再会 〜君とまた出逢う日に〜

「ああ、ほら‥‥ヒカルが来た」 ひどく楽しげに、どこか得意げに。 そして見るからに、嬉しそうに。 佐為はヒカルを見て、そんなことを言った。 佐為は、凛と背筋を伸ばして、そこに端座していた。 彼の前には、碁盤があった。 盤上に、未だ石はなかった。 「‥‥よう」 軽く片手をあげて、ヒカルはゆっくりと近づいていった。 佐為のやわらかな視線が、ヒカルを追った。 その微笑がたまらなく懐かしく、ヒカルに微苦笑を呼び起こす。 ヒカルは碁盤の前まで来ると、すとん、と佐為の対面に腰を下ろした。 「‥‥あんまり、驚かないのな」 「だって」 佐為は、余る袂に隠れた手で口元を覆い、くすくすと笑った。 「‥‥なんだよ」 答えるヒカルも、口調の乱暴さとは裏腹に、笑みが隠しきれない。 「あ、そうだ」 佐為の様子にふと思い出し、ヒカルはズボンの尻ポケットを探った。 慣れた手つきで抜き取ったそれを、佐為の手元に突きつけた。 「ほら」 佐為はきょとん、と、その白扇を見つめた。 「ヒカル‥‥？」 「返す。これはやっぱり、おまえのものだし」 「でも‥‥‥」 戸惑うように揺れた佐為の瞳に、ヒカルは「いいから」とさらに押しつける。 「佐為がオレにくれたかったのは、〈扇子〉じゃないだろ」 「ヒカル」 「すごく心強かった。これのおかげでがんばれたことも、正直いっぱいあった。でも、もう大丈夫だから。オレは佐為のために碁を打ってるんじゃない。オレは、オレ自身のために打ってるんだよ。これは、佐為のものだから。だから、返す」 少し照れくさくて、視線をそらす。 と、やがて、手にした扇子から、受け取られた感触が伝わってきた。 目を戻すと、佐為の白い手が、確かに一方の端を握っていた。 「‥‥では、確かに」 「あ‥‥‥‥うん‥‥‥‥」 ぼんやりと、ヒカルは握っていた掌を開いた。 白扇が、佐為の両手に戻る。 佐為はいとおしげにそれを見つめ、やがてヒカルに鮮やかな笑顔を向けた。 「ありがとう、ヒカル」 「ええ？礼を言うのはオレのほうだろ」 「いいえ‥‥いいえ」 佐為は首を振った。 「ヒカルはちゃんと、すべてを受け取って、預かっていてくれました。それが、嬉しいのです。ありがとう、ヒカル」 「‥‥改まって言うなよ」 「相変わらず、照れ屋さんですねぇ」 このやろう、とヒカルは唸る。 「おや、耳が赤くなってきた」 「うううるさいっ」 くすくすと笑う佐為の口元に、白扇の先が添えられる。 それは懐かしく、温かい記憶。 もうずいぶんと時を経たはずなのに、流れ込む温かさは、あの頃と少しも変わらない。 憮然とふくれてみせながら、それでもやっぱり佐為には扇子がないと、と満足する。 「‥‥ほら。打とうぜ」 ヒカルは傍らに置かれた碁笥の蓋を取り上げた。 「はい」 たおやかに微笑んで、佐為も傍らへと手を伸ばした。 ヒカルの碁笥の中には、つややかな黒石が詰まっていた。 まるで、『その時』を待つように、静かに収まる黒石を、ヒカルは指先でそっと撫でた。 「私が、白。では、ヒカルから。先手をどうぞ」 その声に顔を上げれば、佐為が見るからにわくわくした顔でヒカルを待ちわびている。 ヒカルは苦笑して、言ってやった。 「‥‥‥オレ、タイトル取ったんだぜ」 佐為は感嘆と共に瞠目した。 「ヒカルは、ずいぶんと強くなったんですね」 「おう。秀策にも並んだかもな」 「それは、すごい」 「だろう？」 ヒカルは得意げに、胸をそらせてみせる。 「それで？ヒカルは〈神の一手〉を究めたのですか？」 「‥‥‥‥んなわけないだろ」 また無邪気に、とんでもないことを言う。 がっくり頭を垂れたヒカルの前で、佐為は「でしたら」と、不敵にも見える瞳をして微笑んだ。 「私はまだまだ、ヒカルに負けていませんよ」 「どうかな。今だったらオレ、おまえに勝てる自信あるぜ」 「それは、以前の私でしょう？私とて、天寿を全うするまで研鑽を積んだのですから」 「天寿？え、だって、おまえ‥‥」 自殺したんじゃ────。 驚くヒカルに、佐為は悪戯っぽく笑った。 その表情で、ヒカルはおおよそのことを理解した。 「‥‥‥‥ふぅん。そういうことか」 「はい」 ────彼は助かったかもしれないよ。君と同じように、九死に一生を得たかもしれない。それでまた、碁を打ち続けるんだ‥‥自らの手で。 あの後。 そう言ったのは、ヒカルの生涯のライバルだった。 それは、ヒカルを元気づけようとしたいがための、彼なりの方便だっただろう。 彼は、すべてを知っていたわけではなかったから。 それでもヒカルは、そうだといい、と思った。 そう願っていたから、あっけなく理解できた。 「なるほどな」 わくわくしてきた。 この、高揚感。 その、なんと幸福なことか────。 ヒカルの傍らで、碁石がジャッっと音をたてた。 指先に吸いつくように、馴染んだ感触。 「いくぜ」 空を裂くように、ヒカルの腕が翻る。 パチン 応じるように、佐為の白い袂が広がった。 「佐為」 盤面を見つめたまま、ヒカルは言った。 「まだ、目指してる？」 「はい」 何を、とは訊かない。 「‥‥‥遠いな」 「遠いですね」 パチン、と、軽やかな音が鳴り渡る。 「その相手に、オレはなれるかな」 「ええ、もちろん」 即答されて、ヒカルは顔を上げた。 佐為は扇子を胸元に、悠然と微笑んでいた。 「ヒカル、言ったではありませんか」 「何を？」 「私が〈神の一手〉を望むかぎり、つきあってくれるって」 「‥‥‥言ったっけ？」 「言いましたよ」 言ったかなぁ、と記憶を片端からひっくり返して、そういえば言ったような、言わなかったような、という気になる。 「‥‥そんな昔のこと、忘れたよ」 「ええ？私は、私の相手はヒカルと思っていたのに」 「ずっとそう思ってた？」 「もちろん。ヒカルはもっと強くなると信じていましたからね」 子供のように拗ねてみせる佐為に、ヒカルはつい吹き出してしまった。 嬉しかったから。 「拗ねるなよ」 「だって」 「オレでいいなら、一緒につきあってやるよ」 「本当に？」 「ああ‥‥‥一緒にいられるかぎりは、な」 永久、というものがあり得ないことを、ヒカルは知っている。 だから、共にある間は、精一杯共にありたいと思う。 そう、願う。 そう、誓う。 次に出逢う時まで、自分に自信を持っていられるように。 「でもさあ、いくらオレや佐為が強くても、同じ相手とだけじゃまずいんじゃないか？」 「まずい、ですか？」 「いろんな相手と打って、ぶった切っていかないと」 「はあ‥‥‥」 佐為はきょとん、とヒカルを見つめる。 「よし。決めた」 ヒカルは胡座に組んだ膝に手をついて、身を乗り出した。 「これ打ったら、みんなのところへ行こうぜ」 「みんな？」 「みんな。塔矢とか、あいつの親父とか、伊角さんとか和谷とか越智とか、あとおまえが知らないヤツらとか」 「塔矢。懐かしいですねぇ」 佐為の表情が輝く。 「ヒカル、塔矢に勝てるようになりましたか？」 「なったよ！なったけど‥‥」 「けど？」 「‥‥アイツはな、めいっぱい強くなっても、ちょっとやそっとじゃ勝てねーんだよ」 「それはそれは」 クスクス、と佐為が笑う。 「では、この一局が終わったら、彼らのところへ行きましょう」 「ああ」 「どうやら、私の勝ちのようですし？」 「っ‥‥お、オレはなぁ、後半からがすごいんだぜっ？」 「ほう、それは楽しみですね」 ヒカルの碁笥が、ジャッ、と鋭く鳴る。 パチン パチン パチン──── 遠く続く道の向こうに、光がさしていた。 その音は一つずつ、まるで意志を持つかのように。 すうと吸い込まれ、消えていった。

2004.4.5