「あっれー、塔矢じゃん！」



国会議事堂の通路いっぱいに、突如として響き渡る自分の名前。
さらに、あの二局以来、忘れるどころか考えない日はないほどの相手の声。
ここまでそろって驚かない人間がいるだろうか。

弾かれるように振り返れば、一目で見つけられた。
見学の小・中学生でごった返す中にあっても、その容姿はかなりめだつ。
アキラ達とは逆の方向へと進んでいく一団の中に、
「進藤、ヒカル‥‥‥‥！」
金色の前髪の、小柄な少年。

ヒカルは満場の注目を一心に浴びて、居心地悪そうに口元を押さえていた。
「進藤君！騒いじゃだめって、何度言ったら分かるの！」
「アハハハ、ごめんなさい、ごめんなさい！」
担任教師だろう女性に叱られても、反省しているのかいないのか。

「塔矢君、知り合いかい？」
「うん‥‥ちょっとね」
ふーん、と、クラスメートはそれ以上追求してはこなかった。
もっとも、彼に限らず、きっと誰もが興味津々だったに違いない。
品行方正・優等生なアキラと、公共の場で騒いで怒られているようなヒカル。
アキラ本人ですら、未だに意外なのだ。囲碁で負けていなければ、それ以降の互いの人生は、きっと一生交わらなかったはずなのだから。

ヒカルを叱っていた教師がゲンコツ一つを最後に立ち去ると、ヒカルはいきなり通路を横切って近づいてきた。
ぎょっとしたのは、アキラだ。
「進藤君、君、列を離れて平気なの？」
「だーいじょおぶだって。どうせ出口は一つじゃん。だってさあ、部屋ちょろっと見てまわるだけなんだぜ。つまんねーよ。オレ先行って待ってることにした」
「‥‥‥‥君の順路だと、これから本会議場に入れるのに？」
「どーせほんのちょびっとだろ。遊べるんならいいけど、いーよ、オレ別に興味ないし」
「‥‥‥‥‥‥」
会議場はもともと遊ぶ場所ではないだろう。
そもそも国会へは見学に来たんじゃなかったのか。

無邪気に笑う様子は、「ちょこちょこっとプロになる」と言った時と変わらない。
お調子者で、年の割に幼いのだろうというのは、先程の教師とのやりとりを見ていれば、容易に想像できた。
良いとか悪いとか、深く考えず思いついたら即実行。
決して悪気があるわけではないのだ。
だから、アキラは、この偶然を生かすため、あえて説教を飲み込むことにした。

「奇遇だね。まさかこんなところで君に会えるとは思わなかった」
「オレもオレも！おまえも社会科見学？」
「うん」
「オレさあ、あとフジテレビ行くんだ。お前は？」
「僕？最高裁判所と、お台場のテレビ局に行くよ」
「うっわー、同じじゃん！すっげー、すっげー！」
「うん、そうだね」
小学生が政治について学ぶのは６年生後半。だから社会科見学で国会議事堂を訪れる時期は比較的一時期に集中する。その上国会が定番なら、オプションでついてくる施設も限られてくる。
だから、知り合いに会う確率は、少なくともゼロではない。
でも、ヒカルがあんまり嬉しそうなので、アキラは素直に相槌を返したのだった。


ヒカルははねるような足取りで、列に従うアキラの隣をついてきた。


前後にいるクラスメート達は、ヒカルの存在に落ち着かないようではあったが、好奇心丸出しの質問攻めにすることはなかった。
そしてヒカルはといえば、要所要所で誰もが静かに説明を聞いている時も、落ち着きなくそわそわしてはいたが、特に騒いだりはしなかった。
借りてきたネコ、とまではいかないが、さすがに他校の中で騒ぐほど無分別ではないらしい。

「なあ‥‥‥‥」
「なに？」
「こないだの、あれ‥‥‥‥さあ」

ヒカルは視線を上に向けてぽりぽりと鼻の頭をかいていた。

「‥‥この前、僕が君に中押し負けした一局？」

ヒカルはぎょっとしたようにアキラを振り返った。
「あれはっ、だから‥‥っ！」
「進藤くん、声が大きい」
ヒカルが慌てて口を押さえた。

ヒカルは気にしているのだろうか。
対局の後、一言も話さなかった、彼の言葉に何も返さなかった自分に。
確かにあの時は、あまりの衝撃に打ちのめされた。
大きな壁。平たんな道に一転して現れたダンジョン。
でも、分かったのだ。
中学校の囲碁大会で見た、あの美しい一局。
それを超えなければ、神の一手どころか、何物にも近づけない、と。
今までの自分に努力が足りなかったとは思わない。
けれどたぶん、本当の道はここからなのだ。
そうと分かれば少なくとも、どんな壁だろうと道だろうと、負ける気はない。
いや、負けない自信がある。

「言ったろう？ぼくは君から逃げたりしないと」
「塔矢‥‥‥‥」
「君と、また打ちたい」
「オレと？」

ヒカルはきょとんと丸い目をさらに見開き、ついで困ったように髪を無造作にかきまわした。

「オレも、打ちたいけどなー‥‥打ちたいけど、打たない」
「なぜ！」
「‥‥だって、お前、強いし」
「でも、君に負けた。君はあんなに強いじゃないか」
「あれは、さあ‥‥‥‥‥‥」

ヒカルは、ああもう、なんて言えばいいのかな、とぶつぶつつぶやく。
宙を見て、まるで誰かと相談するように。
やがて、

「‥‥‥‥お前さあ、だって、すっげー真剣じゃん」
「え？」
「オレ、真剣にやりなさいって言われても、今までどうするのが真剣なのか分かんなかったけど‥‥‥‥お前見て、すげーと思ったよ。あーゆうの、オレはなったことないから」
「‥‥そういえば、子ども囲碁大会を見て感動したって、言ってたね」
「そうだっけ？」

へへへ、とヒカルが笑う。

「だからさ、お前、すげーヤツじゃん。お前、強いと思うし、真剣なの、かっこいーと思ったもん」
「‥‥褒めてくれるのは嬉しいけど、それと『打たない』のと、どういう関係があるんだ」
「だからさあ、オレは、まだ真剣じゃないから」
「真剣じゃない君に負けたぼくはどうなる」
「あー、じゃなくてっ、やるんだったらお前と同じくらい、真剣に戦いたいの！オレが」
それじゃあ、だめかな？

まん丸い瞳が、上目遣いにアキラを見上げる。

あんなに強い打ち手だというのに、まるでアキラには及ばないとでも言いたげな言い分が、どうしても納得いかない。
それでも彼なりに理由を伝えようとはしているようだが、どうもいまいち要領を得ない。
だから、言った。

「ぼくは、君となら神の一手だって目指せると思う」

大きな目がまん丸になって、アキラを映す。
やがてぶつぶつつぶやいたかと思うと、ヒカルはふと、小さく笑った。

さっきまでとは違う、妙に大人びた、やさしい笑み─────。

「なんだ、お前、元気じゃん」
「慰めようとしてたのか」

少しむっとして言い返す。
そーじゃなくてさあ、とヒカルはやや逃げ腰になって。

「そりゃ、気にはなってたけど。でもお前もう、『前進あるのみ！』状態じゃん。そのまま、まっすぐ進んでけよな」
「君は？」
「オレ？」

んー、としばらく唸って、かなり長い間唸って。

「‥‥‥‥せめてなー、もーちょっと、待っててくれれば‥‥」
「もうちょっとって、どのくらい？」
「う、あー、‥‥５年‥‥いや、２年くらい、かなあ」
「‥‥ふざけてるのか」
「ふざけてなんかねーよ！オレ、ニギる、とか、コミ、とか知らなかったじゃん」
「そんなの、もう覚えたろう」
「そーなんだけど、そーなんですけど！」

お前っすっげーこえーよっ、と言われて気づいてみれば、そこは中央広間を上から見下ろせる、バルコニーのような場所で、ヒカルはアキラに迫られて小さく縮こまっていた。
不承不承、アキラは引き下がった。

「‥‥なにも、公式戦で打とうと言っているわけじゃないんだ。君と打ちたいだけなんだ────何百局、何千局でも」
「そんなに打ったら、オレ死んじゃうよ‥‥‥‥」

一局打っただけでも死にそーに疲れたのに、そんなことをぶちぶちとつぶやいている。

人数がある程度集まったところで、係員が説明を始めた。

────中央広間は４階まで吹き抜けになっていて、これは奈良の五重塔がすっぽりと入るほどの大きさがあります。また‥‥。

「なあ、塔矢。壁に絵が描いてある」

ふいに、ヒカルが小さな声で話しかけてきた。

「あ‥‥ああ。あれは、吉野の桜だよ。『春』を描いているんだ。『夏』の十和田湖、『秋』の奥日光、『冬』の日本アルプスの四つで、日本の四季を描いているんだよ」

ふーん、と、ヒカルは小柄な身をバルコニーにもたせかけるようにして、絵を見つめていた。
子犬のようにはしゃいでいたヒカルが、大きさの割に眼下の３体の銅像よりもめだたない壁面の絵に興味を持ったのが、なんだか意外だった。

一団が動き出した。
「進藤くん？」
「────え？ああ‥‥」
ヒカルは、はたと気づいたように顔を上げた。
アキラは、行かなければならない。

「オレ、ここでみんな待ってる」
「え────」
「もうちょっと、あの絵、見てくから」

「‥‥‥‥意外だな」
「なにが？」
「あんな絵に興味があるようには見えなかったから」
「あー、アハハハハ‥‥興味はないんだけど、ちょっと、ね」
また、何かぶつぶつつぶやいている。そう言えば、進藤はやたらと独り言が多い。

「塔矢君！」
クラスメートの声。
「行けよ。おいてかれるぞ」
「‥‥分かってるよ」

アキラは踵を返しかけ、ふと振り返った。
まっすぐに、真剣に、ヒカルを見つめる。

「君は、いつかまた、ぼくと対局してくれるだろうか」

ヒカルはうー、と唸りながら、髪をかきまわした。
だからさあ、とか、ほんっとこいつってばしつこい、とかつぶやいている。

「進藤ヒカル」
「‥‥‥‥お前が戦いたいのはさあーーー」

ふと、口をつぐむ。
また、ぶちぶちとつぶやく。
そして、

ヒカルが笑った。


「いつか、な」


「あああああーーーーーーっっ！！」
突然の大音量に、二人はぎょっとして振り返る。

「何でこんなとこにいるのよ、ヒカルぅーーっ！」
「せんせー！先生、ヒカルいたよ！！」

「あちゃー、まーた怒られる‥‥」
「自業自得だ」
「だってさあ」

塔矢に会えたから、嬉しかったんだよ。

思いがけない改心の一手を打たれたような気分で。

ヒカルが、ニッと笑った。

「じゃあな、塔矢」
「進藤‥‥」
「冗談抜きで、マジ置いてかれるぞ」

「進藤」
「ん？」
「『いつか』って、言ったよね？」
「え、えっ!?」
「言ったよね!?」
「いい、言った、けど‥‥‥‥！」
アキラはにっこりと、天使の笑顔をヒカルに向けた。
ヒカルがたじろぐのなんて、予想通りだ。
言い逃れなんて、させてやるものか。
「じゃあ、進藤くん。またね」

アキラは小走りにクラスメート達を追いかけた。
背中ごしに、「進藤君！勝手な行動をするなと、あれほどあれほど言ったでしょうっ」と甲高い声が聞こえたけれど、振り返らなかった。
きっとまた、へらへらと笑ってごまかしているに違いない。


今度対局できる時まで、ぼくはぼくのできる精一杯の努力をしよう。
精進を重ねれば、君はぼくと対局してくれるだろうか。


────お前、すげーヤツだよ。真剣なの、かっこいーと思ったもん。


外へ出れば、青空が輝いていた。
まぶしさに少し目を細めて、アキラは駆けだした。