秋の夜長

「だーっ、もおっ、おまえシツコイ！」

ダン、と平手で机をたたく。

ぶっつりとぶち切れて、ヒカルは叫んだ。
見下ろす先は、机の縁。
両肘を重ねて顎を載せ、膝立ちにヒカルの手元を覗き込んでいた平安貴族‥‥の、幽霊が、弾かれたように体を起こした。
驚いたように瞳を丸くしながらも、彼───藤原佐為は、それでも心外だというように言い返した。
「シツコイって、ただ見ていただけじゃないですか」
「その視線が鬱陶しいんだよっ」
「いいじゃないですか、見てるくらい」
「気が散るんだよ！集中できないんだよ！勉強にならないんだよっ！」
ダンダンダンッ、といらだたしげに、ヒカルは机に広げた教科書をたたいた。
あからさまに不満げな顔をする幽霊に、ひくりと頬をひきつらせて。

初まりは、いつもの「ヒカル、さあ打ちましょう！」だった。
学校から帰るなり、買ってもらったばかりの桂の碁盤を示してわくわくと誘う彼に、けれどこの日のヒカルは、その誘いに乗るわけにはいかなかった。
なにしろ、中学生となったら避けては通れない『中間テスト』が、１週間後とせまっていたからだ。
とはいえ、自分の実力などとうに分かりきっていたし、今さら良い点を取ろうなどという向上心も薄かった。
が、それでも、「小遣い差し止め」とか、「碁盤没収」などという事態に至られては、さすがのヒカルもまずいと思うのである。

夏休みは丸々、佐為とネット碁の日々だった。
その後は体育祭もあったし、終わってからも放課後はたいてい囲碁部に入り浸っていた。

そう、自分の実力は、自分が一番よく分かっている。

「ヒカル、打ちましょう」
「ダメ。今日からオレ、勉強するから」
「‥‥‥‥‥‥‥ヒカルが、勉強？」
「その間はなんだ。その顔はなんだ」
「だって、ヒカルが『勉強』なんて言うから」
微妙な笑みを浮かべる佐為を、ヒカルは思いきり睨みつける。
ガラにもないと自分で分かっているから、よけいに視線は険しくなる。
「しょーがねぇだろ、そこそこ点取らないと、小遣いがピンチになるかもしれないんだから」
「どうせいつも無駄遣いばかりしているじゃないですか」
「囲碁禁止で碁盤没収かもしれないな」
「それは大問題です！」
力いっぱい答えた佐為に、ヒカルは呆れてコノヤロウとつぶやく。
結局のところ、彼の基準はどこまでも『囲碁』なのだ。
碁に未練を残して千年幽霊をやっているというのだから、当然なのかもしれないが。

とりあえず、背後で「一大事」とばかりに盛り上がっている幽霊を放っておいて、ヒカルはどかりと机の前に腰を下ろした。
重いリュックをずるずると引き寄せて、中から適当に教科書を引っ張り出す。
国語、数学、英語‥‥‥。
うああ、と呻いて、ヒカルはそれらを遠ざけた。

たかが本なのに、なぜここまで、気が遠くなりそうなくらい憂鬱になるのだろう。

しかもそこへ、悪魔の囁きならぬ、幽霊の囁きがヒカルを誘惑するのだ。
「でもヒカル、その前に１局だけ打ちません？」
「あのなあ‥‥‥」
「ほら、まだ日も高いですし、１週間もあることですし、１局くらいなら。ね？」
振り向けば、遠慮はしているのだろうが、どう見ても甘えてねだっているとしか思えない笑顔が間近にあって。
「勉強は夜やればいいじゃないですか。私、教えますよ」
だから、ね？と、秀麗な顔がにこりと微笑む。

そしてあいにくと、ヒカルはそれほど意志が強い方ではなかった。

「‥‥‥それ、無理。今回はおまえの得意分野ないから」
「そうなんですか‥‥でもでも、１局打つ時間なんて、たいしたことありませんよ。その時間を勉強しようがしまいが、今さら大差ありませんって」
「そうかな」
「そうですよ」
「‥‥そうだよな。２時間くらい、大したことないよな」
「そうそう！」
結局、教科書は開きもせずに机の上へと放り出して、ヒカルは椅子からすとんと碁盤の前に滑り落ちた。
「勉強は、夜やればいいもんな」
「そうですよ。秋の夜長といいますし、夜はたっぷりあるのですから」
「そうだよなぁ」
分かっていて好きなように解釈する幽霊と、そもそも意味を分かっていないヒカルでは、その会話はかみあっているようで実はかみあっていないのだが、あいにくそれを指摘する者はいなかった。
佐為がいそいそとヒカルの対面に腰を下ろす。
無意識の仕草で払った袂が、ふわりと羽根のように翻る。
ヒカルはすっかり、テストのことを忘れ去っていた。

が、石の音はしっかり聞かれていたらしい。
１局どころか、さんざん打って夕飯の席についたヒカルに、母親が言った。
「ヒカル、もうすぐ中間テストでしょう？勉強しなくていいの？」
「‥‥するよ、夜、しようと思ってたんだよ」
「そう？」
茶碗にご飯をよそって手渡しながら、母は心配そうに(たぶん、無意識に)釘を差した。
「せっかくおじいちゃんが買ってくれたけれど、やっぱりあの碁盤、お返ししたほうがいいのかしら───」
とたんに叫んだのは、佐為だった。
「それは駄目です、お母さんっ！」
もちろん、母には見えもしないし聞こえもしない。
見えたのは、突然の叫びに耳を押さえびくりと体を竦ませた息子の姿だ。
「‥‥ヒカル、どうしたの？」
「なんでもない‥‥‥これ食べたら勉強するから」
「そう？頑張りなさいよ」
背を向けた母の後ろで、ヒカルは思いきり佐為を睨みつけてやった。

そんなわけで、ヒカルはしぶしぶ机に向かい、教科書を広げ、ノートを広げていた。
といっても、まともに授業を聞いていないから、教科書はきれいなものだし、ノートは字の汚さを除いても何を書いてあるのかさっぱり分からない。
とりあえず、試験範囲の最初のページを開いて、うんうんと唸ってみる。

なのに、佐為がその周りをそわそわとうろついているのだ。

ヒカルはぎりり、と手の内の鉛筆を握りしめた。
佐為はヒカルの心とつながっているらしいから、喜怒哀楽程度はなんとなく分かる。

ようするに、『暇』なのだ。

碁が打ちたい。
打ちたいけれど、唯一の相手は打ってくれない。
打ってほしいと言いたいけれど、言ってはいけない。それは、分かる。
分かるけれど、打ちたい。
その、堂々巡り。

そんなところだろう。

「佐為！」
苛立ちを爆発させて、ヒカルは叫んだ。
「おまえなっ、鬱陶しいから後ろでうろうろしてんなよなっ！」
「ええ？でも───」
「でもじゃない！気が散るんだよ」
「はぁ‥‥‥‥」
しぶしぶ、佐為は引き下がる。
が、今度はシュンとしおれた気配が伝わってきて、これもまたいらいらした。
「だあぁっ、もおっ」
ヒカルは勢いよく立ち上がると、リュックの中から以前筒井に借りた詰碁集を引き抜いて、碁盤の上に無造作に置いた。
「ほら。これでも見てろ」
そうしてまた、机の前に戻る。
「‥‥私、紙をめくることができないのですけれど」
けれど憤然と『謎の物体』と格闘するヒカルには、碁盤の前で途方にくれる佐為のつぶやきにまで気づくことはできなかった。

佐為にしてみれば、勉強をしなければならないヒカルの事情はよく分かるのだ。
けれど、それでも、「碁を打ちたい」という欲求を止めることはできなかった。
口に出すのを我慢することはできる。
けれど、心まで抑えることは、どうしてもできないのだった。
それを、ヒカルは感じ取るのだろう。
開くことのできない、初心者用の詰碁集の表紙を前にして、佐為は溜息をつく。
見上げればヒカルが、その一風変わった前髪をグシャグシャとかき回しながら、『勉強』と格闘していた。
歯ぎしりでもしそうなほどの勢いで唸りながら、本を前に後ろにとめくっている。
自然と、そちらに興味が湧いた。
何を見ているのだろう。何を困っているのだろう。
ヒカルはどんなことをしているのだろう。
佐為は碁盤の前を離れて、ヒカルの机に寄った。
邪魔をしないようにと、傍らに膝をつき、その手元を覗き込む。
見れば確かに、佐為にはよく分からない文字が書き連ねられていた。
「‥‥‥何の勉強ですか？」
「英語」
むっつりとしながら、それでもヒカルは答える。
だから、佐為はまた尋ねてみた。
「それは、なんと書いてあるのですか？」
「これ？あー‥‥フーズ‥‥じゃなくて、フィッチ？あれ、フェアだったかな‥‥‥」
「どういう意味なんですか？」
「だから、それを考えてるんだろ‥‥ああっ、くそっ」
「ヒカル？」
「えーと‥‥あー‥‥‥‥うーん‥‥‥‥」
「ヒカルってば」

「だーっ、もおっ、おまえシツコイ！」

───そして、冒頭に戻るのである。

「もうおまえ、あっちいってろよ！」
ほとんど八つ当たり気味に怒鳴りつけると、佐為は不満げな顔をしながらもおとなしくその場を離れていった。
そのあとどうしたかまでは知らない。知るとまた気になりそうだったから、見届けずに視線を戻してしまった。
そのまま、先程からちっとも変わらないアルファベットの羅列を追う。
こんなの習ったかな、そんな責任転嫁な愚痴をつぶやきつつ、一つ、また一つと「未知の」言葉を調べていく。
どうしても分からないところは、諦めることにした。
明日、筒井かあかりに訊けばいい。

そうして、ようやく１ページを終わらせたヒカルは、大きく体を伸ばしてから、ふと思い至った。

「佐為‥‥‥？」

あれほど気になっていた気配が、不思議なくらい感じられなかった。
体をひねって、姿を探す。

ギシ、と椅子が軋む。

碁盤の前にはいない。

見回せば、佐為はベッドの上に座り、窓の外を眺めていた。

白い、秀麗な顔。
涼やかな瞳が、穏やかに空を見上げている。

「佐為」
呼びかけると、佐為ははたと気づいたように瞬いて、優美に首をめぐらせた。
「どうしましたか、ヒカル」
柔らかな微笑を向けられて、ヒカルは一瞬言葉に詰まる。
普段見せる幼い表情やわがままな言動に忘れてしまいがちだが、改めて見ると、やっぱりその造形にはどきりとするのだ。
「勉強、終わったんですか？」
「いや‥‥まだだけど‥‥‥」
そうですか、と、佐為は小さく首を傾ける。
「何、見てたんだよ？」
ヒカルが問うと、佐為はふわりと微笑んで、また窓の外へと顔を向けた。
「月を見ていました」
「月？」
「ええ。満月、とはいきませんが、冴え冴えと白い、きれいな月が出ていますよ」
「ふうん‥‥‥」
それきり、また外へと視線を馳せている佐為に、ヒカルも椅子の上から体をひねって窓の外に広がる空を覗いてみた。
確かに少し欠けた丸い月が一つ、闇の中に浮かんでいた。
星はなかった。
ただそればかりが、煌々と真白い光を、音もなく降り注いでいた。
「佐為」
「月は、変わりませんね」
ただ穏やかに、優しい瞳で。
佐為は月を見上げていた。

その瞳が何故か、心に引っかかった。

佐為は、月を見上げる。
ヒカルには、ただの月だ。
そんな「ただの月」を、佐為は愛おしげに、そしてどこか切なげな瞳で見上げている。

月は変わらないという。
「変わらない」と言った。
何と変わらない？
変わらないから、どうだというのだ？

心が、ざわざわとざわめいた。

いらいらした。
落ち着かなくなった。
佐為が月を見ている、そのことが悔しいとさえ感じた。

悔しい？

悔しい、というのとは違うような気がした。
けれど、落ち着かない。
いらいらする。

ヒカルは不機嫌に佐為を見つめた。
月を見上げる佐為を見つめた。

佐為は、『月』を見ているのだろうか？
見ているのは、『月』なのだろうか。

時の流れに変わりゆく世界。
その中にあって、千年前と変わらない月。

そうか、と思い至る。

「月を見ている」ことが嫌なのではない。

嫌なのは───。

「佐為！」
尖った声音に、佐為は驚いたように振り返る。
「ど、どうしましたか、ヒカル」
ヒカルは、ダン、と音をたてて、手の中の鉛筆を乱暴に机にたたきつけた。

「打ってやる」
「はい？」

ぱちり、と、佐為は瞳を瞬く。

ヒカルは勢いよく椅子から立ち上がり、どかりと碁盤の前で胡座を組んだ。
「座れよ。ほら」
「ヒカル、でも、勉強は───」
「やめた。ていうか、分かんないことだらけだから、明日筒井さんに訊く」
「はあ‥‥‥」
わけが分からないといったように、ちんまりとベッドの上に座ったままの佐為に、ヒカルは碁笥を引き寄せながらぶっきらぼうに促す。
「打たないのか？ならオレ、もう寝るぞ」
「え‥‥いえっ、打ちます！」
佐為があたふたとベッドを降りて対面に座った。
「でも、いいんですか？」
「何が？」
碁笥を整える振りをしながら、ヒカルは応える。
「勉強しないと、碁盤、没収されてしまいますよ？」
「そうならないように、明日筒井さんに訊くんだろ」
「そうなんですけど、でも‥‥‥」
釈然としない様子の佐為に、ヒカルは「あー、もうっ」と唸った。
「いいんだったら、いいんだよ。それとも、何？おまえ、打ちたくないの？」
「打ちたいです！打ちたいですよ！」
「なら、いいじゃん。オレが黒な。じゃ───お願いします」
「あ‥‥お願いします」

いつものように頭を下げて。

それから、彼の目が「見る」のは───。

「‥‥何ですか、ヒカル」
「何が」

不思議そうに、佐為が首を傾げる。

「‥‥何を笑っているんですか？」
「笑ってないよ」
「そうですか‥‥？」

佐為は、ヒカルを見て、いくらかの困惑を残したまま、それでもやがて口元を和らげた。

澄んだ瞳に、ヒカルが映る。

ヒカルは、音を鳴らさないよう、そっと初手を打ち込んだ。
「お母さんにバレないようにしないとな」
「そうですね」
クスリと小さく笑う声と共に、扇子が一点を指し示した。
その先に、つまんだ白石をそっと置く。

シン、と静まりかえった室内に、犬の吠える声が微かに届く。
猫が、鳴く。

月光の下、夜は穏やかに、町を包んでいた。

2004.10.31