びっくりしたんだよ！

ミ゛ーンミ゛ーンと蝉が鳴く。 力一杯、夏を謳歌する───そんな晴天に恵まれた、ある日のこと。 庭先が、やけに眩しかったのだ。 眼鏡の奥の瞳を眇めつつ、光の中へと視線を向ける。 白く霞むような日なたのただ中に、ビニールプールが置かれていた。 子供が喜びそうなキャラクターが描かれた丸いプールには、なみなみと水がはられていた。 その表面に、照りつける太陽が映り、揺れる波にあわせてキラキラと、光を反射しているのだった。 水の中には、ぽつん、と１匹、生き物がいた。 〈天使の輪〉の載る、真っ黒いおかっぱ頭。 赤く焼けた、やわらかそうな裸の肩。 〈怪獣〉は、うつむき加減に水に浸かり、その下でなにやらさぐっているようだった。 何をしているのだろう。 近づき、縁側の上から中をのぞいて、ぎょっとした。 水底に、白い石が大量に沈んでいた。 ただの石でないことは、眼鏡が必要な近眼であっても見てとれた。 プールの傍らにひっそりと置かれているのは、どう見ても碁笥だ。 となれば、想像がつく。 「‥‥何をやっているんだ」 半ば独り言のようにぼそりとつぶやくと、ようやく存在に気づいたのか、〈怪獣〉は顔を上げ、「にぱっ」と笑った。 「あ、おがたさんだ」 「アキラ君‥‥何をしているんだい」 「ごいしをあらってるの」 ニコニコニコニコ 悪びれもせず、〈怪獣〉は笑う。 ザラザラと水の中でかき回すその碁石は、高価な日向産の蛤碁石だ。 塔矢家にある碁石といえば、それしかない。 子供の玩具、というにはずいぶんと豪勢だが、手渡されたのか、それとも勝手に持ち出したのか。 碁石は数組あるのだから、１つくらいどうなったところで影響はないのかもしれないが、 「おいおい‥‥‥」 ２才にして、蛤碁石。 やはり大物、〈怪獣〉だ。 〈怪獣〉は再び水中へと視線を戻し、じゃらじゃらと手を動かしだした。 洗っている、というより、どう見てもかき回しているだけにしか見えないのだが、本人はいたって真剣らしい。 ジャプン　ジャプ 水が波打つ。 たぷん、たぷんと揺れる波間に、光がきらめく。 少し離れたところに、小さな麦わら帽子が落ちていた。 緒方は縁側の下にあったサンダルを突っかけて、庭に降りた。 途端、強烈な日ざしに晒されて、思わず顔をしかめる。 半袖から伸びた剥き出しの腕が、じゅう、と焼かれるように暑い。というより、痛い。 「日射病になるぞ」 いつからそこにいるのかは知らないが、帽子もかぶらず居続けるのは自殺行為というものだろう。 拾った帽子をおかっぱ頭に載せてやる。 〈怪獣〉は、ちら、とだけ緒方を振り返り、また水の中へと視線を戻した。 「‥‥なぜ帽子をかぶらないんだ？」 緒方の問いかけが、聞こえているのか、いないのか。 答えない〈怪獣〉の頭を、指先で軽くこづいてやる。 「アキラ君」 「なあに？」 ようやく振り返ったその顔は、いかにも面倒くさそうだった。 〈怪獣〉のくせに、いい度胸じゃないか、と、緒方は眼鏡の奥の瞳を細める。 「なんで、帽子をかぶらないんだ」 「かぶってるよ」 「かぶっていなかったじゃないか。そこに落ちていたぞ」 「だってね、かぜさんがね、もっていっちゃったんだよ」 「拾えばいいだろう」 「あげたの」 そう言って、ぷい、と、また顔を戻してしまう。 碁石洗いが、そんなに楽しいか。 ふと、真っ赤に焼けた小さな肩が目に入った。 もともと白い肌だから、熱に弱いのかもしれない。 それにしたって、それほど赤くなっていて、よく痛くないものだ。 火傷と変わらないのだろうに───。 火傷。 緒方の口元が、にたり、とゆがんだ。 火傷なら、冷やしたほうがいい。 そう、冷やすべきなのだから───。 庭の隅に、水まき用のホースがとぐろを巻いていた。 緒方は〈怪獣〉から離れ、ホースを拾い上げた。 その先を、指で潰す。 そうして目標を定め、水道の蛇口をひねった。 狙うは─── 「‥‥‥‥──っ！！！」 それはもう、見ている方があっけにとられるほどだった。 〈怪獣〉は声にならない悲鳴を上げると、手足をばたつかせてあわてふためいた。 あわてふためき、水を跳ね上げ、動転するままに立ち上がろうとして、 バッシャーン 頭に重心のあるバランスの悪い体は、見事、前のめりに水中へと沈んだのだった。 光の中に、キラキラと水飛沫が舞う。 呆然と、緒方はその様を見つめてしまった。 いきなり冷たい水をかけられたのだ、それは驚きもするだろう。 けれど、あれほどのリアクションとは思わなかったのだ。 緒方の手の中から、勢いを失った水がじょぼじょぼと地面に落ちる。 「おい‥‥」 大丈夫か、と声をかける前に、〈怪獣〉はむくりと体を起こした。 所詮はビニールプール、水深は浅いのだから、手もつく。よほどでなければ溺れることはないのだが。 まさに「カラスの濡れ羽色」となった、びしょ濡れの黒髪の先から、大粒の水滴が次々と落ちて、小さな波紋を生む。 ぽたん　ぽたぽた ぽたん かたまった〈怪獣〉に、緒方もかたまっていた。 泣くか。 泣くのか。 焦りに似た心地で様子を見守っていると、 「‥‥‥‥‥‥〜〜〜っ！！」 〈怪獣〉が、唸った。 緒方は、思わず吹き出しそうになった。 振り返った〈怪獣〉が、思い切り頬を膨らませて、怒っていたからだ。 「もおおっ！」 〈怪獣〉はかわいらしい咆吼をあげて、緒方を睨んだ。 「びっくりするでしょお！びっくりしたんだよ！」 「ああ、分かった分かった。悪かったよ」 堪えきれなかった失笑が、口を開くたびにこぼれ落ちる。 それが、気に入らなかったのだろう。 ますます膨れた〈怪獣〉は、やおら緒方に向かって、プールの水をはね上げた。 「うわ‥‥っ！」 慌てて片手でかばったものの、間に合わない。 「お、まえ、なあ‥‥‥！」 シャツは〈怪獣〉の攻撃をまともに浴びて、しっかり濡れてしまっていた。 眼鏡の片方も、水滴のせいで曇って見える。 すると、突然、〈怪獣〉が笑い出した。 キャアキャアと歓声を上げて、プールの縁をつかんで水の中で弾んだ。 〈攻撃〉が命中してうれしかったのか、ずぶぬれの緒方の姿がおもしろかったのか、緒方が困っているのが楽しいのか。 なんだかよく分からないが、でも、目の前で弾んでいるのはまぎれもなく、ヒマワリの笑顔だ。 「‥‥‥‥アキラ君」 名を呼ぶと、また両手で水をはね上げた。 今度は一歩退いて、回避することができた。 緒方の立っていた地面の色が、水を吸って黒く変色する。 それにも、〈怪獣〉は歓声を上げた。 そういうことなら。 緒方は手の中のホースを再び〈怪獣〉に向け、勢いよく水をかけた。 「キャ‥‥っ！」 〈怪獣〉もますます勢いづいて、水をかき出す。 夏空に、無数の滴が飛び交った。 きらきら きらきらと。 光が踊る。 歓声が、踊る。 蝉が鳴いていた。 雲が輝いていた。 緑が揺れていた。 「緒方君‥‥‥何をしているんだね」 ようやく棋譜を見つけた師匠が通りかかるまで、その攻防は続けられたのだった。

2004.8.19