Airy　shine

「あれー、ヒカル！」 聞き馴染んだ明るい声に、ヒカルはふと足を止めた。 道の向こうから、幼なじみの少女が駈けてくる。 それは、もうずいぶんと幼いころから見慣れた光景。 短いスカートの裾が、走る足取りに合わせて翻る。 あかりの通う高校の制服。 彼女がその制服を着るのはもう二年目だというのに、やけにまぶしく思えて、ヒカルは目を細める。 軽く息を弾ませてやってきたあかりは、驚きのまじる笑顔で、ヒカルをのぞき込んだ。 「ヒカル、どうしたの、こんなところで」 小首を傾げるのにあわせて、肩より少し長い髪が、さらりと落ちる。 「コンビニ行ってきたんだよ」 ヒカルは、500mlペットボトルの入った白いビニール袋を軽くあげてみせた。 「ふぅん。今日は仕事なかったの？」 「まあな」 ヒカルが歩き出すと、あかりもその隣に並んだ。 オレンジ色の残光がつくる二人分の影が、反対側に従った。 「なんか、久しぶりだね。ヒカルに会うの」 あかりは弾むような足取りで、軽やかに隣を歩いた。 ヒカルは前を向いたまま、「そうだっけ？」と、返した。 それから、塀の上にネコを見つけて、「あ、ネコだ」と続けた。 中学の始めころまでは、あかりのほうがずっと背が高かった。 そしていつのまにか、ヒカルが追い越していた――――急激な心の成長に、引きずられたかのように。 それでも、二人の差はこぶし一つほど。 並ぶと、目線の高さはほとんど変わらない。 「そうだよ！ヒカル、手合いだ仕事だって、いっつも家にいないじゃない。この前会ったの、夏休みだよ」 「おまえだって、いっつも学校行ってていないじゃん」 「ええっ、ヒカル、私が学校行ってるときに休みだったの？いつ？」 「いつって、いつもだよ。わりと休みあるぜ、オレ」 「え〜、そうだったんだー」 ヒカルは前を向いたまま、小さく笑う。 仕事のない日は、確かにある。 けれど、同じ年、同じ段位の者達に比べれば、格段にスケジュールは詰まっている。 それでもヒカル的には、もっと休みが少なくてもよかった。 いっそ、なくてもよかった。 少しでも多く打って、少しでも早く、上へと昇らなければならないから。 「ヒカル、プロって楽しい？」 「は？」 「だって、お休みないほうがいいって顔してる」 「‥‥‥‥」 さすが、幼稚園からの幼なじみは、だてじゃない。 「あ〜あ、ヒカルってば、ほんと、囲碁にはまっちゃったね」 「‥‥‥‥まーな」 「小学校の時の先生、今のヒカル見たらびっくりするね。だって、あの、ふざけてばっかりいたずらばっかりで、クラスでいちばん先生に怒られてたあのヒカルが、一つのことをまじめにがんばってるんだもん」 「過去のハナシだろ、それはっ！」 あかりがクスクスと、楽しそうに笑う。 二人の道が分かれる以前、ヒカルはきっと一生分の人生の中で、最も鮮烈な『出会い』と、『別れ』を経験した。 状況は一変した。けれど、昔も、今も、自分はあいかわらず、自分本位に道を歩んでいる。 自分の道は、義務教育時代の友達のそれとは、すっかり遠ざかってしまった。 それは、あかりであっても同様で。 制服を着るあかりの隣に、同じように制服を着て並ぶことは、もうない。 それでも彼女は、幼いころと同じように、近くにいる。 怒鳴ったり、八つ当たりしたり、邪険にしたりしても。 不思議なことに、名まえのとおりの、くもりも影もない態度で、当然のようにそこにいる。 「そういえばさ、おまえ、駅前をオトコと歩いてただろ」 「えっ、やだ、ヒカル見てたの？！」 「なに、あれ、おまえの彼氏？」 「ちちち違うよっ！あれはっ、あの人はねっ、ただの先輩！友達の彼氏が、先輩の友達で、たまたま一緒になっただけなの！」 「なんだよ、なに慌ててんだよ。あー、さてはコクられた？」 「ヒカルぅ〜っ！」 あかりに怒鳴られて、ヒカルはケタケタと笑う。 「けっこうよさげだったじゃん。ＯＫすれば？」 「だから！なんでもないんだってば！ねえ！ヒカルってば聞いてる？」 「えっ、断ったのか。もったいねー。あかり、おまえそういうチャンスものにしないと、いつまでたっても彼氏できねーよ」 「ひっどーい！カノジョのいない囲碁バカのヒカルには、言われたくありません！」 あかりは、ベーッ、とかわいらしく舌をつきだしてみせる。 ヒカルは、あかりを振り返った。 「バカとはなんだよ、バカとは。オレだってなあ、ファンレターとか、山ほどもらってんだぞ」 「じゃあ、ヒカルはなんで彼女つくらないのよ」 「そりゃあ、鬱陶しいからに決まってんだろ。女に気ぃ使って時間使うなら、オレはその分碁を打つね」 「じゃあ、私は？」 ヒカルは、足を止めた。 ――――失言。すぐに気づいて、心の中で舌打ちする。 「私‥‥、鬱陶しかった？」 「‥‥あかりになんか、気ぃ使ったことねーよ」 再び歩き出す。 あかりが並んだ。 ヒカルは金の前髪を、あいた手で無造作にかきあげた。 「‥‥そうか、おまえ、女だったんだっけ」 「ひっどーいっ！ヒカル！私のこと、なんだと思ってるのよ」 「うーん、なんだろ‥‥‥‥空気、かな」 「く‥‥‥‥‥‥クウキ？」 「そう。空気」 いちばん身近にあって、気にならない存在。 傍にあるのが、当たり前な、それ。 あかりが、大きな瞳を、これ以上ないほど大きく見開いた。 「‥‥‥‥なんだよ」 「ヒカル」 「だから、なんだよ」 「空気はないと、死んじゃうよ」 ヒカルが理解したのは、たっぷり五つ数えた後だった。 「ちがっ、ちっげーよっっ！」 ヒカルは首から上を真っ赤にして怒鳴った。 「オレはただ、いても気にならないっていうか、いちいち考えたことない、みたいな‥‥っ！」 「なんだあ、そうなんだ」 あかりの満面に、笑みが広がった。 こぼれるような笑顔に、ヒカルは両手をバタバタと振った。 「ちょっと待て！あかり、オレは別に、おまえがすっ、す‥‥き、とか、言ってんじゃないからな！言ってねーからな！」 「分かってるよ。いいの。私も、同じだから」 「‥‥‥‥‥‥は？」 スタスタと、あかりはヒカルを置いて先へ行ってしまった。 ヒカルは呆然と、その背を見送る。 「‥‥‥‥同じ？」 幼なじみながら相手の考えがつかめないのは、ヒカル個人の資質のせいか。 がしがしと、乱暴な手つきで髪をかき混ぜる。 数十歩先で、あかりが振り返った。 「ヒカルー、家に帰ったら、一局打ってくれない？」 ――――鮮やかで、まぶしい笑顔。 あかりか囲碁か、と問われれば、ヒカルは間違いなく後者を選ぶだろう。 それは、決して譲れない、ヒカルの『我が儘』だ。 『彼』に手渡された、果てのない『我が儘』。 だからこそ、自分は死ぬまできっと、この『我が儘』を押し通す。 けれど、そんな『我が儘』のせいで。 たくさん心配させた。 たくさん怒らせた。 それは、きっとこれからも。 ――――そんな自分に、あの笑顔がいつまでも自分に向けられるよう、望む資格はない。 それでも、どんなヒカルも、無条件であかりは受け入れる。 黒も白も、ただ包み込んでいる、空気のように。 ――――だからこそ、あかりは、ヒカルにとっては『空気』なのだ。 もっともそれが、いつまでも続くものではない、ということを、ヒカルは知っている。 ――――永遠に続く、と思われた日々が、突然終わった、あの日から。 いつか、あかりはヒカルから離れていくかもしれない。 それを自分は止められないだろう。 けれど、なんだか無性に信じたくなるのだ。 この幼なじみは、どこに行っても、自分のことを気にかけてくれるだろう、と。 あかりの言う「同じ」が、願わくば自分と同じであってほしい。 「ヒカルーっ？」 あかりが呼ぶ。かすかにまじる、不安げな色。 ヒカルは、ゆっくりと歩き出した。 「‥‥おまえ、へぼだしなあー」 「これでも私、ちょっとは上達したんだよ。この前、囲碁部でほめられたんだ」 「ったく、しょうがねーなー」 少しずつ、距離が縮まる。 「何子置く？」 「ええと、ね‥‥九子、かな？」 「じゃ、それでちゃんとした碁にしてやるよ」 二つの影が、重なり合って、動き出した。