なんでもない日　おめでとう　




「オレと佐為が初めて会ったのって、いつだったっけ」



それはあまりにも唐突で、佐為は盤に向けて差し出そうとしていた扇をぴたりと止めて、まじまじと対面を見つめてしまった。
ヒカルはいつもと変わらない様子で、盤上を見つめている。
「‥‥‥‥なんですか、突然」
「いや、意味はないんだけど。なんとなく。そういえば、いつだったかなー、と思ってさ」
佐為は思わず微苦笑を浮かべてしまった。
「考えるより先に動く」質のヒカルが、突拍子もない言動をとるのは、そう珍しいことではなかったから、今さらたいして驚きも呆れもしない。
呆れたのは、いつの間にかそれに慣れてしまっている自分自身にだ。
「‥‥‥さて、いつのことでしたか」
淡く微笑んだまま、佐為は止めていた扇を動かして、十九路の一点を指し示した。
ジャッ、と碁笥の中で碁石がぶつかりあう音が、部屋に響く。
ヒカルはすらりと長い指先を、示された箇所へと伸ばし、パチン、と白石を打ち込んだ。
「確か、冬だったんだよな」
盤面をじっと見据えながら、ヒカルは言った。
「冬で‥‥‥‥２学期だっけ‥‥うん、２学期だった」
「２学期？」
「１２月頃だったような気がするんだけど‥‥佐為、覚えてない？」
「さあ‥‥‥あいにくと」
ふうん、と、鼻先でつぶやいて、ヒカルは黒石を打ち込んだ。
返すように、佐為の扇が別の一点を指し示した。


ジャッ


パチン


「なんだ。佐為も覚えてないんだ」
「あの状況下で、何月何日だと気にしろという方が無理というものでしょう」
少し呆れて抗議してみせると、ヒカルはあっさり「それもそうか」と、その大きな瞳を瞬かせた。

ヒカルが、黒石を置く。

扇の先が、まっすぐに一点を示す。

「でも、あの時のことは、よく覚えていますよ」
佐為は悪戯っぽく瞳を細めた。
「ヒカル、気絶したんですよね」
「うるさいなあ」
ヒカルは不満げに頬をふくらませて、佐為を睨む。
「しょーがねェだろっ、バカでかい幽霊がいきなり出てきて頭ん中でしゃべったんだぜ？フツー、碁盤からそんなのが出てくるなんて、思わないだろ！フツーは！」
「『ばかでかい』って、失礼な。ヒカルが小さいんでしょう」
「小さいって言うなっ。これから大きくなるんだよっ」
「ああ、気にしていたんですね」
「気にしてねェよっっ」
子犬が吠えるような物言いに、佐為はさえずるように笑う。

ヒカルが黒石を置いた。

パチン

煌々と照らす蛍光灯の明かりの下で、白黒の石一つひとつがまろやかに光る。
細く開けてある窓の隙間から、時折ひんやりとした夜風が舞い込み、ふわりとカーテンを揺らした。

「本当に、よく覚えているんですよ」
そう言いながら、佐為は盤上を指し示した。
ヒカルの指が、白石を置く。
「あの日、ヒカルの声が聞こえた時にね」
「うん？」
「嬉しかったんですよ。神に感謝して、でも、それでも足りないくらい、歓喜したんです。もう一度、碁を打つことができるのだ、と」
「‥‥碁が打てりゃ、なんでもいいのかよ」
おや、と佐為は、ヒカルを見つめ、ついで破顔した。
拗ねているのだ。たぶん、無意識に。
ヒカルが置いた黒石に答えて、佐為は扇の先を差し出しながら言った。
「そうですねぇ‥‥正直に言えば、あの時点ではそうだったかもしれませんね」
「じゃ、オレじゃなくたってよかったんじゃん」
「だってヒカル、意地悪なんですもの」
「オレが意地悪〜？」
ヒカルが不本意そうに声をとがらせる。
「おまえなんて、すっげェワガママじゃねェか」
「そうでなきゃ、ヒカル、打ってくれなかったじゃないですか」
ヒカルはますます膨れて、盤面を睨みつける。

佐為は、くすり、と笑みをこぼした。

「ヒカル」
「なに？」
盤面から顔を上げもせず、ヒカルはとがった声を返す。
「『あの時点では』って、言ったでしょう」
「だから、なにが」
「今はね、ヒカルでよかったなあって、思ってますよ」
盤上に落としたヒカルの瞳が、丸く見開く。
「ヒカルと出会えて、ヒカルとこうして碁を打つことができて。だから、覚えているんです。あの日のことを。それはもう、はっきりと‥‥‥おや、ヒカル、どうしましたか」
なんでもない、と早口で吐き捨てたヒカルが、どこか乱暴に黒石を打ち込む。
「そんなところでいいんですか？では───」
「え‥‥‥あ、あっ！」
佐為が示した一点は、まさに急所で。
ヒカルは低く唸ると、観念したかのように「ありません」とつぶやいて、十九路に額をごとんと押しつけた。
明るい髪の間から覗く両の耳が、鮮やかなほど赤く染まっていた。



ヒカルがざらざらと音を立てて、盤上の石を掻き集める。
その様子を眺めながら、佐為は言った。
「記憶の断片は、いくつもあるんです。でも、それがいつのことだったのか、何年前の何月何日だったのか、覚えていないのは少し寂しい気がしますね」
「そう？」
「千年の間に、暦も変わりましたしね」
ふうん、とヒカルが相づちを返す。

千年。
たった一言で口にできるその膨大な時間は、けれどいつしか、ぼんやりと、形をなさない水のように、佐為の傍らを通り過ぎていくようになった。
覚えている日付もある。
虎次郎が生まれた日。
ヒカルが生まれた日。
けれどそれは、知識として覚えているのであって、実感としているわけではなかった。
虎次郎と過ごした、３０年あまり。
ヒカルと出会った日のこと、塔矢アキラと打ったこと、神の一手に近いとされる男を見つけた日のこと、ヒカルが中学校に入学した日のこと、囲碁部で過ごす日々のこと───
どれも、覚えてはいるのに、それらは曖昧な断片として、時の中に浮かび、漂っているようだった。
進藤ヒカル。囲碁を覚えたばかりの子供。
二つの存在が世に現れるまでには、千年というとてつもない隔たりがあるはずなのに。
それでも、出会った。
奇跡のような、偶然。
それは、神に感謝してもしたりないほどの、大切な出来事だ。
けれど、それすらも、千年の時の流れの中で、いつのまにか曖昧なものとなっていく。
はっきりと、いつのことだと、覚えていたいのに、すでにもうその輪郭は失われているのだ。
それは、佐為の内に、どこか郷愁めいた淋しさを思わせた。

でもきっと、目の前の子供には、そんな感覚など理解できようもないのだろう。
今を生きる子供。
自分の世界を駆け抜けることに、きっと夢中になっているだろうから。

ヒカルは、ただ盤上に視線を落として、白石と黒石を分けている。
佐為は気鬱を振り払うように、ことさらおどけた調子で言った。
「ヒカルはあまり、気にしなさそうですよね。そういったこと」
「だって、そんなのいちいち覚えてたら、キリないじゃん。毎日記念日になっちゃうぜ」
ヒカルは顔を上げることもなく、あっけらかんと言い放つ。
それはあまりにもヒカルらしくて、佐為は一瞬の間をおいて失笑してしまった。
「毎日が記念日、ですか」
「あかりがよく言ってるだろ。今日は誰それの誕生日、とか、いついつどこで誰と何をした日だ、とかさ。手帳にまで書いて忘れないようにしてるんだぜ。よく、めんどくさくならないよなあ」
「女性方はそういったことが好きですからね」
うんうん、と頷きながら、ヒカルは石を碁笥に流し込む。
「昔もそうだった？」
「ええ。うっかり忘れると、大変でしたよ」
「大変な目にあったこと、ある？」
「‥‥‥‥さあ、どうだったでしょう？」
空惚けたように、佐為は視線を流す。
ヒカルはからかうように笑みを含んだ。
「あっただろ。碁ばっかり打ってて、忘れたりさ」
「‥‥‥‥‥‥」
沈黙が雄弁に、そうだと答える。
ヒカルはけたけたと声をたてて笑った。

両の石を戻し終えて、ヒカルは盤上の碁笥を二つとも、自分の傍らへと下ろした。
更地の十九路が、明かりの下でくっきりと浮かび上がっていた。
「そうか、佐為も覚えてないのか」
「何がですか？」
「オレと佐為が初めて会った日‥‥‥‥って、なんだよ」
「いえ‥‥‥ヒカルにしては、珍しいですね。日にちを気にするなんて」
意外さに瞠目した佐為に、ヒカルは照れたのか、どこかぶっきらぼうな口調で言った。
「気にするっていうか‥‥や、さっきお母さんが、結婚記念日なんて男は忘れちまうみたいなこと、言ってただろ」
「言ってましたね」
「だからさ、そういえば、オレも佐為と会った日が何月何日だったか、覚えてないよなあ、と思ったんだよ」
「はあ‥‥‥‥」
ぱちぱち、と、佐為は呆然と瞬きを繰り返す。

よりによって、結婚記念日。
それはつまり、自分と相手が出会った日を、結婚記念日と同列に扱っているということに、気づいていないのだろうか、この子供は。

「‥‥‥‥‥ええと‥‥‥‥‥‥ヒカル？」
「なに？」
「‥‥‥‥‥‥‥いえ‥‥‥‥」

気づいていないのだ。
分かり切っていることではないか。

なのに何故、自分だけが妙に照れくさい気分にならなければならないのだろう。

「でも、佐為も覚えてないんだからさ。文句言いっこなしだよな」
「‥‥そうですね」

無邪気なその笑顔が、愛しい分だけ、憎らしいような気もしてくる。

思わず溜息をついた佐為に気づいたのか、ヒカルは一瞬きょとんとして、それから僅かに首を傾げた。
「もう一局、打つか」
「そうですね」
もちろん、異論はない。うまくまるめこまれたのかもしれないが、それでもいいと思う。
佐為が苦笑すると、ヒカルがほっとしたように頬をゆるませた。
「お願いします」と、明るい髪がこぼれる。
「お願いします」と、頭を下げて応える。
少し考えてから、ヒカルは初手を打ち込んだ。
ほどなくして、佐為が二手目を指し示す。
パチン、と白石を打ってから、ヒカルは盤上を見つめたまま、ふとつぶやいた。
「まあ‥‥じゃあ、今日は、『なんでもない日』ということで」
「『なんでもない日』？」
わけが分からず問い返した佐為に、ヒカルが顔を上げる。
頷いた瞳が、どこか楽しげだった。
「少なくとも、今日は絶対、オレとおまえが出会ってない日だから。だから、『なんでもない日』」
そうして、「なんでもない日、おめでとう」なんてつけ加えるものだから、佐為はますます呆然としてしまう。
「『なんでもない日』が、おめでたいんですか？」
「いいじゃん。めでたくないよりは、めでたいほうが。てゆーかさ、そういう話があるんだよ。幼稚園の時だったかな、なんかの時にビデオで見せられた」
「はあ‥‥‥‥」
「『オレと佐為が初めて会った日』は分かんねェけど、今日が『なんでもない日』だってのは分かってるんだし？だから、いいじゃん？」
ニッ、と笑う。
太陽を思わせる、まぶしい笑顔。
だから、瞳を眇めてしまう。

『今日』という日は、確かにここにあるのだと。
ヒカルは佐為と共にここにいるのだと。

曖昧ではない、確かな『時間』なのだと。

それはなんて、心強いことだろう。

「だからって、何をするわけでもないんだけどさ」
ヒカルが軽く肩をすくめる。
言ってみたところで、ヒカルにとっては、『なんでもない日』であろうと『特別な日』であろうと、それがめでたかろうとそうでなかろうと、大したことではないのだろう。

それでも、そんな自然体が、かえって心を癒すのだ。
曖昧になっていく『時間』に、自分もいつかその中に溶けてしまうのではないかと揺れる、そんな心を。

「ヒカル」
佐為が呼ぶと、ヒカルはきょとんと、けれどまっすぐに見つめてきた。
「なに？」
なんのてらいもなく、ヒカルは応える。
佐為は、にこりと微笑んだ。
「なんでもない日、おめでとうございます」
「え？ああ、はいはい。おめでとう」
丁寧に頭を下げた佐為につられるように、ヒカルも頭を下げる。
「明日は、どうでしょう？」
「明日？明日は‥‥とりあえず、体育祭の代休だけど」
「そうですか。では、今日の『なんでもない日』を祝って、これから朝になるまで打ちましょうか」
「ぅえええぇえっ、徹夜あ?!」
とたんに喚いたヒカルに、佐為は至極もったいぶった様子で告げる。
「明日は学校はお休みなのでしょう？よかったですね、心おきなくお祝いができますよ」
「祝うのと囲碁は関係ないだろう！ちったあそこから離れろよ、この碁バカ！！」

碁を打てる幸せ。
現世にいられる幸せ。

なにより、ヒカルと共にいられる幸せ。

「なんでもない日って、いいですねえ」
「おまえのそれは、碁が打てるからってだけじゃねーか」
「それでも、それは素敵な日ではありませんか」

上目遣いに唸るヒカルに、艶やかな笑みを向けて、佐為は催促するように、扇の先で十九路を指し示すのだった。
2004.9.23