影踏み
〜明日〜



「か〜げふんだっ!」



鼓膜を平手打ちするかのような声と。
目の前を駆け抜けた突風と。
突然、ダンッと地面から伝わった力強い音に、アキラは弾かれたように振り返った。

通い慣れた、棋院の前の坂道。
けれどそこに、それらしい人物はいない。

と、後ろからあっけらかんとした声が投げかけられた。
「違う違う。こっちだって」
もう耳馴染んだその声を、聞き間違うはずもない。
ゆっくり頭をめぐらせれば、予想通り、そこに進藤ヒカルは立っていた。

その、まるで悪戯を仕掛けた小学生のような顔といったら。

「キミねぇ‥‥‥」
呆れて、アキラはこの背ばかり伸びた悪戯坊主を冷ややかに睨んだ。
けれどヒカルは、まるで気にしたふうもない。どこ吹く風といった様子だ。
それどころか、こんなことを言いだした。
「おまえ、1回負けな」
「は?」
「オレがおまえの影踏んだから、負けなの。影踏み、知ってるだろ」
「な‥‥」
唐突なのはいつものことだが、だからといって状況が飲み込めるわけでもない。
アキラはぐっと堪えて一息ついて、それからヒカルをまっすぐに見据えた。
「何故いきなり『影踏み』なんだ、キミが勝手にしているだけだろう」
「そう、オレが勝手にしているの。でもって、相手はおまえ。というわけで、塔矢、おまえの負け。オレの勝ち」
「ふざけるなっ!」
思わず出した怒声が、両側のビルに反響する。
が、ヒカルはその大きな瞳をさらに丸く見開いただけで、怖ぇなあ、と、どこか楽しげに、どこか困ったように笑うばかりだった。
「なあ、次、オニと逃げるの、どっちがいい?」
「‥‥勝手にしろ」
相手にすることはない、とアキラは無視をすることにした。
それでなくても、今日はあまりいい気分ではなかったのだ。
なのに。
いつの間に割り込んだのか、ヒカルが前を歩いていた。
それどころか、歩きながら何をしているかと思えば、
「踏んだ、踏んだ、踏んだ、踏んだ」
何度も何度も、繰り返し繰り返し。
アキラの影の『頭』を狙って、あからさまに土足で(当たり前だが)踏みつけているのだ。
「ほら踏んだ。27回目、28、29、30!塔矢、30回負けだぞ」
跳ねるように、踊るように。
それはもう、楽しげに。

‥‥別に、影を踏まれたところで、痛くもかゆくもない。
やりたいなら勝手にやらせておけばいいのだ。
なのにどうして、目の前で見せつけるように自分の影を踏まれると、こうも腹が立ってくるのだろう。
そしてまた明らかに、ヒカルはそれを分かってやっているのだ。
「塔矢ぁ、40回負けだぞー」
キシシ、と嫌な笑い方をして、そんなことを言うのだ。

突然、アキラはぴたりと足を止めた。
ほえ、と間抜けた顔をして、ヒカルが動きを止める。
その脇を、アキラは無言で通り過ぎた。
スタスタスタと靴音が、ビルの狭間でやけに響いて聞こえる。
視界の端でとらえたヒカルが、ぽかんと口を開いたまま通り過ぎるアキラを見送っている。
「えと‥‥‥‥塔矢?」
その、どこか困惑したような声が背中越しになったところで、アキラはぴたり、と止まった。
くるりと振り返ると、ヒカルがびくりと体を震わせた。
「と‥‥‥塔矢、さん‥‥‥?」
余裕の笑みがひきつったところを見ると、アキラのそれは彼にとって予想外のことだったのだろう。いい気味だ。
ほんの少しだけ胸が空いたけれど、それをおくびにも出さず鋭い眼光でまっすぐ見据えていたアキラは、おもむろに一転、ニコリと微笑んでみせた。
碁会所でも大人達にも受けのよい、優等生スマイル。
けれどヒカルには、それがなおさら恐ろしかったらしい。
すっかり笑顔を固まらせて視線をそらせずにいるらしいヒカルに、アキラは『天使の微笑み』を向けたまま、努めてやさしく呼びかけた。
「進藤」
「なっ、なに‥‥塔矢」
ああ、怯えている。
アキラは鼻先で軽く笑うと、やおら片足を持ち上げて、地面を踏んだ。
「ほら。キミの負けだ」
ぽかん、とヒカルがアキラを見つめている。
アキラはヒカルの影を繰り返し踏みつけてやった。

だって、腹が立つのだ。
性に合わないのだ。やられっぱなしも───落ち込むのも。

それを他ならない、進藤ヒカルに見抜かれていたのだろうことも。

何度目かの足を踏み下ろそうとした瞬間、ふいに今までそこにあった影が消えた。
顔を上げると、そこにいたヒカルがいない。
ただ空気が動いたのと視界の端で動くものをとらえて、半ば反射的に身を翻した。
「ちぇっ、残念」
声のしたほうへ顔を向ければ、ヒカルが笑っていた。
「塔矢のくせに、ナマイキ〜」
「馬鹿にするな。キミこそ見かけ倒しじゃないのか」
「なにおう」
言葉とは裏腹に、ますます楽しそうに───どこかうれしそうに、ヒカルは笑う。
「じゃ、そこの交差点まで勝負な」
ヒカルがくいっと親指で、坂の下を指し示した。
「オレが勝ったら、勝った分だけつきあえよ」
「何に」
「碁に決まってんだろ」
ヒカルが二本の指を伸ばして打つ真似をする。
当たり前のようなその仕草も、ほんの数年前まではまるで初心者だった。
いつの間にそれが「当たり前」となり、そして、塔矢アキラと並ぶまでになったのだろう。
よくもまあ偉そうに───思わず唇に笑みが浮かぶ。
「じゃあ、ボクが勝ったら?」
「おまえが勝った分だけ、オレがつきあう」
「同じじゃないか」
「違うと思うぜぇ?特に塔矢はさ」
「何が違う」
「勝ってつきあわせるのと、負けてつきあわされるの」
「なるほど」
それは確かに、大きな違いだ。
「んじゃ、さっそく」
ひょい、と動いたヒカルの足に、アキラは慌てて飛び退いた。
「ちぇっ、残念」
「きたないぞ、進藤!」
「先手必勝。ほら、いくぜ」
「させるかっ」
怒鳴り返したら、ヒカルがアハハハと、声をたてて笑った。

───今日のそれは、自分でも不本意な一局だった。
確かに相手はタイトル保持者だったけれど、勝てない相手でも勝てない勝負でもなかった。
自信はあった。いける、と思った。
けれど、崩れた。いや、崩されたのか。
だが崩れたのは自分自身。それはまぎれもない事実だ。
そして、そのまま流された。

何故崩れたのだろう。
どうして流されたのだろう。
そう、振り返るのは大事だ。
でも、振り返る目的を誤ってはいけない。

最優先目的は、「先へ進む」こと───。

ばたばたと坂道を駆け下りる。
「踏んだっ」
「踏んだぞ!」
じゃれあうように、道幅いっぱいに右往左往しながら走り抜ける。
走っていたら、不思議と気持ちが軽くなった。
そう、今日は今日。流れる時間の内の、ほんの一部。
そして進むべき「先」は、はるか先にある。

「先」があるかぎり、自分は走ることができるのだから。

「塔矢、走れ!青だ!」
突然、先を走っていたヒカルが声をあげた。
え、と顔を上げれば、歩行者用信号が点滅している。
「おい、進藤‥‥‥っ!」
「行くぞ!」
ヒカルが雑踏へと飛び込んでいく。

まったく、むちゃくちゃだ。
そう思いながらも、そういうヒカルがいることに安心している自分がいる。

坂道を下りきると、一気に視界がひらけた。
点滅する青信号。

「こら、進藤‥‥っ!」

アキラは交差点へと飛び込んだ。






2005.8.8