白詰草の花冠



「こんにちは！ヒカル、いる？」
放課後の理科室に軽やかな声が響く。
古い碁盤を挟んで向かい合っていたヒカルと筒井は、同時に顔を上げ、戸口に立つ少女へと視線を向けた。
「うるさいなぁ。もっと静かに入ってこいよ、あかり」
どこか偉そうに、ヒカルが声をとがらせる。
「あ、ごめんね。対局中だったんだ」
幼なじみの気安さからか、あかりは悪びれるふうもなく二人に近づいていく。
いっぱいに開いた窓から、爽やかな風が吹き込んで、彼女の夏服のリボンを揺らした。
「あれ、三谷くんは？」
「サボリ」
簡潔なヒカルの返答に、筒井が苦笑して言い足した。
「何か用があるって言ってたよ」
「『用』とかいって、絶対サボリだぜ、アイツ」
「ちゃんと断っていったんだから、サボリとは言わないよ」
やんわりと言われて気勢をそがれたのか、ヒカルは「でもさぁ…」とつぶやいたきり、言葉を飲み込む。
あかりが碁盤を覗き込むと、すでに白黒模様はずいぶんと複雑になっていた。
「どっちが勝ってるの？」
「ボクだよ」
筒井が答える。
「うるさいなあっ。あかり、あっちいってろよっ」
小さな椅子の上で胡座を組んで、ヒカルは盤面を覗き込む。
と、また戸口のほうから、今度は少しどっしりとした声が入ってきた。
「こんちわー。来たよー」
三人が振り返ると、金子が入ってくるところだった。
あかりが、ぱあっ、と顔を輝かせた。
「金子さん！今日、バレー部は？」
「顧問が休みだから、部活もなし。だから、囲碁部覗いてみようかなって」
「うんうん！わぁ、うれしい」
素直に喜びを表すあかりの横で、ヒカルはフン、と鼻を鳴らす。
なにしろ、ただでも負けている状況なのだ、なんとか逆転できないものかと集中したいのに、脳天気な外野がその邪魔をするのである。
ヒカルは盤面を見据えたまま、ひらひらと掌を振った。
「あかり。おまえ、あっちで金子と打ってろよ」
「うん。金子さん、私と打とう！」
「いいけど‥‥‥藤崎さん、それ」
金子があかりの何かを見咎めたらしい。
けれどヒカルは振り向かなかった。
とにかく、目先の劣勢をなんとかするのが先だったから。
うううぅぅぅぅぅん、と深く唸ったきり、ヒカルは盤面に集中した。
筒井が忍び笑いを漏らしたのが心に引っかかった、それが最後だった。

だから、近づいてきた女子二人の気配に、ヒカルはまったく気づかなかった。
「ううううぅぅぅぅぅん‥‥」
あそこに置いたら、こうなってこうなるけど、でもこっちがこうだし‥‥。
頭の中で、「ヒカル、ヒカル」と〈彼〉が呼んでいた。
けれど、力を借りて勝つのは絶対に嫌だったから、「うるさい」の一言で片づける。
「進藤くん」
「もうちょっと待って、筒井さん」
唸る合間につぶやいた、その瞬間だった。

パシャッ

視界に炸裂した閃光に、ヒカルは弾かれたように顔を上げた。
「え‥‥‥‥？」
ぱちり、と瞳を瞬く。
困ったように微笑む筒井の傍らに、何故か使い捨てカメラをかまえた金子と、悪戯っぽく笑うあかりがいた。
「な‥‥何？」
ヒカルにだけ聞こえる声で、〈彼〉が告げる────ヒカル、頭の上ですよ。
ヒカルは慌てて自分の頭に手をやり、ようやくその違和感に気づいた。
「な‥‥え、何だよこれぇ?!」
「あっ、あっ、ダメ‥‥っ！」
焦ったようなあかりの様子にもかまわず、ヒカルは頭上に載せられたものをつかんで下ろした。
それは、白詰草で編んだ、直径15cmくらいの小さな花冠だった。
「あかりーっ！」
椅子を蹴倒す勢いで立ち上がったヒカルを、筒井がまあまあと押しとどめる。
あかりはさっと筒井の影にまわると、顔だけ出して、「だって」と抗議した。
「だって、せっかく作ったから、誰かにかぶせたかったんだもの」
「自分でかぶれよ、自分で！」
「自分でかぶったって見えないもん」
「鏡があるだろう！」
「もう見たもん」
「だったら金子にでもかぶしとけよ！」
「あ、私はもうかぶった」
金子が片手を上げて、ヒカルの言い分を一蹴する。
グッと反論に詰まったヒカルに、金子はフンと鼻で吐息をついた。
「いいじゃん、進藤似合うよ」
「ジョーダンじゃねぇよ！だいたいそんなの、オンナがかぶるもんだろ！」
「う〜ん、確かに、王子様がお姫様にかぶせてあげる、ってのが、おとぎ話のセオリーだけど」
「そうだよ！だから────」

「でもさ。せっせと花摘んで編んでる男って、なんかヤじゃない？」

「‥‥‥‥は？」
ぽかん、とヒカルは口を開けたまま金子を見つめる。
金子は腕を組んで胸をそらし、飄々とヒカルを見下ろした。
「だからさ。王子様は花冠を作らないでしょ。でもって、お姫様が花冠を作った。この場合は、どうしたらいいと思う？」
「‥‥‥‥‥‥」
筒井が、ポンポンとヒカルの肩をたたいた。
「あきらめなよ。進藤くん」
うがーっ、と叫んで、ヒカルは自分の髪をかきむしった。
黄金色の前髪がばさばさと乱れる。
「あかり！だったら筒井さんにもかぶせろ！」
「筒井さん？」
「藤崎さん、ボク、先輩だよね」
「そうですよね」
「ズルイっ！筒井さん、ズルイっ！」
ヒカルは力いっぱい抗議する。
そんな中で、金子がぽつりと言った。
「まだフィルム残ってるんだけど」
「！」
「もう一枚────」
ヒカルはするりと筒井の手を逃れて、脱兎のごとく駆けだした。
「あっ、ヒカル！」
あかりが追いかける。
「ヒカル、待ってよ！」
「ぜってぇ、ヤダ！」
実験用の机を間に挟んで、じりじりと睨み合う。
「いいじゃない、１枚くらい！」
「ヤダったらヤダ！」
「ヒカル、似合ってたよ」
「ふざけんなあっ!!」
机を回り込もうとしたあかりに、ヒカルは戸口へと駆けだした。
途中、机の上に投げ出してあった鞄を攫うことを忘れない。
「オレ、今日帰る！」
「進藤くん、対局の続きは?!」
「打ち掛けにしといて！」
廊下へと消えたヒカルが「やかましい！」と叫んでいたのは、誰に向けたものだったのか。
活気溢れる校舎の外では、木々の緑が生き生きと光を受けてきらめいていた。















────そんなことがあったのを、ヒカルはすっかり忘れてしまっていた。

いろいろあったのだ。

筒井にすら勝てなかった自分が、いつの間にかプロの棋士となった。
大切な人との別れも経験した。
自分の周りの、ほんの僅かな世界しか知らなかった子どもが、いつしか世界に目を向けるようになった。

それほど遠くないはずの過去は、ヒカルの奥底に、大切にしまいこまれた。






だから、そうなってしまったとしても、仕方のないことだろう。

ましてや、「偶然」の起こした出来事ならば。






そう、「偶然」だった。
あかりが塔矢アキラを呼び止めたのは。
「塔矢くん？」
自宅の玄関を出たところで、「偶然」出くわしたのだ。
彼はヒカルの家へと向かう途中だったらしい。
「こんにちは」
久しぶりに見る彼はずいぶんと大人びていて、けれど相変わらず穏やかな物腰で挨拶を返してきた。
その優しげな雰囲気が、あかりの遠慮を霧散させたのだろう。
彼女はさほどためらわず「ちょうどよかった」と、アキラに一冊の本を差し出した。
「塔矢くん、ヒカルの家へ行くんでしょう？だったらこの本、返しておいてもらえないかな。ずっと前に借りてたのが、さっき掃除してたら出てきたの。私、今から返しに行くところだったんだけど‥‥」
「ああ、いいですよ」
あっさりと、アキラはあかりから本を受け取った。

道すがら、アキラは手の中の本をなんとはなしに眺めた。
初心者向けの、詰め碁の本だ。
ぱらぱらとめくると、そこでページは止まった。

挟まっていたのは、一枚の写真。

「‥‥‥‥‥‥‥‥」

アキラは思わず、拳で口元を押さえた。
でないときっと、どうしようもないくらいに顔中がゆるんでしまいそうだったからだ。
2004.6.15