空に近い場所

「〈空〉が見えるところって、知らない？」 「空ぁ？空やったら、そこに見えてるやん」 あまりにも唐突なヒカルの問いに、社は目を瞬かせる。 ５月５日。午後３時を少しまわったところだった。 「そうなんだけど、う〜ん‥‥もっと、ちゃんとした〈空〉だよ。どっかで見れないかな」 「なんや、それ」 傍らで、アキラが怪訝そうに眉を寄せていた。 ホテルのエントランスロビー。 国際色あふれた客が多く行き来する中、３人は柱の傍にかたまり、彼らのまとめ役が戻ってくるのをぼんやりと待っていた。 倉田が戻ってくれば、解散となる。 そのエアポケットのような空いた時間に、ヒカルはいきなり、そんなことを言い出した。 午前中まで、３人は北斗杯を戦っていた。 結果は、昨日に引き続き、１勝２敗。 日本は最下位に終わった。 「〈空〉が見たいんだよ」 なおも、ヒカルは言った。 「こう、頭の上全部、空、みたいな？できれば、高いとこだと、もっといいんだけど」 社が軽く唸った。 「せやったら、ここの屋上は？」 「屋上か‥‥入れるかな？」 「さあなあ」 アキラが口を開いた。 「訊いてこようか？」 「塔矢‥‥？」 そこへ、倉田が戻ってきた。 「おおい、じゃ、解散するぞー。お疲れさん」 「お疲れさまでした」 三人それぞれに言葉を返す。 そのままフロントへと戻っていったアキラを見て、倉田が不思議そうな顔をした。 「なんだ？塔矢のヤツ、どうしたんだ？忘れ物か？」 「いや、進藤が『空が見たい』言い出して」 「空？」 社の説明に、倉田は丸い目をさらに丸くした。 「空なんか、どこだって見られるじゃん」 「オレらもそう言うたんですけど、もっと高いとこからがいいてこいつが言うもんで、で、ここの屋上に上がれるか塔矢が訊きに行ったんです」 「ふ〜ん」 倉田は気の抜けた相槌を返して、じろじろとヒカルをねめつけた。 ヒカルはきまりわるそうに口を閉ざす。 「進藤ってさあ」 ぽん、と、倉田の口から飛び出した。 「やっぱ、ヘンなヤツっ」 「いっ、いいでしょう、別に！オレの勝手じゃんっ」 ヒカルが言い返す。 いいよ、オレには関係ないもん、そんなことを飄々と口にして、倉田はそれきりどうでもよくなったのか「じゃあな」と帰っていってしまった。 「‥‥進藤て、倉田さんと仲ええねんなあ」 「悪くはないけど、いいってほどじゃないよ」 「ってゆうか、あの倉田七段と〈仲良し〉レベルのつきあいってのが、そもそもすごいと思うわ」 「倉田さんはね。ちょっといろいろあってさ」 「『いろいろ』て？」 「まあ‥‥‥いろいろ」 ヒカルが外した視線の先に、フロントから戻ってくるアキラの姿があった。 「屋上、特別に開けてくれるって」 ホテルの、ヒカル曰く「なんかエラそう」な年輩の従業員に連れられて、３人は屋上へとやってきた。 なんの変哲もない鉄製のドアを押し開けて外へ出ると、強い風が激しく吹きつけてきた。 「うわっ‥‥‥‥‥」 最後に出た社が、思わず声をあげる。 「高いですから、気をつけてください」 従業員に言われて、はあ、と社が答えた。 ヒカルとアキラは、まるで聞こえていないかのように、さっさと柵に手をかけていた。 ヒカルは、まず眼下を見下ろし、それから空を見上げた。 アキラはそんなヒカルを、ただじっと見つめていた。 「空、見れたか」 そう声をかけながら、社も柵に近づいた。 手をかけて、なにげなく下を見下ろす。 高い。 なにより吹き上げる風にさらわれそうな感覚に、柵を握る手に力がこもった。 隣を見れば、ヒカルはただじっと、空を見上げている。 社も空に視線を馳せた。 まるでおもちゃ箱のようにごちゃごちゃと詰まった街の上には、雲一つない真っ青な空が広がっていた。 「進藤」 アキラが呼ぶと、ヒカルは空を見上げたまま、う〜ん、と唸った。 「なんかさあ、やっぱ違うんだなあ」 「違うて、なにがや？」 社も反対側から問いかける。 ヒカルは柵に額をつけて、やっぱり唸った。 「う〜ん、やっぱ違うぅ」 「だから、なにが違うんやな？」 社は呆れて、柵にもたれかかる。 と、ヒカルを挟んだ向こう側で、アキラが吐息をついた。 「進藤、行こう」 「塔矢？」 「ここじゃないんだろう？場所を変えてみよう」 あっさりと柵を離れたアキラに、社は「えええ？」と声をあげた。 「場所変えるて、どこへや？変えたって、〈空〉なんてどこも同じやん」 「同じじゃないんだろう、進藤には」 「塔矢‥‥」 ヒカルが驚いたように目を瞠る。 突風が、アキラの切りそろえた黒髪をはね上げて通り過ぎていった。 「ほら、時間がもったいないよ」 鋭い眼差しに、どこかやさしい色が滲む。 「ああ‥‥‥うん────」 ヒカルはアキラを追うように、柵を離れ、ふと社を振り返った。 「あ、社、先帰ってもいいぞ」 「はあぁっ？」 「だって、新幹線の時間とかあるだろ？」 社はがしがしと髪をかきまぜた。 「‥‥‥ええわ、もう。乗りかかった船やし、つきおうたるわ」 「別にいいのに」 「帰ってほしいんか」 「そんなことねェよ‥‥‥ああ、できれば一緒に来てほしいかな。あ、塔矢も」 「はあ‥‥‥‥‥？」 なぜ、とは２人とも聞きそびれてしまった。 「行こうぜ」 ヒカルがふいに笑みを見せて、さっさと歩き出したからだ。 ３人の少年達は、〈空〉を探して、都内を歩きまわった。 頭の上いっぱいに広がる〈空〉。 高い場所から見る〈空〉。 「東京タワーは？」 「サンシャインとか」 「都庁も高いよね」 けれどどれも、ヒカルの表情はぱっとしなかった。 お台場で観覧車にも乗った。 「男３人で観覧車て‥‥なんやムナシない？」 狭いボックスの中で、社は膝の上で頬杖をつき溜め息をついた。 「東京観光をしたと思えばいいんじゃないか」 向かいに座ったアキラが律儀に答えた。 社は、アキラの隣で一人窓の外を見ているヒカルに向かって言った。 「進藤、どうや？」 「どうって？」 きょとん、とヒカルが振り返る。 「だから。〈空〉、見つかったかて」 「ああ‥‥うん、〈空〉ね。やっぱ違うんだけどさ────」 「『けど』？」 ヒカルは口元に笑みを載せたまま、再び窓の外へと目を向けた。 ゆっくりと、地上のものが小さくなっていく。 やがて差し込んだまぶしい光に、導かれるように、３人は一つの窓に顔を寄せた。 「海だ‥‥‥‥‥」 きらきら　きらきらと。 「‥‥すごいね」 「ああ、なんか、ええな‥‥‥」 海の上で、細かな光がきららかに踊っていた。 午後の日差しから生まれた無数の光が、海いっぱいに広がっていた。 ヒカルは窓ガラスにぺたりと両手をついて、食い入るように見つめていた。 まぶしそうに細められた瞳の中に、たくさんの光が踊る。 ふと、ヒカルは吐息のようにつぶやいた。 「‥‥もっと早く、来たかったな」 「はあ？せやったらもっと早う言えや。そしたら、あっちゃこっちゃまわらんでよかったのに」 社が思いきり眉を寄せる。 あ、とヒカルは気づいて、そうじゃなくてさ、と困ったように笑いながら言った。 「もっとずっと前にさ、来ればよかったなと思ったんだよ」 社は頭をひねった。 「‥‥‥自分、観覧車乗るの、初めてか？」 「いや。幼稚園くらいまでは乗ってたぜ。小学校からは、絶叫系専門だな。あ、塔矢って遊園地行ったことあるのか？なんか、想像できねェ」 「失礼な。遊園地くらい、行ったことあるさ」 「誰と？」 「それは‥‥‥家族で行ったこともあるし、芦原さん達に連れていってもらったこともあるし────」 「家族って‥‥あの、塔矢先生も？」 「一度行ったよ‥‥‥‥って、なんだい、その顔」 「‥‥‥‥‥‥‥‥なんか、すっげェ想像できねェ」 いつの間にか遊園地談義に花が咲き、気がつけば、地上に帰り着いていた。 「‥‥‥さて。次、どこ行く？」 観覧車を降りて、社が訊く。 「進藤、どうする？」 アキラに問われて、ヒカルはう〜んと唸りながら、空を仰いだ。 〈空〉が見たかった。 なぜか、無性に、〈空〉が見たかった。 ─────『なぜ』？ なぜ、自分は〈空〉が見たいのだろう。 自分が見たい〈空〉は、どんな〈空〉なのだろう。 どの〈空〉なのだろう。 ────‥‥‥‥‥。 ────‥‥‥‥‥ル‥‥。 「‥‥‥‥‥‥オレ、帰る」 「はあああぁっ?!」 突然のヒカルの言葉に、社とアキラはあ然とした。 「帰るて‥‥‥自分、ここまで人振り回しといてな────」 「ごめん、でも、やっぱりあそこだ」 「あそこ、てどこや？」 「学校」 そう答えながら、もう背を向け足早に歩き出す。 そんなヒカルを追ったのはアキラだった。 「進藤、学校って、葉瀬中？」 「ああ」 「お、おい待てや！オレも行くし！」 早くも遠ざかりつつある二人を追って、社は走り出した。 電車を乗り継いで、葉瀬中学の前にたどり着いた時、空の青は少し薄らいでいた。 「ここ？自分が通ってた学校て」 「うん」 休日の学校は、しんと静まりかえっていた。 「なあ、休みやし、誰もおれへんのとちゃう？」 「たまに、先生来てることがあるんだよ」 「たまに、かい」 正面へとまわるヒカルの後を、呆れ顔でついていく。 「ああ、でも、いらっしゃるようだよ」 そう言ったアキラに、社は怪訝な顔をした。 「なんで分かんねん」 「ほら、あそこ。電気がついてる。あそこ、職員室だろう？」 アキラが指さした先には、確かに蛍光灯が白く光っていた。 「あ、ホンマや‥‥ってか、塔矢、ここの生徒と違うんやろ。よおあそこが職員室て知っとったな」 「塔矢、何回か来たことあるもんな」 前を行くヒカルがくすりと笑う。 「‥‥あんまりいい思い出はないけどね」 憮然としたようなアキラの声に、ヒカルはそらぞらしく視線を泳がせた。 運良く、職員室にいたのは、ヒカルの知っている教師だったらしい。 どうしても、１０分でいいから、とヒカルはさんざん拝み倒して、やっと屋上へ出る許可と鍵を手にすることができた。 屋上へ飛び出したヒカルは、校庭側の柵へと駆け寄った。 「うわあ、懐かしぃー！」 あとから出てきたアキラと社は、ぐるりと周囲を見渡した。 広い校庭の向こうに、たくさんの家が建ち並んでいた。 その隙間を埋めるように、緑が鮮やかに輝いていた。 少し離れたところに、別の学校が見えた。 その向こうを、電車が走っていた。 頭上を、青い、青い空が広がっていた。 ヒカルは柵の下に足をかけ、大きく身をのりだして空を仰いだ。 少し冷たくなった風が、ヒカルの金の前髪をはねあげていった。 「なあ進藤、ここより、あのホテルのがずっと高かったやん」 ヒカルの背に、社が声をかける。 「なんでここ？そら、空は広いかもしれんけど」 「ソラソラ？それって、シャレ？」 「ちゃうわっ！」 アハハ、とヒカルが軽く声をたてた。 「いいんだよ」 ヒカルは言った。 「だってここが、一番高かったんだ」 「‥‥‥‥‥ホンマ、よう分からんねんけど」 社は首をひねった。 「‥‥‥‥‥‥‥んだ」 そのつぶやきを、アキラは聞き取れなかった。 「なに、進藤────」 アキラが訊き返そうとした、その矢先だった。 突然、ヒカルは叫んだ。 「チクショぉーっ、負けちゃったよおぉーっ！！」 アキラは瞳を瞠った。 社はその場で固まった。 ヒカルはなおも、空に向かって叫んだ。 「なんだよもおぉっ、まだまだじゃん、オレぇ！」 アキラはヒカルの隣へと近づいた。 身を乗り出すヒカルをそっとうかがい────吐息をついて、柵にもたれかかった。 「でも、やめねェからな！オレはぜったい、打ち続けるからなあーっ！」 晴れ晴れとした表情で叫ぶヒカルに、アキラの口元にも笑みが浮かぶのだった。 空はどこまでも広がっていた。 広がり、ただ穏やかに、見上げる三人の少年を包み込んでいた。

2003.5.6