君と出逢う日に〈藤香添〉

	君と出逢う日に藤香添
	つい一月ほど前までは、どこもかしこも、空気すらその色なのではないかというくらい、薄紅色だったのに。「我が家の藤も咲きましたねぇ」それがいつのまにか──どの邸に行っても──どこもかしこも世界は「紫色」だ。「小さいな」ヒカルが肩越しにそう言うと、佐為は心外だというように眉を寄せて振り返った。「確かに小さいですけれど、でも　ほら、こんなに色は鮮やかなんですよ。綺麗じゃありませんか」「まあな…でもなんで、おまえん家のはこんなにちっこいんだよ。藤は『藤原』の花なんだろ」「まだ若木なんですよ。この樹がここへ来て、まだ十年と少しですから」そう言って藤を見つめる眼差しは優しく、どこか懐かしげだ。佐為は身を屈め、花を一房手に取ると、口づけるかのように鼻先を近づけた。「‥‥藤って、匂いするの」「ええ、とても良い香りですよ」実体を持たないヒカルには、匂いというものが分からない。だからというわけでもなかったが、ふうん、と漏れた呟きは、自分でも分かるほど投げやりだった。あ、と見れば、佐為の微笑が困惑に曇っている。もちろんそんなつもりはなかったから、ヒカルは内心で舌打ちした。「ヒカルは、藤をあまり知らないのでしたよね」「‥‥でもこないだ、すごいの見たし」左大臣邸の広大な藤棚や野生の山藤を見たのは、つい三日前のことだ。「あれも、匂い、した？」「ええ。とても」「どんな匂い」「どんな…って、え、ええと…」佐為は頭を抱え、あれ、とか、うう、とか、意味のない言葉で唸りながら、忙しなく動きだした。はっきりいって、奇妙この上ない。「おい、佐為…」「ええと、ええと‥‥うう、香りを言葉で表すのは難しいですぅ‥‥」「だろうな」「でも悔しいので、ちょっと待ってください」「や、もういいって…」百面相ならぬ百態(？)を見るのはなかなか面白かったが、別に大して興味があるわけでもないことにそこまでさせるのも忍びない。だいたい、小さな藤の木の前にしゃがみ込んで、紫の花房に鼻をつっこむ様は、とてもではないが宮廷のお姫様達に見せられたものではなかった。けれど、そんな姿に、むしろ優越感に似た愛しさを感じる自分は、人が悪いだろうか。「佐為」「うーん、うぅぅうん‥‥‥」「さい」「もうちょっと。もうちょっと待ってください」「佐為！」「はいっ」ぴょん、と跳ねるように顔を挙げた佐為が、丸く瞠った二の瞳にヒカルを映す。「あのさ、匂いがどうのって言われても、どうせオレ、本物嗅げないし」「あ…」途方に暮れた幼子のような貌に、ヒカルは悪戯っぽく笑った。「だからさ、一局、打とうぜ」「あ‥‥はい！」即答かよ、と、冷やかし半分で返した言葉になど、びくともしない。先程のまでのこだわりはどうしたと付け足したところで、以下同文に違いない。ヒカルが踵を返すと、佐為は衣擦れの音を上品とは言い難い無造作さで鳴らして立ち上がり、ついてきた。「わあい。対局対局」「おまえさ、花とか笛とかミヤビとかって、おまえの中で二番だろ。で、碁が一番なんだよな。それも遙か彼方にぶっちぎりの」「はい」「‥‥‥‥」こいつは絶対、言われた言葉の意味を分かってない。それはもう、明らかに浮かれた表情や歩き方を見れば分かろうというものだ。「何がそんなに嬉しいんだか」「だって、碁が打てるんですよ」「毎日あちこちで打ってるだろ」「ヒカルと打てるのが嬉しいんです」「‥‥なんで」「特別ですから」「‥‥‥‥‥」ヒカルは片手で口元を覆った。直球が鳩尾にめりこんだかのような感覚、これが思った以上に自分には衝撃だったらしい。でもきっと、佐為は気づいていないだろう。気づいていない、はずだ。今の彼の頭の中には、十九路と黒白の石がごっそり詰まっているはずだから。「ヒカル‥‥耳、赤くなってますよ？」「なってねぇよ」後ろからついてきていたはずの足音が急に速くなって、佐為がひょい、と隣に並んだ。ぎょっとした。「ヒカル？」「っ…先行って、碁盤、用意してこいよ」「あ、はい！」艶を含んだ藤色の袂が、大きく翻った。柔らかな衣擦れの音──。駆けだした佐為を追うように、木々の葉が一斉に震えた。風が吹いたのだ。ゆるやかに、細やかに、若葉は光を蒔きながら、高らかに歌う。ヒカルは足を止めた。ふと、振り返る。瑞々しい緑の合間で、紫の花房が揺れていた。「‥‥‥‥」耳をすます。けれど葉擦れかそうでないかの区別はつかない。それでも、目で聞くその音は、いつの間にかこの間聞いた、佐為の笛の音だった。「ヒカル！」佐為が呼んだ。 ──それこそが、全てを鮮やかに彩る『鍵』なのだとは、きっと思いもしないのだろう。「…今行く！」縁先で、佐為が嬉しそうに微笑んだ。ヒカルの声が届いた証拠だ。軽やかに。晴れやかに。風が歌いながら、青空へと駆け上がった。
	2007.5.12