なにしてるの?





背後から、舌足らずな幼い声が話しかける。

ざりざり、と碁石を洗う手を止めて。
緒方は振り返り、足下を見下ろす。



いつものことだ。
師匠の家に生息する、1匹の〈怪獣〉。
碁を打っている時や、検討している時には姿を見せないのに、こうして一人になると、いつのまにかそこに現れる。
まるで、アンテナでも備えているんじゃないかと疑いたくなるほど、一人になった緒方の背後から

とたとたとた とたん とたん

とたん

長い廊下を、足音鳴らして近づいてくる。

視界に入らない足下に止まったその足音は、何故かしばらく沈黙を保つ。
そしてずいぶんと長い間をおいて、やがて、言うのだ。

「なにしてるの?」

────〈怪獣〉がやってきて、3度目の夏のことだ。






足下を見下ろすと、案の定、さらりと手触りの良さそうな真っ黒いおかっぱ頭が仰向いて、やはり真っ黒い真ん丸の瞳が、まっすぐに緒方を見つめていた。
「なにしてるの?」
大仰なほどの仕草で、おかっぱ頭が横に傾く。
緒方は、水につけていた手を、たらいの縁にかけた。
面倒だろうがなんだろうが、答えなければならなかった。
なにしろ、相手はただの〈怪獣〉ではない。
師匠が手放しで可愛がり大切にしている〈怪獣〉だ。
それに、答えなかったら答えるまで、とにかくしつこく食い下がる質であることも、とうに緒方は知っていた。
緒方は真上から見下ろして言った。
「碁石を洗っているんだよ」
すると、〈怪獣〉は言った。

「なにしてるの?」

ニコニコニコ。

庭の巨大なひまわりに似た無邪気な笑顔が、緒方の目の前で花開く。

ぴくり、と。
こめかみがひきつり、眼鏡のつるが震えたのを、緒方は感じた。

「碁石を洗っているんだよ」
「なにしてるの?」
「碁石を洗ってるんだよ」
「なにしてるの?」
「碁石を洗ってるんだ」

「なにしてるの?」

ニコニコニコ。
指先の触れるたらいの水が、ぱしゃ、と音をたてる。

緒方はそれでも、笑みを崩さなかった。
忍耐は、この数年でずいぶんと培われた。その成果だ。

「‥‥‥‥‥‥‥‥アキラ君」

〈怪獣〉は、きょとん、とつぶらな瞳を見開いた。

「もう一度言うぞ。もう言わないからな。もう言わないから、よぅく聞けよ」
「‥‥‥‥」
「『碁石を洗ってる』んだ。分かったか。分かったな。分かったよな」

〈怪獣〉は1度も瞬きをせずに、緒方を見上げる。

緒方はくるりと背を向けて、また碁石を洗い始めた。

がらん

ざりざりざり からん からん ざらざら

水の中で、白い碁石を掌に包み、一つひとつ丁寧に洗っていく。

しばらくして、ぽつりと。
「‥‥ごいしをあらってるの?」
「そう。碁石を洗っているんだ」
「‥‥‥‥ふーん」

ざりざりざり からん

ぱしゃん

縁先の向こうに広がる庭木の間から、夕立に似た蝉時雨が鳴り響いていた。







そうして、すべての碁石を洗い終えた頃、

「ごいしをあらってるの?」
「え‥‥───?」

ふと背後を振り返れば、先程と少しも変わらない様子で、3等身のおかっぱ頭が立っていた。
そういえば、どこかへ行った足音を聞かなかった。
自分が気づかなかっただけだと思っていたが。ひょっとして、ずっとそこにいたのだろうか。
〈怪獣〉は、その艶のある大きな瞳で、緒方をまっすぐに見上げる。
何が楽しいんだか、何がしたいんだか、緒方には分からない。
それでも、〈怪獣〉には〈怪獣〉の理由があるのかもしれない。
もう2年と8ヶ月たつが、あいかわらず緒方にとっては得体の知れない存在だから。

「ごいしをあらってるの?」
〈怪獣〉が繰り返す。

緒方は傍に置いておいた自分のハンカチで手を拭き、体ごと後ろを向いて、膝を折った。

「もう、終わった」

目線の高さを合わせて。
ぽんぽん、とおかっぱ頭を軽くたたく。

とたんに、ひまわりの笑顔が、くすぐったそうにくずれた。
機嫌のよさそうな、明るい笑い声が、薔薇色のぷくぷくとした唇から漏れる。



「アキラさーん」



居間の方から、母親の声がした。

「ほら。お母さんが呼んでるぞ」
緒方の掌がおさまりそうな小さな背中を、軽く押してやる。
「行ってこい」

〈怪獣〉は拙い足どりで、廊下を走り出した。


とたとたとたとた とたとた とたとたとたとた


小さな姿が角を曲がって、視界から消える。


しゃがみこんだ膝に両腕をのせて、遠ざかっていく足音を聞きながら、
「‥‥‥‥‥‥」
緒方は深く溜め息をついた。
眼鏡を軽く押し上げる。

「‥‥‥‥‥さて」
声に弾みをつけて、立ち上がった。
洗った碁石を、これから拭かなければならない。

たらいの底に敷き詰められた白石を見て───ふと、微かな違和感にとらわれた。

何も変わらない。
けれど、何かが違う───強いて言うなら、視界に広がる光景が、どこかリアルに、深みを増したような。

傍らの縁先から、外を見る。
色鮮やかに、まぶしく輝いた、木々の緑、夏空、光る入道雲。

開け放した窓から、風が舞い込んだ。

リィー‥‥ン

軒先に吊された南部鉄の風鈴が、涼やかな音色を響かせる。



緒方は軽く頭を振って、傍らに用意しておいた布に手を伸ばした。




2004.7.30