トップスター



「あらアキラ君。いらっしゃい」

いつもの碁会所。当然の居場所であるような、馴染みの場所。
扉を開けると、今でも馴染みの受付嬢が笑顔で迎えてくれる。

この日もそうだった。
「こんにちは。今日はどうだったの」
「うん、勝ったよ‥‥‥？」
ただ、いつものと違うのは、巨大なクリスマスツリーがカウンターのすぐ脇に出現していたことと、そのせいで彼女の笑顔が瞳だけしか覗いていなかったことだろう。

アキラは思わず戸口に立ちつくしてしまった。
「‥‥‥‥すごいね」
なにしろ、ずいぶん伸びたアキラの背丈よりもなお高く、その先は天井いっぱいまであるのだ。
あっけにとられてその場に立っていると、市河がようやく木の陰から姿を見せた。
「すごいでしょう」
「どうしたの、これ」
「北島さんがお知り合いからいただいたんですって。で、家に置けないからって、持ってきたの」
「へえ‥‥‥」
視線を転じると、奥のいつもの席に北島の背中を見つけた。
ありがとうございます、と声をかけると、背を向けたまま、片手を挙げるだけの答えが返ってきた。
「今、ちょうどいいところなのね。きっと」
向かいに座るやはり常連の広瀬が、人当たりの良い笑みで頷いてきた。その前で北島が盤面に体を乗り出しながら唸っている。
アキラは柔和な笑みを添えて軽く会釈を返した。
「アキラ君は、いつもの席でしょう？あとでコーヒー持っていくわね」
市河はカウンターの上に置いた箱から、金色の小さなベルを手に言った。
「今日は進藤君は来るの？」
「さあ‥‥どうかな」
「最近見ないわね」
「彼もあれでいろいろと忙しいから」
「約束とかすればいいのに」
「手合いの終わる時間なんて、その時々だからね」
「まあ‥‥そうかもしれないけれど」
どこか呆れたように微笑んで、市河はベルを枝の中程に引っかけ、また別のベルを手に取った。
「進藤君、来るといいわね」
「どうして」
「そんな顔してる」
そんな顔って、どんな顔だろう。
市河は悪戯っぽく笑って、ベルをまた別の場所へとひっかけた。
ツリーはもうずいぶんとたくさんのオーナメントで賑やかに飾り付けられていた。
箱の中には、僅かな小物と長くとぐろを巻いたモール、それからひときわ大きな金色の星が残るばかりだった。
「市河さん、これ、一人で飾りつけたの？」
「え？ええ、そうね。初めは北島さん達も手伝ってくれてたんだけど、５分で飽きちゃって、あの通り」
「大変だったでしょう」
「ちょっとね。でもけっこう楽しかったわ」
市河の唇から、軽やかな笑みがこぼれる。
「手伝うよ」
アキラは箱の中から残ったオーナメントを取り出した。
「ええっ、い、いいわよいいわよ。アキラ君は打ちに来たんでしょう」
「でも、家の店のことだし」
「いいのよ。ほら、もうあとちょっとだし。大丈夫」
「そう‥‥‥‥‥」
手に取ったメタリックカラーの玉だけ適当なところにひっかけて、じゃあ、とアキラは手を引いた。
ひょっとしたら飾りつけのバランスに、彼女なりのこだわりがあるのかもしれないと思ったからだ。
思えば小さい頃から、市河は碁会所のあらゆる部分を完璧に仕切ってみせていて、アキラに手伝わせるようなことはほとんどなかった。
「じゃあ、奥、借りるね」
「ええ。コーヒーはすぐがいい？それとも後で？」
「それが終わってからでいいよ」
分かった、と市河が頷いたのに微笑で返して、アキラはいつもの席へと向かった。






その声が聞こえてきたのは、それから30分もたたないうちだったろう。
「やっぱりてっぺんの星は、若先生につけてもらいたいなあ」
自分を指す言葉に、アキラは顔を上げた。
見れば立派に飾り立てられたツリーの前で、北島と広瀬、そして市河が話をしている。
「でも北島さん、アキラ君は打ちに来ているんだから」
「オレだって打ちに来たんだぞ」
「趣味の北島さんと一緒にしないでよ。アキラ君はプロ棋士なのよ。だいたい、危ないわ」
「いっちゃんだって、脚立で上の方やったんだろう。危ないもんか」
「でも、アキラ君は‥‥だって‥‥‥っ」
まあまあ、と広瀬が頼りなく間に入っている。
「どうしたんですか」
アキラが席を立って近づいていくと、三人は一斉にこちらを振り返った。
「アキラ君──」
「いやね、せっかく若先生がこうしているんだから、仕上げのてっぺんの星はやっぱり若先生がつけるべきじゃないかとね」
アキラはツリーのてっぺんを見上げた。
「確かに、女性では危ないですね」
「え、いや、そういう意味じゃあ──」
「いいですよ。ボクがつけましょう」
にこり、と微笑むと、困惑しきった北島の横腹を、市河が「どうするのよ」と小声で呟きながら肘でつついた。
広瀬がぎこちなく笑みを作った。
「アキラ君‥‥大丈夫かい」
「脚立を使えばすぐですよ。この中ではボクが一番背が高いですし」
「私だってこのくらい届くわよ」
「市河さんに危ないことはさせられないよ」
「いっちゃんいっちゃん」
顔が溶けてるぞ、と、瞳を丸くして固まった市河の横腹を、今度は北島が肘でつつく。
「まあでも、若先生に仕上げをやってもらえたってんなら、持ってきた甲斐があったってものさ。よろしくお願いしますよ」
「はい。まかせてください」
にこりと微笑んで、アキラは脚立を引き寄せた。

そう、たいしたことのない作業なのだ。
市河から渡された星を持って、脚立に登る。
てっぺんに括りつけて、降りる。
ただ、それだけのこと。

脚立の上に立って、背中を伸ばした──その時だった。



──‥‥。──‥‥。



微かな、けれど間違いようのないそのメロディを、アキラは聞き逃さなかった。

「えっ‥‥‥うわ──」
「アキラ君!?」






ふわ、と体が浮いた。






何が起こったのか、自分でもよく分からなかった。
何かにぶつかったような気もしたが、気のせいかもしれない。

‥‥‥‥ゥヤ、塔矢ッテバ

遠くで、自分を呼ぶ声。
それがついぞ聞かない、懐かしい声だと思ったのが、合図だった。

「塔矢。おい、起きろよ、塔矢」
「‥‥‥‥進藤？」

意識が晴れた。
そうして、弾かれたように体を起こした。
ずきん、と後頭部が響いて、思わず片手で押さえた。

顔をしかめると、舌足らずな「子どもの」声が、呆れたように言った。

「バッカだなあ。何やってんだよ、おまえ」

頭を押さえたまま、顔を傍らへと向ける。

そこに、『進藤ヒカル』が胡座をかいて座っていた。
やたら偉そうに、ふんぞり返って、アキラを「見上げて」いる。

「ドンくせぇのな。フツー落ちねぇよ。脚立からなんて」

「‥‥‥だって、キミが電話してきたんじゃないか」
「オレが電話？おまえに？」
「キミだよ。あの着信音は」
「そうなんだ」
「そうなんだよ」

そんなこと、ヒカルならとうに知っている。
けれど、この『ヒカル』は知らない。
知らなくても不思議はないだろう。

目の前の彼はどう見ても、「小学生の」進藤ヒカルなのだから。

あたりを見回してみた。
誰もいなかった。
誰もいない、けれどそこは確かに碁会所だった。
後ろに脚立が倒れて横たわっていた。
すぐ目の前には、あのクリスマスツリーがそびえ立っていた。
蛍光灯の明かりを受けて、金銀のオーナメントがキラキラと輝いていた。

アキラは『ヒカル』と向かい合うように、床の上に座り直した。
「ところで、進藤」
「何」
「なんでキミは、『子ども』なんだ」
「いいじゃん。別に」
あっけらかんと、『ヒカル』は答えた。
「‥‥‥いい、のか？」
「うん。いいのいいの」
キシシ、と白い歯を見せて、『ヒカル』が笑った。

なんだかよく分からない。
ただ、夢を見ているのだろう、と、漠然と思った。
でなければ、ヒカルが小学生の──出会った頃とちょうど同じくらいの姿であるはずがないのだ。

「なあ塔矢。それ。てっぺんにつけるんだろ」
「え‥‥」
細くてまだ柔らかそうな人差し指が、アキラの右手を指した。
手を開くと、あの金色の星が１つ、掌の上にあった。
でも前よりも、輝きが増しているような気がした──まるで自分から光を放っているかのように。
そんなはずはないと首を振ったら、やはりただのメッキの星で、不思議な感覚にアキラは数回瞬きをした。
「手伝ってやろうか」
大きな瞳をくるくると輝かせて、『ヒカル』が言った。
アキラは思わず、吹き出してしまった。
「なんで笑うんだよ」
ぷう、とふくれる様に、喉の奥からさらに笑いがこみ上げる。
だってそんなところは、大きなヒカルと変わらないから。
今にも手をあげてきそうな雰囲気に、アキラは「ごめん」とむりやり笑いを飲み込んだ。
「だってキミ、ボクよりずっと小さいじゃないか。その姿で手伝うって言われてもね」
「バカじゃん」
「え？」
「オレが小さいから、手伝ってやれるんだろ」
そう言うが早いか、『ヒカル』はさっと手を伸ばして、アキラの手から星を取り上げた。
ぽうん、と弾むように立ち上がり、空いた片手を大きく開いて差し出した。
「ほら。立って立って」
早く、と促されるままに立ち上がる。
立つと身長差は歴然だった。
「‥‥本当に小さいね」
「うるさいなぁっ」
また頬を膨らませる。
ダンダンと足を踏みならすほど怒っていたので、素直に謝っておいた。

懐かしさに頬が緩む。
そう、彼はこんなにも小さかった。
けれど、アキラは知っている。
この小さな子どもこそが、アキラの『道』への『入口』だった、ということを。

「ぼけっと立ってないで、ほら、しゃがんで」
「しゃがむって‥‥何故」
「オレを肩車するの」
「ああ、なるほど」
アキラは頷いて、その場に膝をついた。
「ほら」
首を下げて待っていると、『ヒカル』はためらいなくその首にまたがった。
両肩から下がった二の足は本当に細くて、握った掌が余るほどだった。
「いくよ」
下肢に力を込めて、一息に立ち上がった。
「軽いね」
「そりゃオレ、子どもだもん」
「なるほど。小さいから手伝える、か」
「ちゃんと支えてろよ」
「分かってる」

肩の上で伸び上がった『ヒカル』が、ワイヤーを使って星を括りつけていた。
「やっぱり不器用なんだ」
「やっぱりってなんだよ。シツレイだなあっ」
「暴れると落ちるよ」
「‥‥‥っ」
顔を赤くして悪戦苦闘する様を、アキラは下から覗き込むように見上げていた。
肩にかかる重みが心地よかった。
触れる感触が愛おしいとさえ感じた。
「三回巻きつけたら、根元でねじればいいんだよ」
「分かってるよ！」
「ねじるだけだって」
「ねじってんだろっ」
『ヒカル』の体が傾ぐ。
アキラは肩口にある剥き出しの膝小僧に掌を添えて力を込めた。



ツリーの先で、星が輝いていた。
「手伝いって言うなら、もう少し手際がいいとありがたいね」
「しつこいぞおまえっ。いいじゃん、ついたんだから」
肩の上で、『ヒカル』がわめいている。
アキラは膝を折って体を屈めた。
「ほら。降りろ」
小さな足が地に着いたのを見届けて、脚の間から頭を抜いた。
『ヒカル』はツリーを見上げていた。
「てっぺん、てさ。やっぱ、トクベツだよな」
「そうかな」
「塔矢だって、てっぺん狙ってるんだろ」
大きな丸い瞳の中で、細かな光が踊っている。
肩を並べるように、アキラは隣に立った。
「進藤だって、狙っているんだろう」
「そりゃあね」
とりあえず、だけどさ、ツリーから目を逸らさずに、『ヒカル」はそんなことをつけ加えた。
ふわりと表れた、悪戯っぽいような、不敵にも見える笑みが、アキラの目を強く惹きつけた。
「頂点のその先を、狙っているのか」
「う〜ん、そうとも違うんだけど」
「じゃあ、どういうことだ」
「う〜ん‥‥上手く言えないんだよなあ」
「悪かった。『進藤』に論理を期待したボクが間違っていたよ」
「‥‥おまえ、コトバが凶器になるって知ってる？」
『ヒカル』が上目遣いに睨んでくる。けれど姿が子どもなものだから、ちっとも威力はなくて、アキラは笑みがこぼれるのを堪えながら、肩をすくめてみせた。
「いいじゃないか。ボクもキミも、同じ頂点をめざしている。負ける気はないけどね」
「そうだけど。でもさあ‥‥う〜ん、なんていうか、さ」
『ヒカル』は目玉がこぼれ落ちるんじゃないかというくらいに、首を傾げた。

「あの星はさあ、塔矢がいたから、つけられたんだよ」

空の高いところで、星が輝いている。
「進藤」
「オレ一人じゃさ、届かなかったし。くやしいけどオレ、チビだからさ」
『ヒカル』の瞳の中で、無数の光が煌めいている。

「‥‥ボクもだよ」
「塔矢」
「あの星。ボクも一人ではつけられなかった」
「脚立から落ちなきゃつけられたんじゃん」
「いや、それはものの喩えだから」
大きな瞳にまっすぐに見つめられて、思わず苦笑してしまった。

確かに、脚立を使えば簡単だった。
落ちたのは、単なる自分の不注意だ。
けれどそれでも、もしもあの時、誰かに支えてもらっていたら？

「それに、どうせ同じことをするなら、脚立と並んで歩くより、誰かと一緒の方がモチベーションも上がるしね」
「モチ？塔矢、モチと歩くのか」
突然、『ヒカル』が弾けたように笑い出した。
目尻に涙まで溜めて。
きっと『塔矢アキラ』が、脚立とモチに挟まれて手をつないで歩いていく様子でも想像したに違いない。

なんでこんなのに人生変えられたんだろう、と思う。
それでも、『進藤ヒカル』と出会うまでの時間は、今となっては希薄なほど印象にない。
その先に続くはずの『道』も、ただ続いているだけのものだと思っていた。
けれど、ヒカルが扉を開いた。
扉の先に、お仕着せではない、アキラ自身の『道』が伸びていた。
道は平坦ではなく、苦しみ悩むこともあり、その分、それを越えた時の喜びも大きかった。
ああそうか、と、悟ったのはいつだっただろう。
『道』──『未知』を知る充実感。
そして幸運なことに、歩む自分は一人きりではなかった。

「進藤」
『ヒカル』はまだ笑い続けている。
「進藤。いいかげんにその馬鹿笑いをやめろ」
「だって‥‥だって塔矢が脚立とモチとお手てつないで‥‥‥っ」
「ふざけるなっ」

あんまり笑い続けるので、腹を抱えてくの字に折り曲げたその体に覆い被さってやった。
「うわああっ、なになに塔矢!?」
のしかかり、小さな体ごと抱きしめて口を塞ごうとすると、必死に顔を背けながらもケタケタ笑っていた。
癪だったので、脇腹を思いきりくすぐってやった。
「ウヒャヒャ‥‥と、塔矢‥‥っ、やめっ‥‥やめて‥‥っ」
なるほど、弱点は「大人」も「子ども」も変わらないらしい。
「降参する？」
「する‥‥するから‥‥‥っ」
腕の力を緩めてやると、『ヒカル』は転がるようにそこから離れた。
「あーもー、くすぐったかった」
なにがそんなにおかしいのか、それとも笑いが収まらなくなったのか、ヒカルはまだクツクツと喉を鳴らしていた。
「まったく‥‥」
腕を組んで仁王立ちに真上から見下ろすと、『ヒカル』は丸い瞳をさらに見開いて、それから一転、瞳を細めてニィと笑った。
本当に、悪びれないガキ大将だ。
フン、と鼻で吐息をついてから、アキラはその前に膝をついた。
「進藤」
目の高さを合わせて、言った。

「それでもボクは、てっぺんを譲る気はないよ」

『ヒカル』はきょとんとアキラを見つめて、また笑った。
「いいんじゃん。塔矢は塔矢で」
「キミに譲られる気もないし、ボクはボクの力で手にしてみせる」
「うん」
「‥‥でも」
「うん」
ヒカルが微笑む。
その笑みに促されるように、思いは簡単に口から滑り出た。
「でも、キミが同じ道を歩いているなら、ボクも迷うことはないと思う‥‥たどりつける。必ず」
「オレも、譲る気はねぇよ」
「キミに譲られたりしたら、ボクもおしまいだな」
「言うねえ」
さすが塔矢アキラ、と、『ヒカル』は楽しげに笑った。

「だから、進藤‥‥‥‥」
「だから？」









‥‥‥‥ゥヤ、塔矢ッテバ！



‥‥‥キロ、オキロ塔矢！塔矢ッテバ！オイ！



「‥‥‥‥‥‥‥‥あれ？」



ぱちぱち、と数回瞬きをする。
目の前には心配そうな顔がいくつも、隙間なく詰まっていて。
「塔矢！大丈夫か!?」
強く揺さぶられて、後頭部に鈍痛が走った。
「っ‥‥‥!?」
「ちょっと進藤君！揺すっちゃだめよ！」
その怒鳴り声がまた、頭の芯にズキズキ響いた。
「市河さん‥‥すみませんが、大声はちょっと‥‥」
「あっ、ごめんなさい‥‥っ」
慌てて口を押さえた彼女を、「ほらあ」と咎めた声の方へ、アキラは視線を向けた。
「進藤か‥‥」
「 ドンくせぇのな。フツー落ちねぇよ。脚立からなんて」
「‥‥大きくなったなあ」
「は？」
「いや、ずいぶんと立派になったものだと」
「だ‥‥ダイジョブか、おまえ‥‥‥」
絶句したヒカルが無性に可笑しくて、アキラはクツクツと笑った。

大きくても小さくても。
ああ、これは、『進藤ヒカル』だ。

「い‥‥市河さん、コイツやっぱおかしいよ‥‥」
「ど、どうしましょう‥‥救急車‥‥っ」
「いっちゃん、オレ、タクシー拾ってくるよ！」
「せ、先生に連絡した方がいいんですかねぇ」

なんだか皆がやけに慌てているのが、他人事のように感じた。
「あの、大丈夫ですから。皆さん」
床に手をついて、体を起こす。と、背中に自分のではない力が加わって、楽に起きあがることができた。それでようやく、自分がヒカルの腕の中にいたことを知った。
「大丈夫っておまえ‥‥頭だぞ。頭打ったんだろ」
「そうみたいだね」
「みたいだね、って‥‥おまえ、頭打ってパーになって碁が打てなくなったらどうすんだよ、おまえみたいな融通きかない碁バカな変人、どうしようもねぇぞ」
「‥‥キミ、さりげなくボクにケンカ売ってるだろう」
「ぇえっ!?や、そういうんじゃなくて‥‥だから、碁はおまえの唯一の取り柄なんだから‥‥っ」
「碁打ちがすべてキミと同じだと思うな」
アキラはヒカルの襟首の後ろをがしっと掴んで、おもむろに立ち上がった。
「お、おいっ、塔矢!?」
「ボクの頭がおかしいかどうか、試してみようじゃないか。市河さん、奥、使うよ」
「えっ、ええっ、あの、病院‥‥‥‥」
「必要なら後でいくらでも行くから」
ぴしりと切り捨てて、アキラはヒカルを掴んだまま追い立てた。
その体はもう「子ども」ではなかったから、引きずって連れていくことができなかったのだ。

「どうしましょう‥‥」
「いっちゃん、とりあえず医者は呼んどこうぜ」
外野のざわめきなど、幼少時から慣れっこだ。

「さあ、ニギるぞ」
「おい、塔矢」
「だいたい、キミのせいじゃないか」
「何が」
「キミが電話してこなければ、ボクは脚立から落ちることもなかった」
「って、オレのせいかよ!?」
まだ心配そうな表情のヒカルを後目に、アキラは碁笥の蓋を開け、中から碁石を掴みだした。
「まあでも、キミはボクと一緒にてっぺんまで行くのだろう？確かに、一人より二人の方が力は大きいだろうから、それについてはボクにも異論はない。しかし、さっきの星は譲ったが、今はそう変わらないからね。容赦はしないよ」
「‥‥おまえ、何言ってんのか、全然分かんねぇ」
なんだか泣きそうな声音でそんなことを言いながら、ヒカルはそれでも碁笥から石を一つ置いた。
石を数える。
「ボクが黒だ」
「なあ‥‥ホントに平気？」
「そのセリフ、勝ってから言うんだな」
「不戦勝になるんじゃないかって心配してんだろ」
「ふうん、勝つ気でいるんだ」
「っ‥‥だからぁっ」
「だから？」



──だから、進藤。



「‥‥そうか、続きを言いそびれてしまったな」
クツクツと、笑いがこぼれる。
「おまえっ、マジこえぇよ‥‥っ」
笑い続けるアキラにヒカルはあからさまにおびえた様子で、椅子の背もたれにしがみついた。

お願いします、と頭を下げる。
ヒカルも慌てて頭を下げた。



パチン



ツリーの天辺に、星が輝いていた。



パチン──



澄んだ音色が、確かに答えた。
2006.12.28