Little Happiness＋
〜ささやかな幸せ　また別の日〜




「‥‥やっぱり、降ってきたか」




棋院前、建物と建物の狭間に覗く、鈍色の空。
みっしりと詰まったダークグレイの雲を見上げて、アキラは溜め息をつく。



朝、家を出る頃からすでに、空には厚い雲が広がっていた。
天気予報の降水確率は４０％。降るかどうか、微妙といえば微妙な数値だった。
玄関を出たところで、アキラは躊躇したのだ。
日射しの欠片すら見あたらない、どこか沈んだ生まれ育った町。
湿ったような空気の匂いが、鼻先をかすめた。
いつもなら、母の明子が有無を言わせず傘を持たせただろう。
けれどその彼女は、夫と海外へ出かけていて、家にはいない。

迷ったあげく、アキラは家の中へと引き返し、折り畳み傘を手にした。



その予感が当たったのは確かに幸運だろうが、それでもやはり、降られると気分は重い。
薄暗い正面玄関の屋根の下で、アキラは鞄から傘を取り出し、ばさばさと広げた。


その時だった。


「うわっ、雨振ってるじゃん！うわ、寒っ！」


「進藤‥‥‥‥？」

聞き馴染んだ声に振り返り、アキラはつぶやくように名を呼ぶ。
ヒカルはきょとんとした顔でアキラを見つけると、人好きのする笑顔を見せて近づいてきた。
「塔矢！」
「手合い、終わったの？」
「ああ。おまえ、今帰り？手合い、もっと前に終わってたよな」
「取材受けてたんだ」
「ふうん。あいかわらずなこって」
揶揄を含んだようなヒカルの口調を、アキラは敢えて聞き流した。

ふと、ヒカルの手元を見て、アキラは尋ねた。
「‥‥進藤。キミ、傘は？」
「カサ？ないよ。だって朝、降ってなかったし」
「天気予報で降ると言っていただろう？」
「見てこなかった」
簡潔である。

アキラは開きかけていた傘を開くと、ヒカルの頭上に差しかけた。
「どうぞ。駅まで一緒に行こう」
「ええ？いいよ、走ってくから」
ヒカルが戸惑うように一歩引く。
それを追って、アキラは一歩踏み込んだ。
「なに言ってるんだ。この寒空に濡れたら風邪をひくぞ」
「駅、すぐそこだぜぇ？」
「わざわざ濡れることはないと言ってるんだ。ほら、行くぞ」
アキラは空いた手でヒカルの腕をとり、雨の中へと踏み出した。
「ちょ‥‥おいっ、塔矢！」
引きずられるように、ヒカルがついてくる。
それでも、アキラの強引さに観念したのか、はたまた雨に濡れてみて懲りたのか、おとなしく傘の下に収まった。

頼りない小さな傘の下、アキラとヒカルは寄り添うように、雨に濡れた坂道を下っていった。
「それにしても、さっむいよなー」
ヒカルがハアッと息を吐く。
花見の盛りは過ぎたというのに、ヒカルの口元からはうっすらと白い靄が生まれ、大気に溶けていった。
「昨日はすっげェあったかかったのに」
「うん。暑いくらいだったね」
「暑かった暑かった！だからオレ、今日上着置いてきたのにさ。やられたよなー」
そう言ったヒカルは、確かにシャツ一枚だ。
「春の天気は不安定だからね。仕方ないよ」
そう言うと、ヒカルは、むー、とわけの分からない音で唸り、傘の縁を見上げた。

骨の先から、雫がぽたぽたと連続して落ちていた。

「‥‥塔矢、おまえ肩濡れてんじゃん」
「え？ああ‥‥」
アキラは曖昧に答えた。
自分の肩が濡れていることなど、アキラはとっくに知っていた。
傘が小さいのだ。十七才の男二人を覆うには。
どちらを優先すべきか────誘った身としては、相手を優先するのは当然だろう。
けれど、ヒカルはそれが気に入らないようだった。
「なんだよ、傘の持ち主が濡れたらおかしいだろ」
ヒカルが指先で傘の縁を押してきた。
傘が傾き、ヒカルのシャツ一枚の肩が雨に晒される。
その傾きを、アキラは再びヒカルの上へと戻した。
「いいんだよ。ボクは」
「よくねェよ」
「いいんだってば。ボクは上着を着てるんだし。濡れたって大したことはない」
「大したとか、そうゆう問題じゃなくてだなっ────」
「そうゆう問題だよ。傘はボクのなんだし、どうさそうとボクの自由だ」
ヒカルが濡れないように気をつけてやっているのに、何が気に入らないのか、アキラには分からない。
横目で顔をうかがうと、ヒカルは不本意そうにアキラを睨んでいる。
アキラは軽く吐息をついた。

「‥‥分かったよ」
「え？」

アキラは傘を反対の手に持ち替えると、空いたその腕をヒカルの体にまわして抱き寄せた。

「ほら、これならいいだろ」
「な‥‥‥塔矢っ?!」
ヒカルはギョッとしたように体を固くし、次の瞬間、猛然と暴れ出した。
「進藤っ！暴れるな！濡れるだろうっ」
高めに掲げた傘がグラグラと揺れる。
「だったら放せよ！」
「放したら濡れるだろうが！」
「だからって恥ずかしいことすんじゃねェよっ」
パシャパシャと、踏鞴を踏むたびにアスファルトを流れる雨水がはねる。
結局、力いっぱいもがく男１人を片手では抑えきれず、ヒカルはアキラの腕を振り切って雨のただ中へと走り出した。
「進藤っ！」
「お先！」
晴れ晴れとした笑顔でヒカルは手を振ると、弾むような足取りで坂道を駆けていった。
ヒカルの足下を、水飛沫がキラキラと踊る。
「待て！進藤」
アキラも後を追って駆けだした。





交差点脇の地下鉄入り口に飛び込むと、先に行ったはずのヒカルが待っていた。
ヒカルは髪の先に雫をつけたまま笑っていた。
「なんだよ塔矢、傘持ってるくせになんで濡れてんだよ」
「誰のせいだと────」
「オレ？」
「‥‥‥‥いや」
アキラは喉の奥から返事を絞り出す。
走ったのは自分であって、ヒカルのせいではないのだ。
ないけれど、理不尽な気分は拭いきれない。
「まったく‥‥何故ボクはいつもキミに振り回されてしまうんだろうな」
「オレのせい?!」
「キミのせいだなんて言ってない」
「じゃ、なんで怒ってんだよ」
「怒ってなんかいないっ」
吐き出すようにそう言って、アキラは手にしていた傘を畳みだした。


同じように雨に降られたのだろう人々が、首を縮めたような格好で次々と駆け込んでくる。

アキラが傘を畳み終わるまで、ヒカルはずっと傍らに立っていた。


「なあ‥‥塔矢、これからヒマ？」
アキラが傘のベルトを留めるのと同時に、ヒカルが声をかけてきた。
「‥‥特に用事はないけど」
「じゃあさ、これから打たねェ？」
アキラは、一段降りたところに立つヒカルの顔を見下ろした。
「‥‥どこでもいいかい？」
「いいけど。どこ？」
「ボクの家」
「碁会所じゃねェの？」
「こんなに濡れたままで行ったら、他のお客さんに迷惑だろう」
「‥‥着くまでに渇かないかな」
「無理だろうね。この湿気じゃ」
やっぱムリか、そんなことをつぶやきながら、ヒカルは濡れた自分の金の前髪を一房つまんだ。

アキラ自身、頭の上から足の先まで、全身しっとりと濡れていた。
髪が顔に貼りつくのがうっとうしい。
ヒカルと打ちたいのは山々だったが、これからさらにどこかへ寄ろうというのも億劫だった。
だから、自宅へ誘った。
そこなら、誰に気兼ねすることもなく、思いきり打てる。
────唐突なヒカルの誘いに意味があるのかどうかが気になるところではあったが。

アキラは階段を下り始めた。
ヒカルがすぐに隣に並んだ。

「今日、先生は？」
「例によって出かけてる。母もね」
「なんだ、おまえまた独り暮らししてたんだ。言ってくれたら遊びに行ってやったのに」
「遊びにって‥‥子どもじゃないんだから」
「でも、楽しいじゃん」
「静かな中で棋譜を並べる方がずっと気楽だよ」
「それって、サミシクない？」
だから、子どもじゃないんだから────そう返そうとして、ふとアキラは逆に訊いてみた。
「‥‥キミは、寂しいの？」
「なにが？」
「一人だと、寂しいのかって」
「オレぇ？」
ヒカルの驚いたようにあげた声が、地下鉄の構内に響く。

アキラとしては、続けて「寂しいわけないだろっ」と反論されるものと予想していた。
けれど、ヒカルの反応は随分と違っていた。

ヒカルは前を向いて歩きながら、困ったように笑って言った。
「う〜ん‥‥オレは、サミシイかな？」
「‥‥キミ、一人で暮らしたこと、ないよね？」
「ないよ。でも、いつも一緒にいた人がいなくなるのは、サミシイじゃん？」
「それは‥‥そうだけど」
アキラは居心地悪く言葉を濁す。

ヒカルは時々、不思議な表情を見せる。
そうなるともう、アキラはそれ以上踏み込めないのだった。

「塔矢先生達、いつ帰ってくるんだ？」
ふいに耳に飛び込んだヒカルの声に、アキラははたと意識を戻した。
「ああ‥‥とりあえず１週間くらいって言ってたよ。でも父がかなりのめり込んでるみたいだから、もう少し伸びるかもしれないって、母が言ってた」
「電話？」
「うん。たまにだけどね」
「そっか‥‥なら、サミシイわけないか。いいなー、一人暮らし！オレもしてみてェ」
「キミねえ‥‥」
矛盾しているじゃないか、とアキラは呆れてヒカルを振り返る。

「なに？」
「‥‥いや」

ヒカルを見て、アキラはほっと一息ついた。
ヒカルが、いつものヒカルだったからだ。





蒸し釜のようにじっとりと湿った電車の中で、二人はとりとめもない話をぽつぽつと交わした。
それはもっぱら碁の話だったけれど、なにしろ共通点がそれしかないのだから仕方がない。
それでも、話そうと思えばいくらでも話題はことかかなかったし、アキラにしてみれば一番話しやすい内容でもあった。
「こないだの緒方先生のさあ、あれ、どう思う？」
「ああ、碁聖戦の１２１手目？」
他人が聞いてもきっと分からないだろうくらいに言葉を省略しても通じる。それが、心地いい。
なによりそれは、ヒカルがそれほどまでに囲碁の世界に身を浸しているということの証明でもあったから。


────５年前の、あの日。
ヒカルに２度目の対局を申し込んだあの日も、途中で雨が降ってきた。

あの時のヒカルは、きれいな爪をしていた。
タイトルなんて、と囲碁を道端の石と同程度に考えていた。

────その少年が今や、期待通りにアキラを追い、アキラと並ぶまでになった。


「この前の倉田さんの一局もすごかったよね」
「ああ、あれだろ。名人戦の」

ヒカルと出会えたことは、たぶん人生最大の〈幸運〉だ。

「そういえばおまえ、この前越智をトイレにこもらせたろ」
「越智君を？」
「負かしただろってこと。アイツ、負けるとトイレにこもるんだよ」
「そうなの？」

アキラが驚くと、ヒカルは悪戯っぽく笑った。
悪いと思いつつも、アキラもつられて笑ってしまった。

「越智君はまだ甘いところがあるからね。勝てるよ」
「おまえ、サラッと容赦ないよなあ‥‥」

濡れた髪も、重い上着も、湿った足下も忘れるくらい、アキラはヒカルとの会話を楽しんでいた。






電車を降りて外へ出たとたん、ヒカルが大きなくしゃみをした。
「ほら、だから濡れると風邪をひくって言ったんだ」
「そんなすぐにひくかよ！空気が変わったせいだろ」
「ボクは平気だ」
「んじゃ、塔矢が鈍感なんじゃないの」
「進藤！」
怒鳴ったとたん、急に喉の奥が引っかかり、アキラも一つくしゃみをした。

「塔矢だって、くしゃみしたじゃん」
「う、うるさいな‥‥‥っ」

改札を抜けて歩きながら、アキラは再び折り畳み傘を開いた。
「ほら、進藤」
傘を差しかけると、ヒカルは困ったような顔をした。
「もう濡れてんだから、ささなくても同じじゃねェ？」
「同じじゃない」
きっぱり言い切ると、ヒカルは渋々といった感じでおとなしく傘の下に収まってきた。
「行こうか」
アキラはヒカルを促して、雨の町へと歩き出した。


「あ、この前ここで曲がったんだ」
十字路のひとつにさしかかった時、ヒカルが傍らの道に視線をめぐらせた。
「この前？」
「去年。社と来た時」
「‥‥なぜあの地図で、ここで曲がるんだ」
「しょうがないじゃん。曲がっちゃったんだから」
「‥‥‥‥‥‥」
もちろん、アキラはその道を曲がらず、家路をまっすぐにたどった。



ただ、雨の音だけが響いていた。



家々に挟まれた道路は、水煙にやわらかく霞んでいた。
車も通らない。人影もない。
アキラもヒカルも自然と言葉少なになっていた。
パツパツ、と雨が傘に当たって軽やかな音を立てていた。


ヒカルはずっと辺りを見回していた。
「進藤、何を見ているんだい？」
「なにって、別に。なんも見てねェよ」
「でも、きょろきょろしているじゃないか」
「だって、いつもと違う感じがするんだよ」
「‥‥同じ道だろ？」
「そうなんだけど‥‥‥雨が降ってるからかな。ああ、ほら、いつもは桜とか咲いてないし」
ヒカルの視線の先を追うと、一軒の家の八重桜が、薄ピンク色の花房を塀の外にまで見事に広げていた。

「‥‥進藤でも、季節の変化に目がいくんだ。ものすごく意外だけど」
「おまえなあ。すっげェ失礼だぞ、その言い方」
ヒカルが不機嫌そうに唇を尖らせる。
「誉めたんだよ」
アキラは小さく笑った。

見慣れた町。毎日のように通る道。
いつのまにか慣れすぎて、気づかなくなっていた。

あちこちの塀の内からこぼれ出た、濃淡様々な八重桜。
水たまりに浮かぶ大振りな花びら。
噴水のように吹き上げ流れ落ちる、真っ白な雪柳。
瑞々しく輝く新緑。

モノトーンの世界にあって、それらは雨を喜ぶかのように鮮やかに生命を謳っていた。
そして同時に、鮮烈な色彩を伴って、アキラの心に焼きついたのだった。




雨の中、塔矢邸はただひときわ沈黙を保っていた。
鍵を開けて、玄関をくぐると、ひんやりとした空気が廊下の向こうから出迎える。
「進藤、ちょっと待ってて」
アキラは慌ただしく家にあがると、タオルをとりに部屋の奥へと急いだ。
いつもの場所から何枚かまとめて引っぱり出し、走って玄関へと立ち返る。
アキラは持ってきたタオルを玄関に立ち尽くすヒカルに押しつけた。
「とりあえず拭いて。今、お風呂を沸かしてくるから」
「や、いいよ、そこまで────」
「いいから、とにかく拭く！」
アキラはヒカルの手の内から一枚を取り返して広げ、ヒカルの頭をすっぽりと覆った。
タオルの上から無造作に髪をかきまわすと、ヒカルが慌てたようにアキラの手を止めようと手を伸ばしてきた。
「塔矢っ！自分でやるっ、自分でやるから‥‥っ」
アキラが手を放すと、ヒカルはタオルの下から上目遣いにアキラを見上げた。
「‥‥おまえ、ランボー」
「靴下は脱げよ。足、ちゃんと拭いてから上がっておいで」
「へーい」
ヒカルは片手でがしがしと髪を拭いた。

雨の匂いがした。





風呂に湯をためている間、部屋に暖房を入れ、その部屋にヒカルを放り込んでから、ヒカルが着られそうなものを探しにいった。
「とーやー、そんなに気ぃつかうなよー」
ヒカルの声を聞き流しながら、アキラは来客用のタンスを探り、ほんの少し迷って、紺の浴衣を引っぱり出す。
と、居間からまた、くしゃみが聞こえてきた。
「進藤、寒い？」
居間に戻り、尋ねる。
寒くない、とヒカルは鼻をすすりながら答えた。
アキラはヒカルに浴衣を手渡して背を押した。
「とりあえず、シャワー浴びてあったまっておいで。浴びてるうちに湯船のお湯も溜まると思うから」
「おまえは？」
「ボクは後でいいよ。あいにくボクは鈍感だそうだからね」
「おまえ、いつまでも根に持ってんじゃねェよ。コトバのアヤだろ」
「つべこべ言ってないで、早く行ってこい！場所は分かるだろっ」
思わず怒鳴りつけて、アキラはヒカルを部屋の外へと押し出した。
「でも、塔矢だって────」
「だったら、一緒に入ろうか？ボクはいっこうにかまわないけど」
「や、いいです！行ってきますっ！」
ヒカルは脱兎のごとく、廊下を走っていった。
「まったく‥‥‥」
世話がやける。
アキラは溜め息をついてストーブの前に近寄った。

クシュッ

「あれ‥‥‥‥‥？」

アキラは鼻をすすり上げた。




「塔矢ぁ、オレ、浴衣の着方って分かんないんだけど」
十分ほどたって、洗面所の方からヒカルの声が届いた。
台所にいたアキラが廊下に顔を出すと、ヒカルがほんのりと火照った顔を覗かせていた。
「前を合わせて帯を締めるだけだろう？」
アキラはヒカルの元へと向かう。
「それができないから言ってんだろ」
「なにを開き直ってるんだか────」
そうして見てみれば、確かにひどいもので。
アキラは思わず溜め息をついてしまった。
「しょうがないじゃん、着たことないんだから」
アキラは黙ってヒカルの腰の帯を解き、両襟をつかんで前を合わせ直した。
されるがままのヒカルに抱きつくように、手早く帯を渡して巻きつける。
ものの１分とかからなかった。
「‥‥ほら、できたよ」
「サンキュ」
ヒカルが照れたように笑った。

「濡れた服、吊しておいたほうがいいね。どこ？」
そう言うと、ヒカルはさっさと自分の服を取り上げた。
「いいよ、自分でやるから。それよりおまえも早く風呂入れよ。おまえの体、すっげェ冷たいぞ」
「そうかな」
自分ではよく分からないので、なんとなく首を傾げる。
するとヒカルはアキラの背後に回り、背を押して洗面所へと押し込んだ。
「ほら。オレのことはもういいから。自分が風邪ひいたらシャレんなんないだろ」
「ああ‥‥じゃあ、着替えを────」
「いいって。オレが持ってきてやるよ」
「どこから？」
「‥‥‥‥‥‥‥‥どこ？」
誤魔化すように笑ったヒカルを、アキラは冷ややかに一瞥する。
あいかわらず、深く考えないところが彼らしい。
「‥‥進藤、やかんのお湯をポットに移しておいてくれる？」
「分かった」
アキラは自分の部屋へ行き、着替えを出し、ふと思い出して、ハンガーを２本引っぱり出した。
洗面所へと戻ると、ヒカルはいない。
台所をのぞくと、ヒカルが言われたとおり、ポットに湯を入れていた。
見れば、濡れた服が足下に山を作っている。
アキラに気づいて、ヒカルが顔をあげた。
「塔矢。早く入ってこいよ」
「‥‥ハンガー。洋服、ちゃんとかけとけよ。皺もちゃんと伸ばすんだぞ」
「おまえ、お母さんみてェ」
「誰のせいだ、誰の」
「オレ？」
「他に誰がいる」
アキラは冷ややかに言い置いて、ヒカルに背を向けた。

浴室の前で、シャツを脱ごうとしたその時、突然ドアが開いた。
「塔矢、服、どこにかけとけばいい？」
「っ‥‥‥‥‥‥?!」
アキラはギョッと振り返った────シャツを脱ぎかけた格好で。
ヒカルが不思議そうな顔をした。
「塔矢？」
「‥‥居間の鴨居に、かけといてくれればいいから」
「分かった」
来た時と同じように、ヒカルが出ていった。
閉じられたドアを見つめたまま。
アキラはしばらく、茫然と固まっていたのだった。





雨は、まだ降り続いていた。

「あ、塔矢」
ヒカルがいつの間に出してきたのか、碁盤に向かい石を並べていた。
「それ、なんの棋譜？」
盤面を覗き込みながら、アキラは向かい側に腰を下ろす。
「オレの。今日の一局」
「ふうん‥‥‥‥」
引き込まれるように石の流れを追っていたら、傍らにお茶を差し出された。
「ああ、ありがとう」
「なに？一緒に検討してくれんの？」
「ここのツギなんだけど────」
「うん────」

サアァァ‥‥‥‥ッ、と、雨音が鳴り渡る。
タンタンタン‥‥、と、庇に雨粒が落ちる。
パタパタ、と、時折窓に打ちつける────雨。

「ここは、ノゾくよりこっち手を入れた方がいいんじゃないか」
「ああ‥‥でもそうするとここがさ────」

暖かい部屋で、思う存分言いたいことを言い合うひととき。


いつのまにか、窓の外には夜の闇が訪れていた。





「うわ、もうこんな時間かよ」
検討が一段落したからか、はたまた腹時計に導かれたのか、ヒカルは時計に目を向け声をあげた。
「まだ雨、降ってるみたいだね」
アキラは席を立ち、窓に近寄って外をのぞいた。
曇った窓を少し手で拭いて、目を凝らす。
暗くてほとんど見えなかったが、音を聞くかぎりでは、あまり変わってはいないようだった。
「うう〜、今から帰るのめんどくせぇ〜」
ヒカルの声に、アキラは振り返る。
ヒカルがばたりと仰向けに寝転がっていた。
「腹もへったし〜‥‥って、なんで笑ってんの」
「いや‥‥‥‥なんか、かわいいな、と思って」
これでも我慢したほうなのだが、顔が緩むのは止められない。
「かわいいとか言うな」
ヒカルが不本意そうに、下から睨みあげてくる。
アキラは笑みを堪えながら、窓から離れた。
「なにか食べていくかい？出前でも取ろうか」
「オレ、ラーメンがいい！」
弾かれたように、ヒカルが体を起こした。
「‥‥キミ、ラーメン好きだね」
「うん」
苦笑するしかない。
「じゃあ、家に電話しておけよ」
そう言ったら、ヒカルがさも名案とばかりに目を輝かせた。
「あ、だったらさ、泊まってっていい？まだ一局も打ってないしさ」
「‥‥ああ、いいけど‥‥‥‥」
「やった！じゃ、電話借りるな！あ、出前の電話もオレするよ。ついでだし。塔矢もラーメンでいい？」
「ああ‥‥うん────」
「分かった」
ヒカルは元気よく部屋を飛び出していった。

「まったく‥‥‥‥‥」
ヒカルを見送って、アキラは軽く吐息をつく。
さっきまでへたっていたのは、どこの誰やら。
変わり身が早いというか、現金というか。
「布団、出さなきゃな‥‥‥」
そうつぶやいて、ふと思った。

確かに、『楽しい』かもしれない。

アキラは、雨音のする窓の外を見やった。
雨は変わらず、しとしとと降り続けていた。






出前のラーメンを食べて、後片づけをして。
そのあと、何度も対局した。
早碁にしたわけではないのに、ヒカルと打つといつもより手が逸り、自然と対局数も多くなった。

「あああぁあっ！もうっ、負けましたっ！」
「もう一局打つ？」
「打つ！」

それが、何度繰り返されただろう。

気づいた時には、とっくに日付は変わっていた。



雨は降り続いていた。











「‥‥もう寝るかい？」
何局目かの対局が終わろうという頃、アキラが声をかけた。
胡座の膝に頬杖をついて盤面を睨むヒカルの瞼が、なんとなく重たいように見えた。
んー、とヒカルが鼻にかかったような生返事をした。
「これ、最後まで打ったらな」
「いいよ」
そう答えて、アキラは思考の鈍さを追い払おうと軽く頭を振った。


パチ


パチン


パチ

パチ





「‥‥ありません」
間もなく、アキラは頭を下げた。
やはり、頭がうまく働いていないらしい。簡単な死活を見逃した。
吐息をついて、アキラは盤上の石を片づけだした。
「‥‥‥進藤？」
ヒカルの手が伸びてこないのに不思議に思って見れば、見事にうたた寝をしている。
「進藤」
強めに声をかけると、ヒカルははたと顔をあげた。
「寝るなら布団で寝ろよ。風邪ひくぞ」
「寝てねェよ」
「寝てたよ」
「寝てない！」
ムキになるところが、まるで子どもだ。
「‥‥あれ、終わったんだっけ？」
ヒカルは黒石だけが残された盤上を見てつぶやいた。
「やっぱり、寝てたんじゃないか」
「寝てないってば」
そう言って、ヒカルは石を寄せ集め、碁笥に戻した。

蓋をして、碁笥を碁盤の上に載せる。

「‥‥布団を敷こうか」
アキラは立ち上がった。




客間に布団を出してやって、アキラは自分の部屋に戻った。
自分の布団を出して、いつものように敷く。

ちょうどパジャマに着替えたところで、ふいに襖をたたかれた。

「はい？」
「塔矢、開けて」

不思議に思いながら開けると、向こうに布団を抱えたヒカルが立っていた。
「よっ。一緒に寝ようぜ」
「し‥‥‥‥進藤？」
「ほら、どけよ」
ヒカルは悪戯を企む子どものように笑って、アキラの返事を待たずに中へ入ってきた。
「布団って便利だな、好きな場所で寝られるし。あ、塔矢、そっちに詰めて」
「キミ、なんで‥‥‥‥っ」
「修学旅行みたいで楽しそうじゃん？」
「楽しいって────」
寝るだけなのに、楽しいもなにもないじゃないか────そう言おうとヒカルを見下ろして、目が合った。

「なに？ダメ？」
「や‥‥‥ダメってわけじゃ‥‥‥‥」
「なら、いいじゃん」

ヒカルはさっさとアキラの布団を脇へ避け、自分の分を広げた。
「ほら、塔矢。寝るぞ」
「あ、ああ‥‥‥」
嬉々として言われては、返す言葉もない。

「‥‥‥電気、消すよ」
「うん」

部屋に、闇が訪れる。

障子越しのほのかな明かりを頼りに、アキラは自分の布団に潜り込んだ。
「へへっ」
ヒカルの漏らした声が、空気を微かに震わせた。
「‥‥おやすみ」
「おやすみ」
暗闇の中、ヒカルがこちらを向いているのが気配で伝わる。
きっと、笑っているのだろう。

まあ、いいか────。

アキラは天井に向かって、深く息を吐きだした。





その暖かさに、ふと、アキラは眠りから覚めた。

「ん‥‥‥‥‥‥‥」

寝返りを打とうとして、傍らの〈それ〉に触れる。

なんだろう。
ゆっくりと目を開け────

「‥‥‥‥‥‥‥‥‥」

進藤‥‥‥‥？

鼻先を、ふわふわとやわらかな髪が掠める。

「んんん‥‥‥」
ヒカルが呻いて、アキラの胸元に額をすりつけた。

軽く握られた手。
胎児のように体を丸めて、安らいだ寝息を立てて。

────いつの間に、潜り込んできたのやら。

アキラは微笑った。

起きたら、どんな反応をするだろう。
それとも、起きる前にちゃんと自分の布団に戻るんだろうか。


アキラは上掛けの端を持ち上げて、今にもはみ出しそうなヒカルの体を包み込んだ。

その腕で、そっと抱き寄せる。

ヒカルがぬくもりを求めるように、アキラのパジャマにしがみついてきた。




雨音が響く。

その音はやさしく塔矢邸を包み込んでいた。



明日は晴れるといいな────。



いつしか、アキラは眠りの縁に落ちていたのだった。
2003.4.22





…というわけで、20000Hitキリリク話でした。
アキヒカをねらってみたのですが…あうう、はきちがい。
お題、キリリク初心者の月城のために、自由が利くようにと随分考えてくださったというのに、まあ、てこずりました。い、いいのか、こんなんで…。
でもいちおう、リクくださったちゃちゃさんからは寛大にもＯＫいただけたので、お披露目です。

…所詮、リクいただいても、月城にはこの辺りが関の山(逃亡)。