にかいた脚を組み直した。 「進藤。こっから十秒碁にしようぜ」 「なんで」 オレはいいけど、と、さも不思議そうに首を傾げるのが、小憎らしい。 「みんな集まりそうだから、研究会やらないかってさ」 「どこで」 「駅前の居酒屋」 研究会、という名の飲み会なのは明白だ。 「オレも行っていい？」 「当たり前だろ」 答えてふと、そういえば、と思い返す。 伊角さん、進藤も一緒に、とは、言わなかったな── 「ようしっ、じゃ和谷、十秒碁な。いいか。カウント始めるぜ」 「げ、俺からだっけ」 「そうだよ」 ようい、と、高らかにヒカルが宣言する。 慌てて盤面に集中した和谷は、小さな疑問をすっかり頭の外へと放り出してしまった。 一手が十秒以内となると、足は速い。 それでも「調子がいい」というヒカルは、軽やかに盤を駆けめぐる。 負けずに対等に張り合いながらも、自分は全力疾走だというのに。 くやしい、とか、負けるものか、と感じる余裕もなかった。 それでも、気分は常になく高揚していた。 それはひどく、心地よかった。 あとはヨセを残すのみとなった頃だった。 「進藤」 頭上に降ったその声に顔を上げ、和谷はぎょっとした。 「‥‥塔矢!?」 傍らに立ち、僅かに腰をかがめて盤を覗き込んでいるのは、紛れもなく塔矢アキラその人だ。 仕事の現場から直接来たのだろう、スーツの上衣は腕にかけているものの、白いシャツにネクタイをきっちり締めていた。 見下ろしているせいで、綺麗に切りそろえた黒髪が、肩先からさらりとこぼれ落ちていた。 ああ、なるほど、と。 ふいに合点がいった。 先程の伊角の電話は、こういうことだったのか、と。 ヒカルを見れば、ただぽかん、とアキラを見上げている。 和谷は溜息を一つついて、言った。 「‥‥塔矢。おまえ、韓国行ってたんじゃなかったのかよ」 「お昼頃に飛行機が着いたんだ」 「急だな」 「本当は明日の予定だったんだけど、ボクでなくてもよさそうだったから」 「それだけ？」 「‥‥それだけだよ？」 さらりとそんなことを言う言葉の裏に、実はかなりの力業で踏み倒してきたんじゃないかと感じるのは、十中八九はずしていないだろう。 そして、嫌味なほど仕事に対して生真面目な彼がとった行動の、不思議さも。 「進藤に連絡しなかったのか」 「したよ。でも返事がなかったから」 ヒカルが慌ててズボンのポケットから携帯を引っぱり出す。あー、と情けない声を出したところを見ると、着歴は確かに残っていたのだろう。 「進藤、キミ、マナーモードにしたままだったろう」 「だって今日、手合いあったし」 ヒカルは視線を逸らせて、言い訳がましくつぶやいた。 それでもそれはいつものことなのだろう、アキラは気にするふうもなく、盤面を見下ろして言った。 「ああ‥‥綺麗な碁だね」 「俺の３目半負けだな」 「キミが黒？‥‥ああ、そうだね。ヨセで間違うことはないだろうし」 「‥‥まあな」 分かっていても、他人の口から言われると、癪に障るのだ。 和谷は石を集め出した。 「和谷」 「もう、いいだろ」 より分けて、黒石だけを手元の碁笥に流し込む。 やがてヒカルも、白石を集め始めた。 「まあ‥‥おもしろかったよ」 「和谷」 「たまにはいいな。こういうのも」 ヒカルが碁笥に蓋をしたのを見て、和谷は立ち上がった。 「んじゃ、俺、帰るわ」 「え──」 「伊角さんと約束してるし。あ、おまえは来なくていいぞ」 「あ、うん‥‥」 まだ戸惑っているのか、見上げるヒカルの瞳が揺れる。 ちょっとは迷うか否定するかしろよ、と、呆れつつ。 それでもこれも、進藤らしい、と、知らず苦笑が浮かんだ。 「よっと‥‥‥」 軽く気合いを口にして、和谷は立ち上がった。 そうしてふと、嫌味なほど涼やかに立つ男に、素朴な疑問を投げかけた。 「塔矢、よくここが分かったな。俺、『進藤ん家の近くの土手』としか言わなかったよな」 「少し探したけど、たぶんこのあたりかなとは思ったから」 困ったように微笑みながらも、相手はなんでもないことのように、そんなことを言った。 「キミこそ、疑問の核はそこなんだ」 「別に‥‥おおかた冴木さんあたりにでも聞いたんだろ。俺と一緒だろうってさ。俺よりは伊角さんの方がおまえは連絡とりやすいだろうし。不思議じゃねぇよ」 「なるほど」 面白そうな気配を視線に含ませて、アキラが微笑んだ。 「ありがとう」 「おまえに礼言われる筋合いはねぇよ」 そうだね、と微笑むその顔は、やっぱり気にくわない。 「じゃあな」 掌を軽く挙げると、アキラが気づいて同じように掌を掲げた。 パン、と軽く、触れ合わせた。 気にくわなくても腹立たしくても癪に障っても嫌味でも。 それでも、認めてはいるのだ。 「進藤」 アキラはヒカルの正面に腰を下ろした。 「打とうか」 ヒカルはゆっくりと振り返った。 見開いた瞳で、ただアキラを見つめる。 ──打ちましょう、ヒカル ああ、あの人も。 綺麗な笑顔で、そんなことを言った。 青空に、まぶしいほど『白』が映えた。 「塔矢」 「うん？」 「‥‥‥‥‥‥ううん」 ヒカルはゆるく頭を振った。 そしてそのまま、俯くように下げた。 「お願いします」 打とう、と言ってくれる。 打つ相手がいる。 それはどんなにか、幸せなこと。 「お願いします」 答えは、確かに返ってきた。 パチン── 風が吹く。 遙か対岸の家の上で、鯉のぼりが泳いでいる。 光溢れる十九路に、新しい足跡が刻まれた。
	2007.5.5