Fly High!

「だからさ、ちゃちゃっと〈名人〉になっちゃえば、とりあえずカネは入ってくんだよ」

学校帰りに、いつものように父の経営する碁会所へ向かう途中のことだった。
雑踏の中で突然耳に飛び込んできたとんでもない発言に、アキラは鋭い視線を周囲にめぐらせた。

子供の、甲高い声。
そしてどこか、記憶の中に引っかかる声。

人混みを避けながら、小走りに先へ進む。
背中でランドセルがカタカタと鳴る。

「問題は、その先なんだよなあ。〈名人〉までは楽勝なんだけど」

いた。
カラフルな上着を着た、小柄な少年。
ふと横を向いた顔と、その特徴的な前髪は、見間違うはずもない。

「進藤！」
追いついて肩を掴み、力任せに引く。
相手は思いがけない方向から加えられた力に、引っ張られるまま２、３歩たたらを踏んだ。
「ぅわ‥‥‥‥‥っ」
ひっくりかえりそうになる彼に、アキラの方こそ驚いて、思わず手を放す。
それでもなんとか踏みとどまった彼は、これ以上ないだろうというほど瞳を大きく見開いて怒鳴った。
「‥‥ックリしたなあっ、なにすんだよ、いきなりっ！‥‥‥‥って、塔矢？」
「進藤」
ヒカルはきょとんとアキラを見つめ、ついで不思議そうな笑みを浮かべた。
「おまえっていっつもトツゼンなのな。って‥‥‥‥おまえ、なんか、怒ってる？」
笑顔のまま、ヒカルは一歩、二歩と後退を始める。
アキラは引き寄せられるように、無言で一歩、二歩とヒカルに近づいた。
それが、よほど恐ろしかったのだろう、ヒカルは頬を引きつらせて後ずさり、背中を街灯にぶつけてからは両手を胸の前に出して縮こまった。
「な、な、なに、なんだよ、塔矢！」
アキラはヒカルの正面にずん、と立ちはだかり、軽く息を吸った。

「‥‥〈名人〉が、楽勝だって？」
「は？」

ヒカルが目を丸くする。
もともと大きな目をしているから、今にもこぼれて落ちそうだ。

それほど脳天気な思考の彼に、アキラは心底腹を立てていた。

〈名人〉が楽勝？
ちゃちゃっと〈名人〉になる？

なれるものか。

いくら塔矢アキラに勝つほどの実力だとしても、塔矢行洋や、あまたのプロ達にそう易々と勝てるはずがない。
タイトルなど、そう簡単に獲れるものではないのだ。
それを────！

「キミなんか、〈名人〉になれるものか」
「なんだと」
ヒカルがムッとして眉根を寄せる。
「そんなこと、なんでおまえに分かるんだよ」
アキラは鋭く相手を見据えた。
「分かるさ。〈名人〉になるということは、そんなに甘いものじゃないんだ。ボクは確かにキミに劣るかもしれないけど、ボクだってあの時のままじゃない。第一、キミなんかより強い人はいっぱいいるんだからな」
「だから、なんだってんだよっ。おまえには関係ねぇだろっ」
「関係ない？」

アキラは、すう、と息を吸い込んだ。

「ふざけるなっ！」

ヒカルはビクリ、と体を反らせ、背後の街灯に思いきりしたたかに後頭部を打ちつけた。

ゴンッ

「ったぁ‥‥‥‥‥‥‥」
後頭部を押さえてうつむいたヒカルに、アキラはあ然とその場に固まった。

なんだ？
今、何が起こったんだ？

はた、と気づけば、道行く人がじろじろと眺めては通り過ぎていく。

アキラはとりあえず、ヒカルの様子を見ようと近づいた。
ヒカルはうつむいたまま、小さく唸っていた。

「し‥‥進藤‥‥‥‥‥大、丈夫？」
「大丈夫じゃねーよっ。おー、痛」
「ちょっと、見せて」
「や、いいよ」
「いいから。手を退けて」
「いいってば！」
「よくない！頭だろう、打ち所が悪かったらどうするんだ！」

アキラの迫力に、ヒカルは顔をあげる。
涙目ではあったが、泣いてはいなかった。

ヒカルは渋々手をどける。
アキラはそっと、その部分に手を這わせた。

やわらかな髪が、掌に馴染む。
なでさすると、かすかにふくらんでいるのが分かった。

「コブになってる」
「‥‥‥‥‥痛っ！痛いって、塔矢！」
ヒカルは手を伸ばしてアキラの手を振り払った。
「もおおぉっ！大丈夫だって言ってんのに」
「‥‥コブができているなら心配ないと思うけど、今日は様子を見た方がいいね」
そう言いながら、アキラはポケットを探り、ハンカチを取り出してヒカルに差し出した。
「‥‥なに、これ？」
「涙、出てるから」
「なっ‥‥‥‥泣いてなんかねぇよっ！」
ヒカルは腕をあげて、袖で目元をグイッとぬぐった。
アキラは軽く吐息をついて、無言でハンカチをしまった。

「もうっ、おまえのせいでさんざんだ」
不機嫌全開の様子で、ヒカルが言う。
「ぼくのせい？」
「そうだよ！」
ヒカルの言い分に、アキラはムッとして視線を険しくした。

そりゃあ確かに、自分が怒鳴りつけたせいでヒカルは頭をぶつけたのかもしれない。
けれど、元を正せば、ヒカルが許しがたい発言をしたせいではないか。

「でも、そもそもキミが世間を、僕らを舐めたようなことを言うからじゃないか」
「はあ？オレ、そんなこと言ってねェぞ」
「言ったじゃないか。〈名人〉なんて、楽勝だって」
「だって、ホントに楽勝なんだもん」
「どこまでうぬぼれるつもりなんだ、キミは！」
「ホントだってば！だってオレ、去年も〈名人〉まではいったんだぜ」
「去年？‥‥キミは〈子ども名人〉なのか？」
「なにそれ」
「なにって‥‥‥‥子ども囲碁名人戦のことじゃないのか？」
「囲碁ぉお？」
素っ頓狂な声で大げさなほど尻上がりに叫んだヒカルは、あ然とした顔でアキラを見つめ、次の瞬間思いきり笑い出した。
「囲碁って‥‥アハハ、そうゆうことか！」
「そうゆうことって、どういうことだ！なぜ笑う?!」
「だあってさあ」
ヒカルは笑いながら肩越しに視線を彷徨わせる。
おかしくて仕方がないといった表情で、何事かをつぶやくように唇が動く。
その不可解な仕草が余計に馬鹿にされているようで、アキラは気にくわない。
その不穏なオーラを感じ取ったのか、ヒカルはアキラと目が合うと、ようやく笑いを納めた。
ヒカルはごまかすように、コホン、と軽く息を整えた。
「塔矢、おまえの勘違い。〈名人〉は〈名人〉でも、碁の〈名人〉じゃないって」
「では、なんの〈名人〉だ」

ヒカルは悪戯っぽく笑って、さらりと答えた。

「縄跳び」

アキラはポカン、とヒカルを見つめた。

ヒカルの小学校では、３学期になると全校で縄跳びに取り組むのだという。
特に個人では、跳べた技とその回数によってランクづけされ、下は１０級から上は〈鉄人〉〈名人〉〈チャンピオン〉まであるらしい。

「〈名人〉まではカルいんだよ。でも、〈チャンピオン〉は学年１人でさあ、去年はホント、惜しかったんだ」
「キミが？」
アキラとしては純粋にヒカルの特技に感心しただけのつもりだったのだが、ヒカルはそうは受け取らなかったらしい。
心外だと言わんばかりに、顔をしかめた。
「なんだよ、疑ってるのか」
「別に疑ってなどいないよ。それとも、何かやましいことでもあるのか」
「ないよっ！オレ、ホントに〈名人〉なんだからなっ」
「ふ～ん、そうなんだ」
「おまえってなんか、言い方がいちいちむかつくな」
そうは言われても、思ったことを言っただけだから、何がヒカルの気に障るのか、アキラには見当がつかない。

さしあたって、誤解も解けたところでこれ以上話すこともないだろう。
「何か不快なことを言ったのなら、謝るよ。引き留めて、悪かった。じゃあ────」
そう言ってヒカルの横をすり抜けようとしたアキラを、ヒカルは呼び止めた。
「ちょっと待て」
「‥‥‥‥なに？」
振り返ると、ヒカルはまだ不満なのか頬を紅潮させて上目遣いに睨んできた。
「塔矢、これからヒマない？」
「碁会所へ行こうと思ってるんだけど」
「じゃあ、ちょっとつきあえよ。オレが〈名人〉だってこと、証明してやるから」
「いいよ、別に」
「オレがよくないのっ。なんなら勝負してもいいぜ」
「キミの言うことが本当なら、ボクじゃ勝負にならないと思うよ」
「なるかどうか、ちゃんと見て確かめろよ。なんだよ、こないだはオレ、おまえにつきあっただろ」
確かにヒカルを無理矢理つきあわせたあの２度目の対局を〈借り〉というなら、返しておくべきだろう。
「‥‥分かった。つきあうよ」
アキラは溜息をついて、踵を返したヒカルに並んだ。

「オレ、縄跳び買いに行くとこだったんだ」
そう言って、ヒカルは一軒の店に入っていった。
「ボク、まだ学校の帰りなんだけど」
「寄り道気にしてるのか？」
アキラが頷くと、ヒカルは呆れたような顔をした。
「このくらい、たいしたことねェよ。だいたいおまえ、しょっちゅう碁会所寄ってんだろ」
「あそこは父が経営しているから、いいんだよ」
「え、あそこっておまえんちがやってるとこなの？塔矢ってお坊ちゃんだったんだな」
なぜ、親が碁会所を経営していると、息子が〈お坊ちゃん〉になるのだろう。
ヒカルの論理が理解できなくて、アキラは首を傾げる。
「ほら、行こうぜ。だぁいじょうぶだって！」
そんなアキラをいっこうに気にするふうもなく、ヒカルはアキラの腕をぐいぐいと引っ張った。
アキラは今までに、これほど強引に何かを強いられたことはない。特に同年代の子ども達の中では、なおさらだ。
初体験に近い扱いに、気がつけば、アキラはヒカルのなすがままになっていた。

「進藤、縄跳び持ってないの？」
「こないだ、跳んでたら切れたんだよ」
ヒカルが手にしているのは、よく百円前後で売られているビニールのものではなく、見るからに専門的で、柄がやや長かった。
「やっぱさあ、百円のって限界あるんだよな。去年〈チャンピオン〉になったヤツがこういうの使ってるんだけど、貸してもらったらすっげぇ跳びやすいんだよ。お母さんにもらったお金じゃちょっと足りないんだけど、投資だと思えば無駄じゃないかと思ってさ」
「投資？」
縄跳びが、投資？
「そう言えば、さっきも〈名人〉になるとお金になるって、言ってたね」
「おー」
ヒカルは縄跳びを持ってレジへ向かう。
アキラも後からついていく。
「〈名人〉クリアしたら、５００円。〈チャンピオン〉になれたら１０００円もらえるんだ」
「誰に？」
「じーちゃん。お父さんとも、今、交渉中でさ、〈チャンピオン〉までいけば、もらえそうなんだよな」
「‥‥お金が目的でがんばるの？」
アキラが呆れてそう言うと、ヒカルはそれこそが不思議だというような顔で振り向いた。
「あったりまえじゃん。少ない小遣いアップのチャンスなんだぜ？オレ、欲しいものいっぱいあるもん。それに、結局縄跳びは上手くなるわけだし、体力つくし、オレが元気だと親もうれしいし、つまり、あれだ、なんてったっけ‥‥‥‥‥‥‥そうそう、一石二鳥！‥‥二鳥？四鳥くらい、いってるだろ？え‥‥まあ、いいけどさあ」
「‥‥進藤？」
「え、あ、アハハハ、なんでもない、独り言ヒトリゴト」
ヒカルはへらへらと笑って、片手を振った。

こんないいかげんなヤツに、二度も負けたのかと思うと、なんだか自分が情けなくなってくる。

「おおい‥‥とおや？とおやくん？顔が怖いぞぉ、大丈夫かあ？」
ヒカルが覗き込んでくる。
「怒った？」
「別に。怒ってないよ」
「怒ってんじゃん」
「怒ってないってば」
「本当に？ホントに怒ってない？」
「しつこい」
「‥‥‥‥‥‥‥」
ヒカルは両手をあげて降参のポーズをとる。
なんだよ、やっぱ怒ってんじゃん、ええ？んーもーしょうがないなあ、などと、また独り言をブチブチとつぶやいている。
ヒカルが品物を受け取ったのを見て、アキラは出口へと足を向けた。
ヒカルが慌てたようについてきた。
「なあ、塔矢は欲しいものってないの？小遣い足りてる？」
アキラはまっすぐ前を向いたまま答えた。
「欲しいものは特にない。必要なものはそのつど買ってもらえるし、足りないってことはないよ」
「さすが、お坊ちゃん」
「お坊ちゃんって言うな。キミより計画性があるだけだろ」
「だってさあ」
やっぱり欲しいものは欲しいんだよ、とヒカルはつけ足す。
店の外へ出ると、ヒカルはもと来た道を戻り始めた。
どこへ行くのかと尋ねると、「学校」と短い答えが返ってきた。

賑やかな街の中を、並んで歩く。
大きな大人達の間を、ヒカルは器用にすり抜けて歩いていくので、アキラはともすればおいて行かれそうになることもあった。

「そうか、おまえ、ずっと囲碁ばっかやってんだろ。他のこと知らないから、だから欲しいものないんだ」
「‥‥‥‥‥いいだろう、別に」
そう返す自分は、なんだか卑屈だ。
アキラはアキラだと、もっと自信を持てばいいのだろうが、ヒカルのように年相応の子どもらしくないという自覚があるだけに、ヒカルの前ではそれが小さな棘となって心に引っかかるのだ。
それを、塔矢は不機嫌なのだ、と受け取ったのだろう。
「誰も悪いなんて言ってないじゃん」
ヒカルは困ったようにそう言って、ふと小さく笑った。

「それだけ一生懸命になれるものがあるって、いいなって言ってんだよ。オレ、そうゆうの、ないもん。塔矢ってオレと同い年なのに、エラいよな」

「偉い？なんで？」
「『なんで？』？」
ヒカルは思いきり首を傾げた。
「なんでかな？んー‥‥‥‥ま、いいじゃん」
「‥‥キミって、なんでも『いいじゃん』ですますよね」
「いいだろ！オレだってよく分かんねぇんだよっ」
ヒカルがかみつくように言う。

アキラは思わず、くすくすと笑ってしまった。

ヒカルが誘うからには、そんなに遠くはないだろうと思っていたのに、目的の場所まではけっこう距離があった。
よく考えてみたら、ヒカルが縄跳びを跳ぶのを見るだけなのだから、なにもこんなに遠くまでこなくても、途中の公園でちょっと跳んでくれればよかったのではないかと、黙り込んだアキラは考える。

ヒカルの小学校は、とりたてて大きな特徴もない、ごくふつうのつくりをしていた。
「こっち」
ヒカルは迷いもなくどんどん先へと歩いていく。
アキラはランドセルをカタカタと鳴らして、小走りに後を追った。
校舎の脇をまわると、広い校庭が目の前に広がった。
放課後の校庭は、人気がなく、ときおり通る車の音や鳥の羽ばたきが、遠くこだましている。
思わず立ち止まったアキラの前を行くヒカルが、やおら片手を上げて遠くに向けて叫んだ。

「おーい！」
「ヒカル！おせぇぞっ」

見れば、遠くに少年達が５人ほど集まっていた。
ヒカルはアキラの存在など忘れているのではないかというように、突然走り出した。
「わりィわりィ、縄跳び買ったんだ。見ろ！これで〈チャンピオン〉はいただきだぜ！」
「うおぉ、すげぇ」
「ヒカル、気合い入ってんなあ」
ヒカルは買ってきた縄跳びを少年達の前に得意げに突き出していた。

ヒカルのその様子が、アキラは無性に癪にさわった。
人を誘っておいて、こんな遠くまで引っ張ってきておいて、放っておくというのはどういうことだ？

なんとなく輪に近づきづらくて、でも、だだっ広い空間に突っ立っているのもいたたまれなくて、アキラはのろのろと歩み寄る。
それを、少年達の一人が気づいて声をあげた。

「ヒカル、誰？あれ」
「え、ああ、ええと‥‥トモダチ？」
ヒカルが振り返って、「塔矢、来いよ」と手招きする。
アキラが近づいていくと、十の瞳が一身に集中した。
アキラは、わずかに空いたヒカルの傍らに立ち、軽く頭を下げた。
「こんにちは」
ほーっ、と声を吐息にして、５人がまじまじと目を見開く。
一人がぽそり、と挨拶を返した。
別の一人が、アキラを指さしてヒカルに言った。
「ヒカル、コイツホントにおまえのトモダチ？」
「なんで」
「なんかさあ‥‥なんか、なあ？」
「うん。イメージ違う」
「ヒカルのトモダチって感じしないよな」
「なんなんだよ、それっ」
ヒカルが心外だというように反論する。
「トモダチっていうか‥‥まあ、会うの今日で３回目なんだけど」
「それって、トモダチ？」
「あー‥‥やっぱ、ヘンか」
ヒカルが振り返る。
困惑げな視線がアキラのそれとつながった。
「じゃ、知り合い、かなあ、とりあえず。塔矢アキラっていうんだ」
「ふう～ん」
少年達は、分かったんだか分かってないんだかといった曖昧なつぶやきを洩らした。
「で？ヒカルは塔矢‥‥くん、と、どういう知り合い？」
「もういいじゃんっ、なんでもっ」
ヒカルはいつまでたっても質問を続ける同級生達に辟易した様子で、とうとう悲鳴を上げた。
「縄跳び練習しに来たんだろ！もうやろうぜ、オレ、コイツに技見せるために連れてきたんだから」
「どこから」
「駅のほう」
「うわ、遠いなあ」
少年の一人が呆れたように言った。
「ヒカルぅ、技見せるためだけだったら、途中に広場も公園もあるじゃん」
「あ、そうか」
初めて気づいたという様子のヒカルに、アキラは頭痛に似た感覚をぐっとこらえる。
「塔矢くん、災難だったなあ」
少年達の一人が、アキラに向かって言う。
アキラはぎこちなく笑みを返した。

「塔矢、そのへんに座ってろよ」
ヒカルが示したのは、すぐそばにある、今は旗のあがっていない掲揚台の階段だった。
言われたとおり、コンクリートの階段に腰を下ろし、ランドセルを傍らに置く。
ヒカルが一枚の厚紙を無造作に差し出してきた。
「なに、これ？」
「縄跳びカード。オレの」
少しくたびれたその厚紙には、くじゃくの羽を模して扇形にたくさんの○が並んでいた。
中には１０とか５０とかいった数字が印刷されていた。どうやら規定の技と跳べた回数に見合う数字のところを塗りつぶしていくらしい。
右上に乱暴な筆跡で『進藤ヒカル』と書かれたそれは、もうほとんどが赤や青などカラフルに塗りつぶされていて、残っているのはあと片手ほどだった。
「色ぬってあるヤツなら、オレできるぜ。どれが見たい？」
「どれって‥‥‥‥どれでもいいよ」
「おまえ、その『どーでもいい』的な態度、やめろよな。感じ悪いぞ」
ヒカルはむっとしたように唇を尖らせる。
アキラは困って、とりあえず思い浮かんだ技を口にした。
「じゃあ、二重跳び」
「バカにしてんのか？そんな簡単なのじゃなくて、もっとほかの言えよ」
今度はアキラがムッとする。
言えと言ったのは、ヒカルの方なのに。
「じゃあ、キミが一番得意なやつを見せてよ」
「得意なヤツぅ‥‥‥‥？」
うーん、とヒカルは大きく唸って、「じゃあ」と跳び始めた。

はじめに、軽く前跳び。
へぇ、と、アキラは目を見張った。

ヒカルが跳ぶ。
ふわり、と宙に浮くように、ヒカルは跳んだ。

周りで、他の少年達も思い思いに跳んでいる。
けれど明らかに、ヒカルの跳ぶ様は、群を抜いて『きれい』だった。

ヒカルはそのまま〈二重跳び〉に移った。
なるほど、アキラにとっては大技の部類に入るそれも、ヒカルのそれを見れば、確かに彼が『簡単』と言ったのも頷ける。

そのまま、交互に縄を交差させる〈はやぶさ〉に移る。
高い跳躍。
小柄な体が、宙に舞う。
座って下から見上げるアキラからは、青空に飛び立つようにさえ見えた。

「どう？」
心持ち息を弾ませ、頬を紅潮させたヒカルが、跳ぶのをやめて問いかける。
だから、アキラは思った通りを口にした。

「鳥みたいだ」
「鳥？」
「うん。鳥が空を飛んでいるみたいだった」

すると、ヒカルは照れたように笑った。

「おまえ、おんなじこと言うなあ」

「誰と？」
「んー、とね‥‥まあ、いいじゃん」
言葉を濁すように、ヒカルがへらっ、と笑う。
「塔矢も跳ぶ？」
「ボクはいいよ」
そう？と、それほど深く考えていなかったのか、ヒカルは軽く返してきた。
「じゃあさ、数かぞえてくれない？誰かが数えたんじゃないと、カードに色塗れないんだ」
「いいよ」
アキラが言うと、ヒカルはさっそく跳び始めた。

実にいろいろな技を、ヒカルはいともたやすく跳んでみせた。
色の塗られていない箇所は、跳べないのではなく、単にまだ取り組んでいなかっただけなのだろう。
後ろ二重。後ろはやぶさ。スーパーサイドクロス。
どれもアキラには跳べないが、ヒカルを見ていると簡単に跳べそうに見えてくるから不思議だ。
最後に、三重跳びを跳んでみせてくれた。
まるで宙に止まっているんじゃないかというくらい、ヒカルは高く跳んだ。
「‥‥８、９、１０」
「よっしゃ！名人制覇、１番乗り！」
太陽のように輝いた笑顔が、高らかに叫ぶ。
「よかったね。おめでとう」
ヒカルは一瞬きょとんとして、照れたように笑った。

「ところで、このカードが終わったら〈名人〉になるのは分かったけど、〈チャンピオン〉はどうやったらなれるの？」
いろんな技をごちゃ混ぜに跳んでいるヒカルに話しかけると、ヒカルは一端跳ぶのをやめて、軽く息をついた。
「〈チャンピオン〉？ああ、何種類かの技を連続で跳ぶんだよ。３０秒間、最後まで突っかからなくて、最後つま先で縄を踏めたらクリア。その中から、一番大技たくさん組み合わせて跳べたヤツが〈チャンピオン〉になるんだ」
「去年は、ダメだったんだ？」
「５年は三重跳び跳べなくても〈名人〉になれるんだよ。オレ、その時跳べなかったからさぁ。でもその時〈チャンピオン〉になったヤツは跳べてさ、すっげェくやしかったんだ」
「それで、がんばったんだ」
「おう」
「そのくらい、碁にも夢中になってくれればいいのに」
「ほんっと‥‥おんなじこと言うよなあ」
ヒカルは苦く笑ってそう言うと、ふとアキラの傍らに視線を向けて、舌をわずかにつきだしてみせた。

その視線の先を追って、アキラは振り返る。
もちろん、誰がいるはずもない。
ただ空間を、寒風が吹き抜けるばかりだ。

「‥‥‥‥‥‥進藤？」

視線を返すと、ヒカルは惚けるように目を彷徨わせた。
「ま‥‥‥いいじゃん」
「『いいじゃん』って、キミね」
「まあまあ」
ごまかすように笑って、ヒカルはさっさと跳び始める。
前跳びを軽く跳びながら、ヒカルは溜息をつくように言った。
「もうさあ、碁はしばらくいいよ。疲れるんだもん」
「それだけ体力あるんだから、疲れるはずないだろう」
「じっと座ってるのもアタマ使うのも疲れるんだよ」
「そうかな？」
「そうなの！」
ヒカルの力説が、アキラには理解できない。
「じゃあ、キミはもう打たないって言うのか？」
「そうだなあ、めんどくさいしなあ」

面倒くさい？
アキラは眉間に深く皺を寄せる。

その、直後だった。

「うっ‥‥‥‥‥！」

ヒカルが小さく呻いて、口元を押さえた。

「進藤‥‥ッ?!」
事態が飲み込めなくて呆然としたアキラの目の前で、ヒカルは地面にうずくまる。
「進藤っ?!」
アキラは叫んでその場を飛び出した。
うずくまったヒカルに駆け寄り、両肩を掴んで顔を覗き込む。
「進藤?!大丈夫か?!」
ヒカルは真っ青な顔をして今にも吐きそうだ。
それでも、空いた片手で「大丈夫だから」と言うようにアキラを押し戻そうとする。
騒ぎを聞きつけて、ヒカルの同級生達が駆けつけてきた。
「どうした？」
「進藤が、突然‥‥‥‥っ！」
「また?!」
「『また』？」
ヒカルの肩を抱きかかえたまま、アキラは愕然とする。
「進藤は、何か病気なのか？」
「病気っていうか‥‥なあ？」
「うん。年末に倒れて救急車で運ばれたらしいんだけど、それから時々こうなるんだよな」
「そうそう。でも、ほっとけばそのうち治まるから」
「『ほっとけば』?!」

こんなに具合が悪そうなのに、それを放っておけというのか?!
それに、進藤はここへ来る前に頭を打っている。
それなのにこんなに激しい運動をしたから、具合が悪くなったのではないか。

「進藤は、ここへ来る前に頭を打ってるんだ」
「えぇっ！」
少年達の顔つきが変わる。
ヒカルなにやってんだよ、と誰かがつぶやく。
それでも誰一人動こうとしないのに苛立って、アキラは鋭い口調で言った。
「誰か、先生呼んできて！早く！」
すると、全員がビクリ、と肩を震わせて、一斉に校舎に向かって駆けだしていった。
「ちょ‥‥‥‥ま、って‥‥‥‥‥」
呻くように、ヒカルが声を絞り出す。
「なに言ってるんだ！こんな状態で！」
アキラはぴしゃりと言い据えた。
「吐きたいなら、吐いてしまうといい。ここは外なんだから、気にしないで」
つとめてやさしく声をかけながら、丸めたヒカルの背をなでさする。
アキラは必死だった。

しばらくそうしていると、やがてヒカルの背が大きく上下し、溜息をつくのが聞こえた。
「進藤‥‥‥‥」
アキラは手を止めて、うつむいたヒカルの顔ををのぞきこむ。
ヒカルはその場にドサリと腰を下ろし、疲れたような笑みをアキラに向けた。
「も、ヘイキ。大丈夫だから」
「大丈夫って‥‥‥だって」
「ホント、ヘイキなんだって」
もー、ホント、世話がやけるよなあ、と、ヒカルが笑う。

向こうから、少年達が大人を連れて戻ってきた。

ヒカルは、家の人に迎えに来てもらおうという教師の言い分を、頑固に拒絶した。
「ホントに、大丈夫なんだって。ほら、もうこんなに元気ゲンキ」
明るく笑って、ヒカルはガッツポーズをしてみせる。
「でも進藤君、キミ、頭打ったんでしょう？」
「タンコブできただけだもん、大丈夫だって。それにほら、オレ、塔矢送ってかないといけないし」
「ボクは一人で帰れる」
「ウソつけ。送ってやるって」
「いいよ」
「よくないっ」
だだをこねるようなヒカルの様子に、アキラは呆れて眉を寄せる。
結局、ヒカルの家に電話を入れておく、というのを条件に、教師はヒカルを解放してくれた。
「進藤君、今日はもう帰りなさいね。縄跳び禁止」
「いいよ。先生見て！オレ、〈名人〉になった！」
「あら、がんばったわね。また明日見せてね」
全ての丸に色を塗った〈縄跳びカード〉を目の前につきだしたヒカルに、教師は苦笑しながらやんわりとそれを下ろさせる。
アキラは自分のランドセルを背負って、ヒカルの腕を取った。
「進藤、帰ろう。先生、失礼します」
「はい。さようなら。進藤君をよろしくね」
アキラは礼儀正しく会釈して、ヒカルを引っ張った。
ヒカルは友人達に手を振りながら、アキラのあとについてきた。

「進藤、本当に大丈夫？」
「しつこいなあ。大丈夫だって言ってんだろ」
ぶっきらぼうな言い方は、たぶん照れ隠しだろう。
そのあと、分かってるよ、とか、うるさいなあ、とか、他にも聞き取れない言葉をぶつぶつとつぶやいて、傍らを見上げている。
まるで、そこに何かがいるように。

太陽が、ずいぶんと傾いていた。
真っ青だった空が、いつの間にか薄くなり西から赤く色づき始めていた。

駅までついてきたヒカルが、別れ際にふと、つぶやくように言った。
「オレが今、スタートしたとこだとしても、おまえ、こうして話してくれるのかな」
「え？」
アキラは思わず聞き返す。
振り返って、アキラは怪訝な思いに頭を傾けた。
「進藤？」
「‥‥あ、うん、いや、いいんだ。なんでもない」
ヒカルが笑う。
困ったような、今にも崩れてしまいそうな笑みに、アキラは途方に暮れた。

アキラには、ヒカルがよく分からなかった。
感情表現が豊かで分かりやすそうなものなのに、不可解な言動も、意味ありげな笑みも、アキラには理解できなかった。
同じ６年生で、底知れない強さを持っていて、にもかかわらず自分より幼くすら見える〈進藤ヒカル〉。
アキラには、〈進藤ヒカル〉が分からなかった。
だからこそ、こうして、どう答えていいのか分からなくなるのだ。

「進藤‥‥」

改札から吐き出されてきた人達が、二人の左右を足早に通り過ぎていった。

ヒカルがニコ、と笑った。
「オレたち、ジャマんなってるな。ごめんな、遅くまでつきあわせて」
そう言って、踵をかえしかけたヒカルを、アキラは思わず呼び止めた。
「進藤！」
ヒカルが振り返る。
アキラは言った。
「もしまたボクと打ってくれるなら！ボクはボクの前の席をいつも空けておくから！」
だから、また自分と対局してほしい。
真剣な思いでまっすぐに、アキラはヒカルを見つめる。
その目の前で、うーん、とヒカルは苦笑しながら唸って、それから言った。
「うれしいけど、空けとかなくていいよ」
「どうして‥‥っ?!」
「だって、いつになるか分かんないし、それに」
ヒカルはまっすぐにアキラを見つめて、笑った。

「おまえの前に誰かいても、オレが打ちたくなったら、そいつ蹴倒してでもおまえの前に座るから」

「分かった」
だったら自分は、ヒカルをその気にさせられるよう、上を目指そう。
アキラがヒカルを望むほどに、ヒカルがアキラを望んでくれるように。

ヒカルと別れて、アキラは当初の予定通り、碁会所へと向かった。
ずいぶんと遅いアキラの到来を、市川と芦原が入り口まで出てきて出迎えた。
よほど心配をかけていたようだ。
「ずいぶん遅かったのね。心配してたのよ、お宅に電話しても帰ってないって言うから」
「ごめんなさい」
「アキラ、学校で居残りさせられてたのか？」
「芦原さんてば、アキラくんが居残りなんてさせられるはずないじゃないっ！」
市川が芦原をキッと睨みつける。
アキラはいたたまれず、終始顔に笑みを貼りつかせていた。

「アキラくん、学校で何か用事でもあったの？」
市川に尋ねられて、アキラは曖昧な笑みを浮かべた。
「う～ん‥‥まあ、そんなとこ」

それは〈嘘〉だ。
けれど、いつもなら負い目すら感じるはずの〈嘘〉が、どういうわけか心にくすぐったかった。
ワクワクしながら誰かと秘密を共有するような、そんな感覚。

「‥‥‥アキラくん？」
「ごめんなさい。心配かけて」

アキラの顔が自然とほころぶ。
そんなアキラに、市川と芦原は不思議そうに顔を見合わせていた。

「アキラ。一局打つか」
「うん」

アキラは市川にランドセルを渡して、芦原についていった。

二人を見送ってから受け取ったランドセルしまおうとして、市川はそれに気がついた。

「‥‥‥‥あら？」

ランドセルの角がこすれて、灰色の粉がついている。

「そうよねぇ、アキラくんだって小学生なんだものねぇ」
道草をしないアキラが、どこで何をしてきたのやら。

市川は楽しげに微笑んで、いつもの席に収まった小さなおかっぱ頭を眺めるのだった。

2002.2.15